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第3章第12話

 お手洗いに行くからって離れた時だ! 「何か忘れてないか」って言われて振り向いたら、抱き寄せられてキスされた。彼の手が腰をするっと撫でるから、ぺしぺし叩いた。こんなところで何するのよって思ったんだけど……。

「あの時に……」

「できれば使いたくはない。プライバシーの侵害だからな。だが……」

 一輝さんは言葉を飲み込み、拳を握った。怒っていないことを伝えたくて、席を立ち、テーブルの反対側へ移動した。自然に手を取り合い、見つめ合う。

「ありがとうございます」

「灯里……」

「おかげで助かりました。見つけてくれて、嬉しかった」

「うん……」

 膝の上に横向きに座り、彼の気が済むまで抱擁に応えた。発信機の出所は聞かない。防弾チョッキといい、防弾ガラスといい、彼の背後にあるものが朧気にわかってきた。ヘリのことも。私が口を出すことでも、詮索していいことでもない。今回助かったんだから、それでいい。必要なら、彼は自分の口で教えてくれる。

 私は、一輝さんを信じている。


「なあ、灯里」

 寄り添って、体温がぴったり同じになるんじゃないかっていうくらい、長いことくっついていた。

「はい……?」

 刺激を与えるようなことはしていないのに、とろんと甘えた声になる。

「休暇は今日で終わるが……提案がある」

「提案かあ……ふふ、いいですよ。何ですか?」

 それが決定事項なのはわかった上で、尋ねる。彼は私をびっくりさせるのが好きだから。

「明日からも、ここに帰ってこないか」

「ここ?」

「ああ。俺の家に」

 俺の家に。明日からも。……え!?

「一輝さんて……ホテルが住所で、私のアパートが別荘かと」

 頭を慣らすために、冗談めかして言ってみる。

「少し前から考えていたんだ。アパートは引き払って……ここへ、住所を移さないか」

「私……ここに住んでいいの?」

 大好きな家に。あなたの、プライベートしかない場所に。

「灯里に、ここにいてほしい。危険を承知で俺のそばにいてくれるというなら、俺と一緒に……どこまでも行ってみないか」

 ドキンと胸が鳴った。一輝さんが、変わろうとしている。傷つけるぐらいなら離れた方がいいと、一度は私を突き放す決心をした人が。

「どこまでも?」

「そうだ。どこでもいい。灯里の行きたいところなら、宇宙の果てでも連れていく」

 うーん、旅行の話? 行動範囲を広げようっていうことだよね。それにしたって、普通は地球の反対側とか、世界の果てとか言うんじゃないかなあ。宇宙に飛び出しちゃうのが、一輝さんらしい。

「ありがとうございます。一輝さんが行きたいところにも、行きましょうね」

 あなたの好きなもの、好きな場所、もっと知りたい。

「俺の一番行きたい場所は、灯里が連れていってくれる……」

 彼は、宇宙飛行士に憧れる男の子のような目になった。実現までの道のりは長いけど、いつかきっと……と。自分の夢を信じて、世界を信じている瞳。ああ――彼は、見える敵も見えない敵もいることを知りながら、欲しいものに手を伸ばす気持ちになれたんだ。それが私と出会ったためなら……あなたの人生に、ほんのちょっとでも影響を与えられたのなら、嬉しいな。

 エアコンは音もなく稼働している。私の飲みかけのアイスティーが、カランと鳴った。氷が歌っているみたい。その音に、背中を押された。

「じゃあ……お世話になります。家賃はちゃんと取ってくださいね」

「あのな……」

 彼は咳払いをして、私を抱え直した。

「婚約者から家賃を取る男が、どこにいるんだ」

「さあ……? ほかの婚約は経験がないので。第一、私、お金使う場所が全然なくなっちゃいます」

 趣味には多少使っているけど、すでに衣服や化粧品は支給されているのに、この上家賃まで。多分、光熱費も受け取らない。堅実に使い道を考えるのもひとつの楽しみだったのが、ガラガラと崩れていく。

「いいんだ。いつかその金で世界旅行に出よう」

「ふふ……いいですね、それ」

 かわいい提案は、宇宙飛行士と同じレベルの憧れと思って聞いておく。一輝さんなら今でも世界旅行くらいできるだろうに、この人は仕事ひと筋だから。

「それとな」

「はい?」

「親孝行しろ。たくさんな」

 じわっと涙が浮かぶ。この人は、何て……何て、深くて温かいんだろう。

「一輝さん……」

 お礼の気持ちを、ほっぺたへのキスに込めた。ありがとう。ありがとう……心の一番奥の扉が、完全に開いてしまいそう。そこには何が入っているの? 見たいけど……見るのが怖い。今までの自分をガラリと変えてしまうものが入っているのだと思う。

 ――どうして、幸せになろうとしないの!?

 叫んでいたもう一人の私は、あのあと何を言おうとしたんだろう。

 彼は私の逡巡をよそに、穏やかに続けた。

「俺から親御さんへの罪滅ぼしだ。灯里を縛り付けてる」

「夏休みを独占したからですか?」

「もっと独占したい」

「甘えんぼさん」

 クスクス笑って、ゆったりと午後を過ごした。明日はここから会社へ出勤して、夜はホテルに戻る予定だった。それが変更になったから、荷造りの必要もない。透子さんは、まるで自分の子が結婚するかのように喜んでくれた。




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