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第27話 お客さんとの時間

 休憩があけてフロアに戻ると、ちょうどお客さんが入ってくるところだった。

 たぶん三十過ぎの男性だ。トートバックを肩に下げている。

 その人を見たとき、俺は思わず固まってしまった。

 頭の中で前の上司の記憶がよみがえり、手が震えてきてしまう。


「新谷君?」


 背後から声がかかり、俺はハッとしてお客さんに声をかけた。


「い、いらっしゃいませ、えーと……何名様、ですか?」


 震える声で尋ねると、男性は一本指を立てて見せて言った。


「ひとりです」


「はい、えーと、お好きな席に、お座りください」


 そう声をかけて俺はカウンターに近づく。

 緊張と震えで余計の言葉が入ったけど、お客さんは特に気にした様子はなかった。

 よかった。でもよくはない。

 まだ身体は震えてるから。

 どうも俺は、ある年代の男性が相手だと特に緊張してしまうらしい。主に三十代から四十代だろうか。

 マスターは大丈夫なのに、全然知らない相手だと声が震えてしまう。たぶん、前の職場の上司と重なってしまうんだろう。

 だめだなぁ。俺……

 気落ちしていると、マスターから声がかかった。


「新谷君」


「は、はい、なんでしょうか」


 マスターが水の入ったグラスと、おしぼりがのったお盆を俺に差し出しながら言った。


「午前中よりも声が震えなくなってきたね。最初は緊張するだろうけれど、なれてきたら大丈夫だよ」


 微笑みながら言われ、俺はお盆を受け取りつつ答えた。


「そう、ですかね」


 でもさっきの俺、すっごい震えてたし今もまだ震えてる。

 そんな俺に、マスターはとても優しく語りかけてくる。


「誰だって最初は緊張するものだよ。大丈夫、ここにはアクの強いお客様は来ないし、ゆったりとした時間を愉しみたい人たちが来るところだからね」


 微笑み言われ、俺の心がちょっとだけ軽くなってくる。

 わかってる。それはわかってるんだ。

 駅から離れた住宅街の入り口。来るのは近所のお客さんが多い。年齢層も基本高めだしだからそうか、大丈夫、だよな。

 いきなり怒鳴る人なんて来るわけがない。

 わかってはいるんだけど……あの世代の男は本当に怖くてたまらない。

 いや、怖いのはサラリーマン風の男性だ。

 そういう客はここにはあまり来ないだろう。わかってるんだ、そんなことは。なのに俺は……

 でもそんな想いを押さえつけ、俺はぎこちなく笑って答えた。


「そう、ですよね。俺、頑張ります」


 そして俺は、なんとか震える手を抑え、お盆を持ってお客様に近づいた。


「し、失礼いたします」


 そう、震えた声で言いながら俺はグラスとおしぼりをテーブルに置く。

 すると男性は手を上げてこちらを見つめ、微笑み言った。


「あ、すみません、注文いいですか?」


「は、はい、かしこまりました」


 答えて俺は、慌ててお盆を脇に挟んでエプロンのポケットから伝票をとり出す。


「コーヒーのホットとワッフルを」


「えーと……コーヒーと、ワッフル、ですね?」


 伝票に数量を書きながら俺が言うと、男性客は答えた。


「はい、それでお願いします」


「か、かしこまりました、少々お待ちください」


 妙に上ずった声で答え、俺は頭を下げてそそくさとカウンターに近づいてマスターに注文を伝えた。

 だめだな……やっぱり緊張しちゃう。

 あのお客さんは全然大丈夫だろう。

 穏やかそうだし、普通の人だと思うのに俺は過剰に反応してしまっている。

 心の中に情けなさを心の中に覆い隠して、俺はなんとか仕事をこなした。

 そして閉店時間を迎える。

 十六時に一度閉店して、十八時からはバーになる。


「新谷君、お疲れ様」


 エプロンを外しながら言うマスターに、俺は深く頭を下げつつ言った。


「お、お疲れ様です」


「またよろしくね」


 とても優しい笑顔で言われて、俺はほっとしてまた頭を下げた。


「俺、まだ緊張しっぱなしだけど、頑張りますんでよろしくお願いします!」


「そうだね、すっごい緊張しているのが伝わってくるよ。でも緊張しているから、気を付けるし失敗しにくいよね」


 そう言いながら、マスターは顎に手をあてて笑う。

 そう言ってもらえるとちょっと心が落ち着いてくる。次の出勤は土曜日だ。つぎはもっとスムーズに動けるようになるといいな。

 俺は奥で着替えを済ませてそして、マスターに挨拶をして帰路につく。

 十六時半を過ぎると辺りはすっかり暗くなっている。

 吐く息は白くて、俺は着ているコートのポケットに手を突っ込んで空を見上げた。

 駅前の高層マンションに、オフィスビル群がまるで巨人のように視界を遮る。

 それでも空に星が瞬いているのはなんとなくわかった。

 今日も、想真の帰りは遅いからひとりで夕食を食べて寝ることになる。

 そうだ、もらったもこもこパジャマ、朝干したけど乾いてるかな。

 明日はあいつとお出かけできる。そう思うと心なしか足取りが軽くなっていく。

 スマホを見ると想真から返信が来ていて、俺は慌ててスマホのロックを解除した。


『別人みたいって言われると嬉しいよ、ありがとう、俐月』


 その文章の後、なぜかハートマークが飛び交うスタンプが送られてきている。

 それがちょっとおかしくて、俺は思わず吹き出した。


「なんだよこのハート」


 あいつらしい、といえばあいつらしいかも知れない。

 そして俺は、スマホをポケットにしまい、足早にマンションへと向かい歩き出した。


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