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2 新しい生活

第21話 バイトを始めよう

 想真は毎日仕事でいない。

 俺は撮影で泊まりの時もあって、広い部屋にひとりきりの日が多かった。

 十一月二十七日水曜日。

 今日から俺はカフェセレナーデで働く。

 この間、親に仕事を辞めたこと、バイトを始めることを連絡した。

 ちょっと怒られたけど、無理しないように言われてしまった。


『全然連絡ないし、夏も帰ってこなかったから心配してたんよ。でもあんまり構うのもね、と思ってたんだけど』


 と、母親に言われてしまった。そうだよな。心配するよな。

 全然帰ってねえもん。

 しばらく帰れそうにないけれど、その内帰ろう。

 その為にもまず、働かねえと。


「今日から仕事だよね、俐月」


 玄関で出かける前にそう、想真に言われ、俺は頷き答えた。


「あぁ、家事やったら行ってくる」


 すると想真は俺に顔を近づけてくると、額を俺の額に当てて言った。


「大丈夫、俺がいるから」


 ちょ、おま何言って……

 という言葉は口にすることもできず、俺は恥ずかしさに口をぱくぱくさせるばかりだった。


「じゃあ行ってくるね」


 と言い、想真は玄関ドアを開き、そしてゆっくりと閉じて鍵をかけた。

 俺は額にそっと触れて、


「なんなんだよいったい」


 と呟く。

 やべえ、なんで俺、ドキドキしてんだ、意味わかんねえよ。

 俺は首を横に振り、家事をやろうと振り返り洗面所へと向かった。


 十時過ぎ。俺はひと通り家事を済ませた後、俺は着替えて外に出た。

 下は黒いパンツという指定があるけど、素材は何でもいいと言われた。上は自由で黒いエプロンは貸与される。

 そのかわり夜はもう少し厳しくって、スラックスに白いワイシャツ、ネクタイだと言っていた。

 昼はラフな感じだけど、夜は確かに大人の雰囲気だったもんな。

 服装も替えるのはすごくわかる。

 今日の出勤は十時半から十六時半まで。休憩は四十五分だそうだ。

 とりあえず今週は今日と明日、土曜日出勤の予定になっている。

 勝手口があるみたいだけど、バイトも入り口から入るように言われていた。

 クローズの札が出ている入り口ドアのノブに俺は緊張した面持ちで手をかける。

 大丈夫。ここなら大丈夫だから。

 そう言い聞かせて俺は、ゆっくりと扉を開いた。

 するとカラン……と、ドアにつけられた鐘が鳴る。


「あぁ、いらっしゃい、新谷君」


 カウンターの向こう側、穏やかな声でマスターの安達秋晴さんが言った。

 あれ、マスター、今日は頭にバンダナを巻いて髪の毛を隠している。

 何でだろう、と思うけれど今はそれどころではない。


「え、あ、こ、こんにちは。今日からよろしくお願いします」


 俺は肩にかけているトートバッグの紐をぐっと握りしめ、頭をさげた。


「緊張してるよね」


 そう言いながらマスターはカウンターの奥から出てくる。はい、そうです。すっごく緊張しています。俺は強張った顔で頷く。

 俺に近づいてきたマスターは、黒いエプロンを俺に差し出した。


「はい、これ。とりあえず更衣室があるからついてきて」


 そう言われ、俺は彼の後について行った。

 カウンターの奥、キッチンとは別の扉をくぐると廊下があって、階段や扉がいくつかあった。


「上は俺の住居スペースになっていて、ここが君たちが使う更衣室兼休憩室」


 と言い、茶色の扉の前に立つ。

 そこには確かに、休憩室、という木の札が張りつけられている。


「休憩や着替えはここで。ロッカーがあるから荷物はそこにしまってね。盗まれることはないだろうけれど、鍵があるからちゃんと鍵はかけてね。じゃあ、待ってるから」


 と言い、彼は廊下を戻っていった。

 ひとり残された俺は、扉を開けて中に入る。

 靴を脱ぐところがあって、中に縦長の大きなロッカーが四つ、壁際に並んでいる。

 そのひとつには、「はまたに」と、ひらがなで書かれたラベルが貼られている。他には何も貼ってないから、この貼られてないやつのどれかを使えばいいんだよな。

 俺はロッカーを開けて、荷物とコートを押し込んだ。

 ハンガーはないから家から持ってこないとだな。

 そして俺は渡された黒いエプロンを身につけた。

 うーん、カフェの店員、って感じ。ちょっとテンションあがってきたかも。

 俺はロッカーを閉じ、鍵を閉めてその鍵を見つめる。

 どうしよう、これ、剥きだしだとなくすよな……あとでキーホルダー、なんか買うか。

 今日はとりあえず、小銭入れに放り込んでおこう。そう思い俺は、ズボンの後ろポケットにいれている紺色の小銭入れを出して、そこに鍵を放り込んだ。

 準備が済んで、俺はぎゅっと手を握りしめて靴を履いて部屋を出た。

 あー……緊張する。大丈夫、だよな。マスターは俺を傷つけるようなことなんてしない、よな。

 心の中でわずかに生まれた不安を打ち消すように、今朝の出来事がよみがえる。


『大丈夫』


 という、想真の声が耳の奥で響いてる。

 そうだよな、大丈夫だよな。そう自分に言い聞かせて俺は、店舗につながる扉のドアノブに手をかけた。

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