休憩があけてフロアに戻ると、ちょうどお客さんが入ってくるところだった。
たぶん三十過ぎの男性だ。トートバックを肩に下げている。
その人を見たとき、俺は思わず固まってしまった。
頭の中で前の上司の記憶がよみがえり、手が震えてきてしまう。
「新谷君?」
背後から声がかかり、俺はハッとしてお客さんに声をかけた。
「い、いらっしゃいませ、えーと……何名様、ですか?」
震える声で尋ねると、男性は一本指を立てて見せて言った。
「ひとりです」
「はい、えーと、お好きな席に、お座りください」
そう声をかけて俺はカウンターに近づく。
緊張と震えで余計の言葉が入ったけど、お客さんは特に気にした様子はなかった。
よかった。でもよくはない。
まだ身体は震えてるから。
どうも俺は、ある年代の男性が相手だと特に緊張してしまうらしい。主に三十代から四十代だろうか。
マスターは大丈夫なのに、全然知らない相手だと声が震えてしまう。たぶん、前の職場の上司と重なってしまうんだろう。
だめだなぁ。俺……
気落ちしていると、マスターから声がかかった。
「新谷君」
「は、はい、なんでしょうか」
マスターが水の入ったグラスと、おしぼりがのったお盆を俺に差し出しながら言った。
「午前中よりも声が震えなくなってきたね。最初は緊張するだろうけれど、なれてきたら大丈夫だよ」
微笑みながら言われ、俺はお盆を受け取りつつ答えた。
「そう、ですかね」
でもさっきの俺、すっごい震えてたし今もまだ震えてる。
そんな俺に、マスターはとても優しく語りかけてくる。
「誰だって最初は緊張するものだよ。大丈夫、ここにはアクの強いお客様は来ないし、ゆったりとした時間を愉しみたい人たちが来るところだからね」
微笑み言われ、俺の心がちょっとだけ軽くなってくる。
わかってる。それはわかってるんだ。
駅から離れた住宅街の入り口。来るのは近所のお客さんが多い。年齢層も基本高めだしだからそうか、大丈夫、だよな。
いきなり怒鳴る人なんて来るわけがない。
わかってはいるんだけど……あの世代の男は本当に怖くてたまらない。
いや、怖いのはサラリーマン風の男性だ。
そういう客はここにはあまり来ないだろう。わかってるんだ、そんなことは。なのに俺は……
でもそんな想いを押さえつけ、俺はぎこちなく笑って答えた。
「そう、ですよね。俺、頑張ります」
そして俺は、なんとか震える手を抑え、お盆を持ってお客様に近づいた。
「し、失礼いたします」
そう、震えた声で言いながら俺はグラスとおしぼりをテーブルに置く。
すると男性は手を上げてこちらを見つめ、微笑み言った。
「あ、すみません、注文いいですか?」
「は、はい、かしこまりました」
答えて俺は、慌ててお盆を脇に挟んでエプロンのポケットから伝票をとり出す。
「コーヒーのホットとワッフルを」
「えーと……コーヒーと、ワッフル、ですね?」
伝票に数量を書きながら俺が言うと、男性客は答えた。
「はい、それでお願いします」
「か、かしこまりました、少々お待ちください」
妙に上ずった声で答え、俺は頭を下げてそそくさとカウンターに近づいてマスターに注文を伝えた。
だめだな……やっぱり緊張しちゃう。
あのお客さんは全然大丈夫だろう。
穏やかそうだし、普通の人だと思うのに俺は過剰に反応してしまっている。
心の中に情けなさを心の中に覆い隠して、俺はなんとか仕事をこなした。
そして閉店時間を迎える。
十六時に一度閉店して、十八時からはバーになる。
「新谷君、お疲れ様」
エプロンを外しながら言うマスターに、俺は深く頭を下げつつ言った。
「お、お疲れ様です」
「またよろしくね」
とても優しい笑顔で言われて、俺はほっとしてまた頭を下げた。
「俺、まだ緊張しっぱなしだけど、頑張りますんでよろしくお願いします!」
「そうだね、すっごい緊張しているのが伝わってくるよ。でも緊張しているから、気を付けるし失敗しにくいよね」
そう言いながら、マスターは顎に手をあてて笑う。
そう言ってもらえるとちょっと心が落ち着いてくる。次の出勤は土曜日だ。つぎはもっとスムーズに動けるようになるといいな。
俺は奥で着替えを済ませてそして、マスターに挨拶をして帰路につく。
十六時半を過ぎると辺りはすっかり暗くなっている。
吐く息は白くて、俺は着ているコートのポケットに手を突っ込んで空を見上げた。
駅前の高層マンションに、オフィスビル群がまるで巨人のように視界を遮る。
それでも空に星が瞬いているのはなんとなくわかった。
今日も、想真の帰りは遅いからひとりで夕食を食べて寝ることになる。
そうだ、もらったもこもこパジャマ、朝干したけど乾いてるかな。
明日はあいつとお出かけできる。そう思うと心なしか足取りが軽くなっていく。
スマホを見ると想真から返信が来ていて、俺は慌ててスマホのロックを解除した。
『別人みたいって言われると嬉しいよ、ありがとう、俐月』
その文章の後、なぜかハートマークが飛び交うスタンプが送られてきている。
それがちょっとおかしくて、俺は思わず吹き出した。
「なんだよこのハート」
あいつらしい、といえばあいつらしいかも知れない。
そして俺は、スマホをポケットにしまい、足早にマンションへと向かい歩き出した。