髪を整える振りをしてうなじを撫でられ、唇が首筋へと下りていく。本格的にまずい。
「あの……一緒にいる間は、一人で無理しない、って」
「お互いにな。それから?」
右の手首を強く吸われた。やめてー! 夏だから! 看護師さんやお医者さんにも見られちゃうから!
そのまま背中を支えて、いかにも紳士的に寝かされていく。ぎょっとしたけど、さすがにそこまで。残念そうな顔にキュンとして、お願いを最後まで言えた。
「その間だけでも、一輝さんの荷物を半分持てたらいいなあ、って。あ、これは欲張りですよねっ」
笑いでごまかして、忘れてもらうつもりだった。ところが、彼はやっぱり私より一枚上手。「灯里のは俺に預けるんだよな?」と条件を出してきた。首を横に振ったらとんでもないことになりそうだから、こくこく頷いた。
「俺のはここに入れて、全部渡してある」
ホワイトデーにくれた指輪を軽く叩いて、「ここ」と――。私に言い聞かせ、自分は幸せをかみしめるように。
「ぜ、んぶ?」
「そう。俺の人生、全部」
「えっ……」
思考がストップする。判断力、急速に低下。もともと低下状態だったから、もはやゼロ。
「俺の今までと……これから。灯里はこれを受け取った時点で、全部引き受けたんだ」
どういうこと!?
一生、専任秘書でいろっていうこと? いいけど、偽婚約者も続けるの? 誰か説明してーっ!
「定年は……ないんですか」
見当外れでもなんでも、言ってみる。
「ひどいな。爺さんになってから捨てないでくれ」
爺さんとは。えーと、私が六十になると彼は六十八。
「今の時代、六十代はまだまだ若いです」
「俺は、七十代の灯里も、八十代の灯里も……百歳の灯里だって見たいんだ」
私が百歳になったら、一輝さんは百八歳。彼なら年齢に関係なく、指一本で世界を動かしてしまうだろうけど……それどころか、目をちょっと動かしただけで世界が落ちる。ああそうか、それで定年なしで偽装婚約を続けてくれと。
私の解釈、合ってるのかなあ。薬と一輝さんの二重攻撃で脳を攪拌されて、自信ない……。
「灯里」
彼は私の言葉を待っている。何か、言ってあげないと。
一緒にいられるなら、何歳まででも大歓迎。それが正直な気持ち。途中解約のチャンスは、すでに永遠に失われた気がする。今日の一輝さんは、押すのも引くのも特に冴えてる。あの男たちの言動や院長先生の注意が、彼のテクニックをパワーアップさせてしまったようで……ん?
一晩で抜ける自白剤。
明日には私は元通り。
結論。一輝さんは、私が普段言わないことを、言わせようとしている。ぐいぐい攻めてくるのは、自白剤効果のタイムリミットが、刻一刻と迫っているため。
「何だ……そういうことですか」
指輪を覆う大きな手に、右手を重ねた。我ながら気の抜けた声が出たけど、彼は嬉しそう。
「まあ……私が、元気なうちは」
「元気でない時も頼む。俺が看病する」
「一輝さんがマメなことは知ってますけどね……」
おかゆを作るとか、リンゴをうさぎの形に剥いて食べさせるとか、いろいろしてくれそう。あ、でも。
「看病だけじゃ駄目です。仕事もちゃんとしてください」
「灯里が心配で、仕事なんか手につかない」
「嘘ばっかり」
ベッドはけっこう広い。つい、彼が乗りやすいように体をずらしてしまった。当然、いそいそと乗っかってくる。お行儀よく、靴を脱いで。
「案外、丈夫だ」
「そう言いながら揺らすの、やめてもらっていいですか。ああもう、これが豊宮グループのトップだなんて」
照れ隠しにからかうと、ごろんと隣に寝転んだ。一秒……二秒……三秒……見つめられて、息が止まりそう。ここ病院だから、息が止まっても大丈夫かも……あれ? それは何か違う……。
「灯里の前では、ただの一人の男でいいんだ」
鼓動が、ひとつ飛んだ。
「すっごく攻めてきてますけど、私に何を言わせたいんですか」
ほんとにほんとの恋人なら、言うべき言葉は想像がつく。「好き」って、たった二文字を言ってあげればいい。お芝居でも、言ってほしいのかもしれない。彼は何でも全力投球だから。
でもね、それはやりすぎ。何ていうか、悲しすぎる。
お痛が過ぎますよ。
彼の頬を、ぺちぺち叩いてみた。病院のベッドという非日常の空間が、仕草を子供っぽくさせる。彼は叩かれるのも嬉しいようで、手首にキスマークを増やされてしまった。向かい合ったまま、視線を外せない。いつもなら、こういう雰囲気の時は……かなり、その、乱されてるのに。「慎むように」と言われたのを、物足りなく感じてしまうなんて。
「灯里」
「一輝さん……」
何となく、腰を後ろに引いた。彼は、ずずっと前へ来た。め、目が……夜中の色になってるー!
「ここは病院ですっ」
「知っている」
「院長先生からも注意がっ」
なおも後ずさると、お尻が手すりに当たってしまった。「危ないだろう」と手を引かれて、あっさり彼の腕の中。全身が心臓になったように激しく脈打つ。
「抱きしめることは禁止されていない」
「そうかも、しれないけど……」
あなたがこれだけで済ませるとは思えないっ。
「脈が速いな。何を想像した?」