院長先生は私を注意深く診察し、「うん」とにっこり笑った。
「処置が早くてよかった。ヘリで運んだのは正しい判断だ」
は? ヘリ?
私の疑問の視線に答えてくれる人はいない。先生は傍らに立つ一輝さんと私を交互に見て、立ち上がった。
「一人で抱え込む癖は治っていないようだ。戸倉さんもかな? 似た者同士というわけだ」
うんうん。一輝さんが、私を悲しませるくらいなら突き放して一人で生きるっていう方向に突っ走る人なのは、今日痛感した。
だけど、この先生、何者? 私のことまで言い当てるなんて。
いつか失うなら、離れていくなら、最初から望まない方がいい。『一番』は作らない。執着心がない。傷つかないように、拘らないで生きている振りをして、世界との間に壁を築いてきた。欲しいものをはっきり言わないのは、私は一人でいいの、と言っているのと同じ。
あ……そうか。一輝さんと私、似てるんだ。理由は違うけど、一人でいられるように自分を作ってきた。そんな二人が出会って、今では当たり前のように隣にいる。
私たちの間には、最初から、壁なんかなかった。
「先生には敵わないな」
「いくつの時から君を見てきたと思ってる」
穏やかで深い声。先生の前では、一輝さんは子供に戻ってしまうみたい。
「十歳でしたね」
十歳って……小学生じゃない。そんな時から、一体何を抱えていたんだろう。
もっとあなたのことが知りたい。そう思ったら、枕元に立つ彼の腕に手を伸ばしていた。先生に敬愛の眼差しを向けていた一輝さんは、私を見て慌てて目を逸らし、それでも手は握ってくれた。ふふ、挙動不審。照れて、咳払いしてる。かわいい。
「さて、と。邪魔者は退散するとしようか」
「あっ、すみませんっ」
今、一瞬、人前だということを完全に忘れてた! いや偽装婚約なんだから人前でいちゃくつのはお仕事の一環としても、先生に見せつけたって何のメリットもないわけで!
先生は「ハハッ」と笑って、華麗に扉へと歩いていった。うぅ、ほんとすみません……恥ずかしい。おまけに、「ああ」と立ち止まり、振り向いて言うことには、
「退院は予定通り明日。帰ってからの生活に制限はないが、ここにいる間は慎むように」
順番に意味を考えて最後で赤面した私に、先生はウインクをして出ていった。一輝さんは苦笑して見送り、ベッドに座って私の肩を抱いた。
「俺を何だと思ってるんだろうな」
「正しく理解しているんだと思います」
即座に返して、弾けたように笑った。私も、一輝さんも。
夏休みの後半に思わぬ波乱があったけど、乗り越えて、また手をつなぐことができた。絆が深まれば深まるほど、やがて来る別れは辛くなるに違いないけど、それを言い訳にできる段階はとっくに過ぎていた。失いたくないと、はっきりNOを突きつけた。
社長命令だからじゃない。辞令を直されたからじゃない。私は私の意志で、残ることを選んだ。いつかは本当にその時が来るとしても、得体の知れない力に引き裂かれるなんていや。契約終了は、一輝さんが納得できる形でなければいけない。
だから、今はちゃんと。誰も見ていなくても、恋人の振り。ただ、くっついているだけ。有益な話は何もしない。夏休みだから、いいよね。病院だしね。
「十歳の時、怪我でもしたんですか?」
「盲腸だ。腹痛ぐらい、と放っておいたら破裂寸前になった」
「それはお医者さんに怒られますね……」
これからは、痛みは全部分けてくださいね、なんて。本当の恋人なら、言ってあげられるんだけど。
「いいんだぞ。言いたいこと、我慢しなくても」
一輝さんの指が唇をなぞる。ただでさえセクシーな指なんだから、病院でこういうのは……ちょっと……。
「ん? 言ってごらん、灯里。一人で抱えるなと言われただろう? 医者の言いつけには従わないとな」
都合のいい解釈に笑ってしまった。
「うーん、何と言えばいいか。嘘やお芝居って、必要な時もあるけど、どこまで許されるのかなって」
「思ったことをそのまま言えば、その時点では嘘にならない」
明快だった。
ということは、私が一輝さんに「してあげたい」と思ったら、口に出した時点では嘘にはならない? 未来はわからないし、契約期間中に一部は実現できるかもしれない。
「嘘や芝居から、真実が生まれることもある。言った者勝ち……というのとも違うが、俺は灯里の言葉ならひとつでも多く聞きたい。聞かせてほしい。どう受け取るかは俺が判断する」
体が少々弱っているせいか、かっこよすぎる言葉に抵抗できない。ひと言ひと言の威力がすごい。特に、「俺が判断する」っていう部分。彼は、突飛なことは考えるけど間違わない人だ。
促すように耳の後ろを撫でられた。瞳が細められる。これは、「言わないと……この先どうなるかわかるよな?」って脅迫してるんだ! 先生、こういうところも注意してやってくださいー!
「言いたいことっていうか、お願いがあって。……あと、それ、くすぐったいんですけど」
「気にしなくていい」
気にします!
……ああ、もう。負けた。豊宮一輝に勝てる人間なんて、この世にいない。
「それで? 灯里のお願いというのを聞こうか」