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第3章第10話

 翌朝。検査と診察の結果、帰って大丈夫ということになった。

 朝食は和食。シンプルだけど、食材の組み合わせや盛り付けにひと工夫あって、あとで再現したいなと思った。

「一輝さん、私のスマホ……って、どうしましたっけ?」

 あの男に奪われて、勝手にメールを送信されて……。

「警察が回収した。俺を呼び出すのに使われただけだから、数日後には返してもらえるそうだ。それの写真を撮りたいのか?」

 ほら、と渡してくれた彼のスマートフォンで撮影した。メールに添付して、自分のアドレスに送る。

「ありがとうございます」

「見るだけじゃなく、食べないとな」

「はい。いただきます」

「いただきます」

 彼の手には、病院の中に入っているカフェのモーニング。おいしそうに食べるのを見ているだけで、幸せな気持ちになる。私の前にある病院のお食事も、ほどよい薄味でおいしかった。栄養が、体に、心に染み込んでいく。

「ご飯っておいしいですね」

 一食抜いただけなのに、しみじみと感じる。

「そうだな」

 食べる早さが、無意識にそろう。


 一輝さんは、自分の朝食を、談話コーナーの自販機にある缶コーヒーで済ませるつもりだった。私から離れるのは気が進まないから、と言って。気持ちは嬉しいけど、何とか宥めすかして食事をとってもらわないといけない。まだ若干動きが鈍い頭で言葉を探しているところへ、「院長からです」と差し入れが届いた。カフェの紙袋には、鉛筆書きの丸っこい字でメッセージが書かれていた。

『大事なものを守るには健康第一! 食事はその基本!!』

 彼は、目をぱちくりさせていた。


「院長先生、一輝さんのことを本当によくわかってらっしゃるんですね」

 食べ終わってお茶を飲みながら、私は心の底から言った。行動もタイミングも、一輝さんがもう一人現れたんじゃないかと思うくらい、決まってる。それをやんわり言うと、「あの人は俺の目標だから」と返ってきた。

「目標?」

「盲腸で入院した時、退屈でな。周りをじっと見ていた。そうしたら、あの先生が誰のことでも実によく知っていることに気が付いた。先生がひと言声をかけるだけで、患者の顔つきが変わるんだ。生きる底力が滲み出てくる。……余命に関係なくな」

 二十三年前の光景を思い浮かべる。院長先生はまだ若い医師で、一輝さんは賢い男の子。利かん気でもあったかもしれない。

「そのわけが知りたくて、聞いたんだ。『どうしてみんなのこと、何でも知ってるの?』と。彼は短い休憩を取りにいくところだったらしいんだが、立ち止まって、俺の目をまっすぐに見た。教えてくれた答えはこうだ。『知ってるわけじゃない。見てるんだよ』」

「見てる……」

「ああ。なかなか、あの域には行き着けない」

「かなり近付いていると思います」

「灯里は褒め上手だ」

 彼はコーヒーを、私はお茶を、同時に飲み終えた。

 そっか……院長先生が私のことを言い当てたのも、一輝さんには、驚くようなことではなかったんだ。

 あ、じゃあ、あれもかな?

「昨日聞いた、私の言いたいことが何でいつもわかるのか、っていうのも答えは同じ?」

 私のことを、よく見ていてくれるから。

「それだけじゃないけどな」

 私の耳の下をくすぐって、彼は立ち上がった。寛いで、機嫌よく、自信に溢れて。

「俺はもう急がない。時間はたっぷりある」

 そうだ。おじいちゃん、おばあちゃんになっても、私が元気なうちは専任秘書兼偽婚約者でいるって約束したんだっけ。うぅ、昨日、恥ずかしいことをたくさん言った気がする……。

 まあ、とにかく。今日も、大事に生きよう。

 退院の準備をするには、まずは着替え。攫われた時に着ていたものは、届いた服と引き換えにクリーニングにまわっているとのこと。パジャマからワンピースに着替えようとして、一輝さんをちらっと見た。

「あっちを向いてる」

 ホテルなら別室に追い出すところだけど、病院ではそうはいかない。病室から出ていかせるのも悪いし……でも駄目っ、恥ずかしいっ。

「ハハッ、冗談だ。退院手続きをしてくる」

 軽やかに笑い、颯爽と、豊宮一輝が扉に向かう。

 いつか必ず、世界のすべてが彼の味方になる。


 病院から一輝さんの家までは、迎えの車で戻った。運転手は、何と幸太。彼も私たちとは時期をずらして休みを取るから、すぐに動けたのだという。幼馴染みの運転は丁寧で、揺り籠のよう。道中、一輝さんに寄りかかってうとうとした。二人の会話を、ところどころ聞いた。


「社長。俺が言うのも何ですけど……こいつのこと、よろしくお願いします」

「ああ。喧嘩をしたら仲裁を頼む」

「そんな雰囲気、二人ともないですけどね……」


「……偶然にしてはできすぎだ」

「必然ってやつじゃないんですか? 女の子は、『運命』って言った方が喜ぶでしょうけど」

「それ以前の問題に直面していてな。灯里は昔からこうなのか?」

「こう、とは?」

「鈍い……いや、何と言えばいいんだろうな」

「は? え、まさか」

「そのまさかだ。もう半年だぞ。万策尽きた」

「それにしちゃ、嬉しそうですよ……」


「……まあ正直、灯里なら、とは思ってました。あの日のあれは、ほんとに偶然ですけどね」

「末永く見守ってくれ。助言も大いに歓迎する」

「ハハッ、わかりました」


 私を温かく包んでくれる人たち。一方で、冷たい床に転がす人もいる。味方と自分を信じて生きていけば大丈夫――。



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