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第37話 千草

 土曜日は、平日と比べてずっと客が多かった。だからずっと動き回っていたように思える。

 十六時を過ぎて昼の部が終わり、ばたばたと夜の部の準備になる。

 テーブルクロスを変えて、メニューを差し替えて。そこまでが俺の仕事だった。


「ふたりともありがとう。お疲れ様」


「はーい」


 浜谷君は手を上げて返事をし、俺は頭を下げて、


「お疲れ様です」


 と答える。

 俺は浜谷君と一緒に裏へと行き、着替えをした。

 ロッカーキーにつけるキーホルダー、買わないとなっと思って買ってないや。

 そう思ってロッカーをしめると、浜谷君から声をかけられた。


「ねえねえ俐月さん」


「え、なに?」


 いきなり下の名前で呼ばれて驚いた俺は、思わず裏返った声で答える。

 彼は人懐っこい笑顔を浮かべ、片手にスマホを持って言った。


「連絡先、教えて!」


「え? あ、え?」


 今日初めてあったやつにそんな事言われたのは初めてで、俺は戸惑い変な声が出てしまう。でも浜谷君は気にする様子もなく、ずい、と迫ってくる。


「駄目ですか?」


「え、いや……ダメじゃないけど、よくもない、かなぁ。だって、今日初めて会ったし」


「俺、危なくないっすよ」


「危ない人は自分から危ないって言わないって」


 内心呆れつつ言うと、浜谷君はあー、呻った後笑いながら言った。


「言われてみればそうっすね。じゃあまた今度!」


 と言い、彼はスマホを着ているコートのポケットにしまう。

 さすがに初めて会ったやつに連絡先教えるほど、俺、流され体質じゃねえし。


「うん、そうしようよ」


「わかりました!」


 そして彼は頭に手を当てて敬礼するようなしぐさをした。

 変わった子だな。


「ねえ、浜谷君」


「千草でいいっすよ」


「……えーと、千草、君」


「なんすか?」


「何歳? 俺は二十三歳だけど……」


「あぁ、二十歳。大学二年生ですよ」


 そして彼はにっと笑う。

 二十歳……若いなぁ。っていっても三つ下か。

 なんだろう俺、この子にこの先振り回されそうな予感がする。予感、で終わればいいけれど。


「そうなんだ」


「そうそう。じゃあ、帰りましょう!」


 と言い、彼は俺の腕を不意に掴み、歩き出した。


「ちょ……!」


 これは距離なしってやつだよな。

 俺の抗議の声など聞こえていないかのように、彼はすたすたと歩いて行く。

 さすがに靴を履くときは腕を離してきたけど。なんだろう、この子、超変わってるじゃねえか。

 ホールを通り、夜の準備をしているマスターに声をかけて俺たちは外に出た。

 外は日が暮れていて、外灯が通りを寂しく照らしている。出勤時よりもいっそう冷えていて、吐く息は皿に白く感じた。


「俐月さんって家どっちっすか?」


「え? あぁ、あっちだけど」


 言いながら俺は駅とは反対方向を指差す。


「じゃあいっしょですね! 途中まで一緒に帰ろう!」


 人懐っこい犬のような笑顔で言われて俺は、断れず頷いた。

 まあ、一緒に帰るくらいいいか。


「いいけど……でも家、どこなの?」


「えーと、この先いって」


 浜谷……じゃなくって千草君が言った場所は俺が住むマンションを通り越した先のアパートだった。まあ、大学生だしアパートだよな。


「じゃあ俺の方が先に家つくね」


「あ、そうなんすね。俐月さんの家ってどこ?」


 家の場所を聞いてしまった以上、答えないわけにはいかない。俺は、ここからでもみえるマンションを指差して言った。


「あそこ」


「まじっすか? 金持ちじゃないっすか」


「俺の家じゃないよ。住まわせてもらってて」


 話しながら俺たちは歩き出す。


「住まわせてもらってるって?」


「俺、前の仕事辞めて、社宅出て行かなくちゃいけなくって途方に暮れてるところを……家に置いてもらったんだ」


「へえ、すっげー人、いるんすねえ」


「そうだな」


 確かに想真はすごい。

 役者やって、動画でも収益上げて。俺を養ってくれていて。あいつは千草君とは違う意味でとってすっごく眩しい。

 そんな想真に頼られていて、ちょっと嬉しい。

 今夜も想真は帰り、遅いらしい。ってことは夕飯ひとりなんだよな。

 昨日買った服、乾いてるかな。明日はそれ着て、ちょっと買い物しようかな。手袋とマフラー。それとキーホルダーがないし。キーホルダーはなんかガチャとかでいいかな。

 ……想真がやってたゲームのガチャとかあるといいな。


「就職しても仕事そんな早く辞めるとかあるんすね。俺、まだ二年生だから分かんねえけど」


「まあ、入って見ないとわかんないからね、会社って」


 そう、なんだよなぁ。俺だってまさかあんなパワハラ上司がいるなんて思わなかったから。

 俺が追い詰められても誰も止めなかったし、見て見ぬふりをされていた。

 なんか俺、生贄にされていたみたいだよな。

 そう思うと胸が痛くなってくる。


「……俐月さん、大丈夫っすか? すっげー暗い顔してるけど」


 千草君の言葉にはっとして、俺は無理やり笑顔を作って首を横に振った。


「ううん、大丈夫」


「そうっすか。就職かぁ。何したいか分かんねえけど、いいところに入れるといいなぁ」


 夢と希望にあふれた顔で呟く千草君の姿は、俺には眩しすぎて何とも言えないみじめな気持になってしまった。

 俺だって、二十歳の時はこうだったんだろうな。でも就職でいろいろと壊された。

 今の俺、なんだろう。

 週三回働くのがやっとで、就職なんて夢のまた夢だ。


「俐月さんは再就職、考えてないんすか?」


 千草君の何気ない言葉が俺の胸に深く突き刺さる。考えてないわけがない。でも……今は無理だ。

 俺は苦笑して、


「しばらくはバイトして、その内再就職したいかなー」


 と、あいまいに答えた。

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