「ありがと、たいがー」
私は扉を開けてくれている綾瀬さんに会釈しながら、上坂さんに続いてエレベーターを降りた。
二人の名前は、私がさっきエレベーターの中で挨拶をした時の流れで教えて頂いた。
ちなみに上坂さん曰く、綾瀬さんは彼女以外の女性に、愛称でも名前で呼ばれたくないらしい。彼らのファンの間でも有名なのだそう。
だから上坂さんは、私もファンの子たちと同じように、綾瀬さんの苗字と名前をもじった“せがくん”と呼んだらいいよと言ってくれた。けれど綾瀬さんもため息を吐いていたし、私も仲良くしに来たわけではないので、愛称でだなんて呼ばずに笑ってやり過ごした。
それにしても、すごいなぁ。こういう人気商売で、女性ファンにも彼女を公認されているって。
いいなぁ……。
「あっ。しゅーただ!」
言いおいて上坂さんが駆け出そうとした5階の廊下は、真っ直ぐに、それから左右にも伸びている。
正面を進んだ先に稽古場があるのだろうか。遠目からでもわかる、どこか雰囲気のある人が部屋の中へと入っていくのが見えた。
「壮吾さん……廊下走るとか子どもですか?」
「走ってないしぃー。早歩きだしぃー。ねー夏野さーん?」
綾瀬さんに呆れられながら、私はいつの間にか繋がれていた上坂さんの手に引かれて稽古場へとやって来た。
「おはようございまーす!」
「失礼しますっ」
顔を上げてみると、私と同世代くらいの男性が一人、こちらを見て固まっていた。
少女漫画に登場しそうな、線の細い男性。この
見知らぬ田舎者の私が稽古場に入って来たのだ。市杵さん曰く、スタッフさんの入れ替えも無いようなので、当然の反応だろう。
とは言え、しゅーたさんだと思われる男性は、先ほどの上坂さんたちと同じように、無粋に驚かない。上坂さんへ普段通り笑顔を向けた瞬間に時が止まったような、そんな状態に見えた。
私へ失礼のないように本心を隠してくれたのか。それともいちいち気にしていないのか。
どちらにしても、息がしやすい人だと思った。
「まさか壮吾の彼女!?」
一面にカーテンのかけられた壁が真向かいに、右手側には長机が並んでいる。
床には傷やテープの跡のようなものがいっぱい付いていて、まだ稽古を見させて頂く前だというのに、ここで鎬を削る演者さんたちの面影を感じられた気がした。
ところで私は今回、観客の方たちだけでなく、演者の皆さんにも内緒で舞台へと上がることになっている。既に演者の皆さんは稽古が進んでいて、私はスタッフとして僅かながら下積みの経験をさせてもらいつつ、別のスケジュールで自分も本番へと向けて準備をするのだ。
「違いますよ、
「夏野さんだよ、たいがー」
「ああそう……こちらは、夏野さん。もちろん壮吾さんとは、全く無縁の
困ったように頭を掻く綾瀬さんを見て、私は慌てて口を開いた。
「ご紹介にあずかりました夏野と申します。今日から裏方でお世話になるので――」
「うわ! おはようございます!」
うわ?
秀太さんの視線が私から外れた。上の方。
不思議に思って振り返ると、あの目力で私を見下ろす市杵さんが佇んでいた。腕を組んだ姿も相まって、まるで仁王像のよう。
「うわ!」
「ちゃんと名前も言え!」
「え。名前?」
「な! つ! の! こ! と! み! です! って、はっきりと言え!」
「はぁっ、はぁいっ。すみませんっ」
市杵さんに頭を掴まれて、強制的に秀太さんへ身体を向き直した私は、改めて挨拶をした。
そんな時だった。
一人分の、忙しない足音が近づいてきた。
「おはようございます! 市杵さん今日は早いですね!?」
市杵さん越しに見えたのは、金色の髪。きっとこの背の高い男性も、演者さんなのだろう。
騒ぎを聞き付けてというよりかは、目上の演出家が自分よりも早く稽古場に入っていることに焦って、急いで駆けてきた様子に見て取れた。
また綾瀬さんに迷惑をかけてもいけないし、早いところ挨拶をしなければ。
「あの、初めまして。今日から裏方でお世話になります、夏野――」
「琴美ちゃん!?」
「……え?」
私を映す瞳に見覚えがあった。
これは、既視感だ。
えっと……茶色の大きな瞳……。
「あ……流星くんだ」
目の前には、同じ園に通っていた流星くんがいた。