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第3章第6話

「灯里っ」

 手に力が入らなくなって、バランスを崩した。ベッドからずり落ちそうになるのを、彼が抱きしめて止めてくれた。

「どうしました? 戸倉さん!?」

 声を聞きつけた看護師さんが、病室へ飛び込んできた。

「今、先生をっ」

「待ってください!」

 私をベッドに戻して寝かせながら、一輝さんが制した。

「大事な話をしているので……五分、待ってもらえませんか」

 聞きたくないよ……看護師さん、先生、早く連れてきて……。

「三分なら。患者さんを興奮させないでくださいね」

「はい……」

 引き戸が閉まり、病室に静寂が戻った。

 私の中も、心の奥の扉が閉まり、静まっている。あと三分。彼は椅子に戻り、私の両手を包んだ。目に涙をいっぱいためて、一生懸命、私からYESを引き出そうとかき口説く。

「これ以上傷つけたくないんだ……。秘書も、やめてもいい。ほかのポストで働けるように取り計らう。灯里ならどの部署も欲しがる。争奪戦になるな」

「それで……一輝さんは、また一人になるの?」

 あんなに楽しそうにしていたのに。この半年、毎日一緒にいて、たくさん話して笑ってた。婚約は嘘でも、私たちの間には何かが育まれていた。それを全部、捨ててしまうというの?

「慣れている……もともと、そのつもりだったしな」

 全然、説得力がない。手に力がこもり、声には寂しさが滲み出ている。我慢していた涙も、ついにほろりとひとしずく落ちた。

 採用された日、明田部長に「一輝さんを、よろしくお願いします」って言われたっけ。何もわからず「はいっ」と答えた。あの時の部長の気持ちが、今ならわかるかもしれない。この人を放っておけない。離れてはいけない。

「私、一度引き受けたことはやり通す主義なので。契約終了の申出は、現時点ではお受けできません」

 自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。

「命を狙われてもか。もっとひどい目に遭っていたかもしれないんだぞ」

「それはそうなんですけど……でもあの人たち、私には何もしないって言ってました。私にもしものことがあったら、雇い主に殺されるって」

 彼は眉を顰めた。私が目をつけられたのは、一輝さんと行動して目立ったのもあるだろうけど、あの男たちは初めから私を狙っていたようにも思う。「あんたが手に入れば」、「執心が過ぎる」……覚えているいくつかの言葉を伝えると、彼は思案顔になった。一瞬、空気がピシッと凍って、彼の瞳に蒼い炎がメラメラと燃えているのが見えた。

「調べてみる必要があるな……今後のためにも」

「今後?」

「ああ。……俺の婚約者殿は、思いがけない足技を繰り出すおてんば娘だからな」

 彼の声が、甘く、いたずらっぽくなった。ああ、いつもの一輝さんだ!

「一輝さんっ」

 半身を起こすと、優しく抱き寄せてくれた。白い病室が、ピンク色と金色に染まっていく。ふんわり、明るい。温かい。体の隅々まで、正常に血が通う。ショックで呼吸を忘れていた私の世界が、再び鼓動を取り戻す。

「俺のそばにいるといい。守ってやる。相手が誰であろうと……灯里は渡さない」

 絶対に、と耳元で囁かれて、きゅっと身が竦んだ。底知れない響き。落ちていく、と感じた。私がかろうじてつかまっていた場所――例えば崖の途中の木の枝みたいなもの――から、そっと手を外されて落ちて……谷底で受け止めた彼に、見えない鎖でつながれる。その拘束はちっとも不快ではないから、逃げようとは思わない。多少、鎖が擦れて手首に傷ができたって、ペロッと舐めてもらえば治っちゃう。

 一輝さん。私、あなたがくれるものなら傷だって構わないの……嬉しいの。

 なんて言ったら、びっくりするよね。どうかしてる……。

 体験も感情も、生まれて初めてのことばかり。うまく説明できる言葉が見つからないから、彼の体温に身を預けて、子供のように甘える。

「私はおてんば娘で、一輝さんはいたずらっ子」

「どうしようもないな」

「どうしようもないですね」

 ベッドの中といっても、状況は全然違うのに。私たちの間に漂うものは、汗も吐息も混ざり合ったあとの時間と同じ。離れられない。契約続行を言葉で確認する代わりに、引き寄せられるように唇が近付いていく――。


 コホンッ

 引き戸の向こうから、咳払いが聞こえた。離れていく唇。夢から呼び戻されるように目を開けた。

「院長だ」

「あ、時間……」

 腕時計を見た一輝さんは、目を丸くして私に文字盤を見せた。三分どころか十五分も経過していて、二人で笑ってしまった。

「先生、すみません。どうぞ」

 一輝さんが笑いを隠せない声で呼びかけると、扉が開き、峻厳な中にも温かな笑みを湛えたお医者様が入ってきた。五十代かな? 髪に少し、白いものが混じっている。

「どうやら、仲直りができたようだね」

 幼い子供をたしなめるような声。「おかげさまで」と答えた一輝さんは、私の手を握って「見つけましたよ」と恥ずかしそうに言った。お医者様は、うんうん、と何度も頷いた。ぽかんと取り残される私。

 状況が飲み込めないんですけど?



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