描いて欲しい構図とか、何かこだわりはあるのかとか、そういう問答を少しだけ交わした後に僕は鉛筆を手にとって画用紙へと向かった
「よし、こんなものかな……」
それからどれくらい時間が経ったのかは分からない
絵を描く時に時間を計ったりもしないし何より絵を描いている間は周りのことまで頭に入ってこないからだ
「どれ、見せてくれ!」
凪は言うが早いか身を乗り出して僕の手から紙片を奪い取る
「あ、ちょっ……危ないよ」
僕は少し体制を崩しながらも何とか取り持って一言苦言を呈する
「……やっぱり、間違いなかった」
だが凪は絵から目を上げることすらせずボソリと呟く
「ど、どうしたの……?」
何か、気にそぐわない部分でもあっただろうかと不安が頭を掠めて凪に問い掛ける
そもそも僕程度の描く絵で誰かに満足してもらえるのかすら考えるところなのに
「いや、なんでもないよ……なぁ君」
「な、何?」
凪は暫く紙面を見つめた後にそれを大事そうに仕舞い込むと僕のほうを向いて肩を掴んでにこやかに声をかけてくるものだから萎縮してしまってまた言葉に突っ掛える
「次に登桜した時もまたオレを指名してよ」
「えっ……」
僕はつい驚いて間の抜けた声をあげてしまう
自分を指名するようにと言いながら自身を指差してするりと脚を組み換える様は男なのに艶めかしくて、男色家ではない僕でさえ目線に困る程だ
「いかんせん今の君程度の地位では庵花魁なんて雲の上の存在なんだ、男の肉体美を描きたいならオレでもいいだろう? それなりに売れっ子なわけだし、身体だって綺麗だ、それともまさかこのオレが美丈夫じゃないって言いたい?」
凪は言いながら自身の着物の前を柔らかくはだけて見せる
そこから覗くのは線は細いがしっかりとしなやかな筋肉がついた無駄のない曲線美で
それは女性にはない男性らしい肉体美だった
そしてその白髪と紅い瞳も相まってまるでこの世のものとは思えない雰囲気を纏っていた
「そ、そんなこと言うわけない、けど……君はとても魅力的だよ、でも、もうここに来る気がないんだ、元々一回だけの予定だったし、何より僕程度では毎回君を指名してたらそれこそ首を括ることになるからね」
僕はそんな自分のなかに浮かんでしまった劣情に近い何かを隠すように早口に返事を返す
さっき自分でも思った通り凪はとても魅力的な男性だ、僕の目指す男絵のモデルにだって勿体ないくらいには
だからこそ上位の遊女である彼を毎回指名していればたよりもとない僕の貯蓄など一瞬ですっからかんだ
そして何よりも、またここき来てしまえばまた彼を思い出すだろう
凪の言う通り雲の上の存在である彼を
そんなもの早々に忘れてしまって自分の肩身にあった生活に戻るためにも僕はもうここに来るべきではない
「……って言う割には、庵花魁を諦めたって顔はしないんだなぁ」
「っ……」
必死に自分のなかで言い訳をしているのにそんな僕の感情なんてお見通しというように凪は頬杖をついて言ってのけるから、僕はびっくりして肩を震わせる
「別にオレが鋭いとかじゃないぞ、分かりやすいんだよ君は……ってことで、まずは一つ目だ」
呆れた様子で言いながら凪は指を1本立てる
「な、何が?」
「庵花魁を買うための作戦」
一体何の話が始まるのかすら分からない僕に凪は思ってもいないことをしたり顔で宣言した
「なに、言って……僕じゃあ何があっても買えないって言ったのは君じゃないか」
そう、つい今しがた彼は僕に僕が庵花魁を買うに値しないというその事実を知らしめた張本人だ
そんな彼の口から庵花魁を買うという言葉が出るのは言い得て妙な感じがする
「それは君が諦めた場合の話、これは諦めなかった時の話だ、まずは毎回オレを買って、それなりに空遊郭に顔が聞くようにする」
「だ、だからっ、僕にはそんなお金無いし……」
だがそんな僕の疑問を無視して凪はつらつらとこれからの算段を語り始める
だから僕は慌てて止める
通うにしても僕はただの売れない画家だ
遊郭に顔が利く程に通い、中級以上の遊女を買い続けるなど資金が圧倒的に不足している
「それに関してはオレが立て替えよう、君の分の店への支払いは全てオレが立て替える」
「な、なんでそこまで……」
だがそんな僕の心配を凪は一言で切り捨てる
つまりは買われる立場の自分を自分で金を払ってまで僕に買わせる、ということだ
流石にここまで来ると少しずつ胡散臭くなってくるのが事実で
もしかしたら何度目かの会瀬の後に一気に高額の料金を請求される、なんて詐偽みたいなことがあるかもしれない
「おっと、変な勘繰りは止めてくれよ、これは未来への投資だ」
だが僕の顔色で察したのか凪は心外だと言うように真面目な表情をからりと浮かべて見せる
「投資……?」
「そう、オレが登桜代を立て替える代わりに君は毎回オレに一枚絵を描いてくる」
凪は言いながら先程僕の絵を仕舞った懐を叩いて見せる
「そ、それのどこが投資なの?」
売れない画家のただの絵
それが一体何の投資になるというのか
物分かりの悪い僕には今一つ理解できない
「……もし、万が一にも君が庵花魁を買えて、この絵が庵花魁の目についたとしよう、そうすればまたたく間に君はこの空遊郭の売れっ子絵師になる、そうなった時この絵は途端に札束に変わる、っていう寸法だ」
「……それはあまりにも話が飛躍している気がするけど」
遊郭という閉鎖された空間では流行りというものは瞬く間に遊女達へと伝搬していく
そして遊女から今度は客へと伝わっていく
流行りを作るのはまぁ、色々な要因があるだろうが確かに、この遊郭の頂点とも言える花魁が僕の絵について何かを言ったとしよう、そうすればそれは良い話でも悪い話でも一瞬のうちにこの空遊郭内に知れ渡るだろう
そうなったとき、もしそれが良い意味だった場合僕の絵は高値でこの空遊郭内で取引されるようになる
だかそれにはまず僕がどうにか庵花魁を指名して、その上で絵を気に入ってもらわないといけないなんてあまりにもリスキーではないか
凪、彼の一夜は決して安いものではないのだから
そして花魁の夜はさらに高い
指名出来ても一夜分すら支払える自信がない
「まぁ、そうだな、そもそも君が庵花魁を買えたことを前提とした話だし、いわば富くじみたいなものだ、でもそれでオレは充分、何せこの空遊郭での毎日なんて……そんなたいしたものでもない、少しばかし滑稽なことがあってもいいだろう、それくらいのことだ」
「……」
なんてことないように凪はつらつらと言葉を並べて見せるけど、自分自身の話なのにあまりにも他人のことを話しているようで、それこそ興味なさげすぎて返す返答を僕のほうが失ってしまう
「ま! ということで、別に騙そうとかそういう腹積もりはないから、ここから二つ目、毎回オレを買ってる物好きな金払いの良い客がいるとなればあの物好きな庵花魁なら必ずコンタクトを取ってくる、そうしたら今度は君が頑張る番、しっかり、取り入ることだ」
そんな空気を壊すように凪は強く柏手を打って二本目の指を立てる
「そ、そんな上手く行くかなぁ……それにお金もないし……」
簡単に言ってくれるが花魁のなかでも気位が高いと凪自身が言っていたそんな相手に口下手な僕がそんなに上手く取り入れるのか、という自信ははっきり言ってしまうと欠片もない
「まぁまぁ、もとからそんなに期待してないさ、金に関しては……君ならどうにかしようと思えばどうにでも出来るだろう」
「っ……」
凪の言葉に息を飲む
何故知って、そうも思ったがここは遊郭
知っているものも少なくないだろう
「……まぁそれがあまり気乗りがしないなら、花魁を買って有名になった後に全額纏めて利子でもつけて返せばいい、金は多いに越したことはないだろ誰だって、それに有名人になればそれも良い売り言葉だ」
そう言って凪は悪い笑顔を浮かべて見せる
「そしてもし上手くいかなかったとき、これが三つ目、庵花魁にちょっかいかけて見たものの見事気に入られなくって買えなかったとして、君は何度もこの美丈夫であるオレを買う機会が与えられているんだ、沢山沢山オレを見て、もっと君の満足のいく絵を描けるようになり、自力で有名画家に上り詰めればいい、そうすれば君を見直した庵花魁が君に買われてくれるかもしれないな、そうなった場合もまたこの富くじはさらに化けてくれるって寸法さ、君の絵は……札束に変わるかもしれないとオレが思うそのくらいには悪くないからねー、まぁ選ぶのは君だけどね、庵花魁を諦めるか、諦めないか、絵を諦めるか、諦めないか」
「っ……本当になんでもお見通しだね君は」
絵、という言葉に自分の感情など全て見透かされているという事実にどうしようもなく居たたまれなくなって手で口許を覆って隠す
そう、僕は確かに庵花魁に一目見て惹かれてしまった
だがそれはあくまで自身の絵の向上の為だ
いや、そうでなければいけない
そしてまた、庵花魁を諦めるということは庵花魁を見てもっと絵の研鑽を積むということ自体を放棄したことになる
それだけは、あってはいけない
「何度も言うが、君が、分かりやすいんだよ」
「痛っ……僕は諦めないよ、庵花魁……彼をもっと間近で見て絵を描くことを、僕には……それしかないから」
考え込むに連れてどんどんと前のめりになっていた僕の姿勢を正すように僕の眉間を凪が人差し指で弾く
だから僕は、姿勢をぐっと正して自分で決めた覚悟を告げる
「うんうん、潔くて大変好ましいな、よし、それじゃあ残りの数刻を楽しまなくては! 君は描く絵にたいして肌色の多いものは好まないらしいが……遊郭の楽しみかたはそれだけではない、オレ達は客に夢を見せるためにいる、君が望めば歌も歌うし琴や三味線を弾いてもいい、勿論……君が望めば絵のモデルをしてもいいけれど、折角の初登桜、そういう楽しみも分かっていたほうがより次回が楽しみになるってものだ」
凪は言うが早いか立て掛けてあった三味線に手を伸ばしてするりと構えて一度、弦を弾いて見せる
「そういう、ものかなぁ……」
テンッという耳障りのいい音に僕は少しだけ、緊張を解す
「そういうものさ、何だって……ね」
それからもう一度、凪は小さく三味線を鳴らした