「うっ」
入口で見張っていた男が、声にならない声と共に中へ飛んできた。文字通り空中を、体を「く」の字に曲げて。誰かの拳か蹴りをお腹に受けて吹っ飛ばされた――そうとしか見えない。
「うわっ」
黄色シャツの男がよける。リーダーは、空中の仲間に蹴りを入れた。蹴られた水色シャツの男は、私の上を飛び越えて、後ろの床にズンと沈んだ。私の上に落ちたらどーするのよっ。
「物騒な挨拶だな」
ドスの効いた声は、私ではなく入口にすらりと立つ人物に向けたもの。
「手厚いもてなしには、それなりの返礼をしなくてはな」
張りのある、温かな声。どんな状況でも安心させてくれる。この人がいれば、絶対に大丈夫だって。
一輝さん――。
目が合った。縛られた私を見て、怒りの炎を燃え立たせている。飛びかかった黄色シャツの男をいなし、一撃でノックアウト。つ、強いっ。
「ほぅ、噂は当てにならんな。大したお坊ちゃまだ」
「どこの噂だ」
体格は、大人の前に出た子供くらいの差があるけど、貫禄では一輝さんも負けていない。あとはリーダー一人。この男を倒せれば……でも、ほかの二人とはレベルが違う感じがする。多分、隠し持っているものが凶暴すぎる。まともにぶつかったら一輝さんが死んじゃう!
もがいていると、足に触れるものがあった。体をねじると、後ろに寝そべっている男がしていたサングラスが、外れて転がっていた。位置関係、難しいけど……いける、かも。
「いくら価値がある女とはいえ、そのためにすべてを捨てにくるとはな。馬鹿な男だ」
「彼女を褒めたいならゆっくり聞いてやりたいところだが、あいにく時間がない。それに俺は、あんたが言うのとは別の意味での馬鹿な男でね」
「どんな意味なんだ? 聞いてやろうじゃないか」
余裕を見せつけるような男の声が響いて、私の足元のかすかな音を隠してくれてる。ん、あと少し……。
「女のためにすべてを犠牲にする生き方を、俺は否定しない……そうしたいやつは、好きにすればいい。だが俺としては」
一輝さんがゆっくりと、間合いを計るように動く。私がやろうとしていることを相手に気付かせず、ちょうどいいタイミングを教えてくれようとしている。……うん、この位置なら!
「女にすべてを捧げてそばにいる方が、性に合っているんでね。そうだろう、灯里?」
今だ!
狙いを定め、渾身の力を爪先に込めて、サングラスを蹴った。パシッと男の足に当たった。
「何っ!?」
それ自体は衝撃とも言えないようなものだけど、意識が逸れたところへ一輝さんの足技。ズダンッと倒れたのをつかんで、建物の外へ放り投げた――あの巨体を。私の位置からだと見えないけど、気絶はしていないみたいで、一輝さんを罵る言葉が聞こえてくる。そこへサイレンの音が鳴り響いて、どんどん近付くのとは対照的に、ひとつの足音が遠ざかっていった。手下を置いて逃げたらしい。
「灯里!」
一輝さんは、私を助け起こしてガムテープを剥がし、縄をほどいてくれた。その間にもサイレンの音は二台、三台と増えて、足音が消えていった方へ集中していくのがわかった。はっきりと知覚できたのはそこまで。よく知っている腕、匂い、温もり。もう大丈夫、気を抜いてもいい……。
「灯里、灯里っ」
「一輝さん、怪我、してない……?」
「俺は何ともない。お前は……」
「よかっ……」
鼻腔をくすぐるのは、夏の緑の香り。爽やかな風。ああ、煙草の火、消えたんだ――。
ごめんね、一輝さん。お話ししたいけど……ちょっと寝かせてね……。
「ああ。……ああ、助かった。……それは俺も同じだ。これからもよろしく頼む。ああ、俺が病院に連れていく。手配は頼む」
私を起こさないようにと、低い声で電話をしている一輝さん。声は右側から聞こえてくる。私は柔らかな、とても安心する匂いの座席に腰かけていて、シートは最大の角度で傾いている。ああ、彼の車だ……。
目を開けると、電話を終えた彼が長く息を吐いたところだった。
「一輝さん」
「灯里……。気分はどうだ?」
「頭痛と……吐き気が少し。でも、だいぶよくなりました」
不思議なことに、本当に、ずっと楽になった。気持ちが安定しているおかげかもしれない。一輝さんてすごいな。ありがとう……。
「もう大丈夫だ。病院に行こうな。遅くなって悪かった」
そんなに時間かかったのかな? 何か薬を打たれたみたいだから、時間の感覚もおかしくなってるのかな……。
「来ちゃ駄目って……言ったのに……」
頭の中が、また霞がかかったみたいにぼうっとしていく。自分が何を言っているのかもあやふや。頬を撫でる一輝さんの指だけが、桟橋の、ほら、ロープをひっかけておくところ……あれみたいなの。見失っちゃいけない。ここを離れたら、ゆらゆらと沖へ流されていくばかり――。
「来ないわけないだろう。発信機の信号を共有して準備をしていたから、多少は手間取ったが……」
ん? 発信機……?
スパイ映画の観過ぎですよと突っ込む元気もなく、意識の底へと落ちていく。