私は今、世田谷に来ている。
なんとなく私の中で、高級住宅街のイメージが強いこの地区には、こんな風にビルが建っていて、しかもそれが稽古場になっているそうだ。
「ええと、1階,2階,3,4……5。ふぅ……あそこだ」
緊張からか、身体に妙な力が入っていたらしい。
田舎育ちだし、立ち仕事をしているような私だけれど、駅から少し歩いただけでも息が上がってしまった。
時間も時間だ。私は意を決して、入口に立っている警備員さんへ声を掛けることにした。
「
警備員さんは市杵さんから
屋内に入ると、綺麗なオフィスのようなエントランスが広がっている。
私なんかがここへ来られたのは、もちろん市杵さんのご厚意のお陰ではあるけれど、背中を押してくれたのは店長なのだ。
お昼休憩から戻った私の様子が普段と違っていたらしく、心配した店長が事情を訊いてくれたのだ。
う~ん。こういう機微を見逃さないでくれる店長の方が、よっぽど演者さんに向いている気がする……。
私にとって演劇は観るものだ。別世界過ぎるから、演じることに憧れすらない。
前になんとなく思い立って、演劇を観に行ってみたけれど、TVで観る俳優さんたちを前にしても身近に感じることが出来なかった。
皆すごく華やかだったし、舞台上が輝きに満ち溢れていたから。
けれど市杵さんが私を性別関係なく見てくれたように感じて、男性役の誘い自体は正直とても嬉しかった。
子どもの頃から抱えている何かと、決着が出来るチャンスかもしれない。そう思ったんだ。
でももちろん、理解あるこの環境を捨ててまで挑むことなのだろうかとも思い悩んだ。
だけど店長はそんな踏ん切りのつかない私に対し、挑戦しないなんて勿体ないと言ってくれた。店長には男性役についても守秘義務とかで言えなかったし、性差に悩んでいることも言えなかったけれど、
“いつでも戻ってきていいから、勇気出してこい”!
店長は私にそう屈託なく笑って、快く見送ってくれたのだ。
「うう~てんちょ~」
私は優しい店長の顔を思い浮かべながら廊下を進む。そして突き当りにあるエレベーターの前で立ち止まった。
「お疲れさまでーす」
「お疲れさまです……」
後ろから二人の若い男性の声がした。と思ったら既に目の前のボタンを押されていて、今はもう、私はエレベーターの中へと誘導されている。
「おつ、お疲れさまです……!」
「何階ですか?」
「ごごご5階です」
「ごごご5階です、だって。たいがー」
「こら」
「いて。叩くなよ、先輩をー……ん? 5階?」
不思議に思ったのだろう。二人は目配せをした。
でもすぐに調子を戻した。
「わかりました。5階ですね」
「もしかして新しいスタッフさん? ずいぶん可愛い人が来たなぁ」
「やめろ。すみません、気にしないでください。こいつすぐ悪ノリするんで」
「おいー。こいつ言うなよ~先輩だぞーたいが~。ねー?」
「あはは……」
ふーぅ、びっくりした。私と同じように5Fへ行くということは、この二人はきっと演者さんなのだろう。すごくキラキラしている。
でも容姿が整っているからとかそういうことだけじゃなくて、
そんな二人の後ろで、私は市杵さんとの約束を思って胸を高鳴らせる。
余裕なんて全くないし、素人の私がこんなことを思うのは可笑しいけれど、なんだか面白くなってきたかも……!
「あの。それ、合っています」
「え? 合っているって……やっぱり君、スタッフさん?」
私の言葉に、心配りが行き届いた二つの顔が、どこか安堵したように見えた。
「はい。今日から裏方でお世話になります、夏野です。よろしくお願いいたします」