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第3章第9話

「な、何って」

「俺には言えないことか? そんなはずないよな?」

 ……これはもう、何かのプレイだと思う。彼は明らかに楽しんでいる。

「一輝さんに言えないこと、なんて……ないです」

 は!? 何言ってるの私っ。乗せられちゃ駄目!

 それともこれこそが自白剤の効果? ううん、自白することなんてないからっ。

 もぞもぞ動くと、クスっと笑われた。窓の外は、夏の夜。休暇の七日目が終わる。明日は退院で、明後日は休暇の最終日。楽しかったなあ。一輝さん、そろそろ帰るんだろうな……。

 やっぱり今、言っておいた方がいい?

 何を?

 彼は強要せず、私をふんわり抱えてご満悦。ある意味、この体勢が強要かもしれないけど……「言わないと離さない」っていう。

 膠着状態。もうこのまま寝ちゃおうかな……。

「失礼しまーす。あらまあ」

 引き戸が開いて、看護師さんが登場した。一輝さんの胸に遮られて、顔は見えない。声は、さっき「三分なら」と言ってくれた人。怒られるっ。

「豊宮さん、ご相談なんですけど。ベッドの件でちょっと」

 彼女はこの光景を見ても動じない。てきぱきと、用件を伝えた。

「ああ……今、行きます。灯里、すぐ来るから」

 頭を撫でて、ぎゅっと手を握って、ベッドからそーっと降りていく一輝さん。薄い布団を丁寧に、肩までかけてくれた。看護師さんは、きりっとした表情の中に柔らかな微笑を混ぜて、見守っている。

 すぐ来る、と言ってくれたのが嬉しくて、「早く来てね」と言ってしまった。普段の私なら言わない。薬って怖い。

「いい子だ」

 まるっきり、病気の子供と親の会話。看護師さんは忍耐強い。私の頬を撫でてから「お待たせしました」と出ていく一輝さんに、「落ち着かれてよかったですね」と優しく言った。引き戸が閉まっていく。

「はぁ……」

 今夜は、ここに一人。

 寂しいな。

 ……ベッドの件って何だろう?


 寂しいはずの、就寝時間がやって来た。

「病院に来てまでサプライズ……」

 頭がクラクラするのは、薬のせいだけじゃない。どう手配すればそうなるのか、一輝さんは付き添いとして、ひと晩私の病室に泊まることになった。簡易ベッドは、私のベッドと並んで、左側にぴったりくっついている。

 二人の着替えや身の回り品も、過不足なく完璧なものが届けられた。真夜さんは私たちとずらして休暇を取るから、彼女が整えてくれたのかな。透子さんの可能性もある。

 今日は夕食抜きだから、あとは本当に寝るだけ。ベッドの上にしゃがんで、運び込まれた簡易ベッドをじとっと眺めた。

「何もしない」

 おとなしくパジャマに着替え中の彼を見れば、ちょっとは信じてみようかとも思うけど。流れ星がいっぱい飛んでる柄が、かわいいな……。一番上までボタンをかけて、上下きちんとパジャマを着ている姿なんて、この半年で初めて見た。

「一輝さんの『何も』って、ゼロじゃないですから」

「そうだな。劣情をいたずらに煽るようなことは……まあ、しない」

 寝転んで、右手を伸ばしてきた。彼のベッドには手すりがなくて、私のベッドは足の方にだけ手すりが付いているから、手をつなごうと思えばつなげる。

「『いたずら』と『まあ』が怪しいです」

 同じようにして左手を伸ばし、つなぎやすいように左側に寄った。

「一輝さん、ご飯食べた?」

「適当にな」

「またそれ……」

「元気になったら、一緒に食べような」

「うん」

 一緒、っていう言葉が嬉しい。一緒、一緒、ずーっと……。


 変な夢を見た。場面がコロコロ変わる。背景は、暗い色の絵の具が溶けて広がっていくみたい。昼間の男たちが、一輝さんに何度も戦いを挑んでは、後退させられて……捨てゼリフを吐いては、また現れて。その姿が絵の具の中に消えたと思ったら、会社の中にいた。誰もいない。電気が消えていて寒々しい。突然、文字の奔流。一輝さんお得意の草書体が、一斉に襲いかかってきた。

「待って、そんなにいっぺんに来られても読めないっ……」

 うずくまっていると、「おいで」と腕を引っ張られた。

「灯里の居場所は、そっちじゃない。こっちだ」

 私を抱きすくめて囁くのは、毎日聞いているあの人の声じゃない。抗う間もなく連れ出され、摩天楼の天辺にいた。文字通り、屋外の一番上。足が竦まないのが不思議。

「ニューヨーク!?」

「待ってたんだ。今も待ってる」

 後ろから支えてくれている人が、自信に満ちた声で口説きにかかってきた。誰だっけ、この声。顔が見えない。首をひねって確かめようとすると――。

「振り向くと、落ちるぞ」

「え?」

 足元に何もない。支えてくれる手もない。重力に従って真っ逆さま――。

「きゃ――っ……」


「……あ」

 ぽすん、と落ちたのは布団の上。ううん、落ちてさえいなかった。ここは病院。ニューヨークではなく、日本の。私は湖のそばで攫われて、一輝さんが助けに来てくれたんだ。彼はベッドの右側に、私は左側に、ギリギリまで寄って指を絡ませている。

「一輝さん……」

 すやすや、眠ってる。

 ああ……そうか。

 手を(最後までは)出せなくても。ご飯を一緒に食べられなくても。私と一緒にいたいと思ってくれたんだ。離れない、灯里は俺が守る、って。

 安心しきった寝顔を見ていたら、とろとろ眠気がやってきて、そのあとはぐっすり。夢の続きを見ることなく、朝になった。



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