それからは本当に世辞抜きで夢のような時間だったように思う
遊郭は夢を売る場所だ、なんてよく言ったものだと感心するほどに
凪は三味線や琴を弾けばそこらの本職よりも上手かったし歌もまた透明感のある綺麗な音で聞いていてとても耳心地がよかった
そんな始めての登桜はあっという間に終わって、気づけば僕達は大門の前まで来ていた
「こんなところまで送ってくれなくていいのに」
朝、大門が開く時間になると凪はわざわざ大門の前まで送ってくれた
「ここまでが遊女の与える夢だからな、この大門を越えたとき、客は皆現実へ帰っていくんだ、また心地よい夢を見るそのときまで、で、勿論また来てくれるだろ?」
だが僕の言葉に凪は楽しそうにそう答える
そしてこてんと首を傾げてその整った顔で僕を見あげて聞いてくる
「あ、ああ、あそこまで話しておいていや来ませんなんて言わないよ、近いうちにまた来るね、だけど……暫くは難しいかもしれないけど」
「それはまたなんで?」
愛嬌すら感じさせるその顔でそんなことを言われてしまえば少しばかり気恥ずかしくて答えながら少し視線を反らす
「良い絵が、描けそうなんだ、君が見せてくれた夢を……僕は今すぐにでも紙面へと写しとりたいくらいには、まぁ、僕が描く絵なんて然したる――」
「描いた一枚目は必ずオレに持ってきてくれよ?」
庵花魁のことだけではなく凪の見せてくれた一夜の夢は帰ったらすぐにでもキャンバスに向かおう、それぐらいの気力に繋がっていた
それを説明していれば凪は僕の手を掴んで強く引くとしっかり視線を交わらせて念を押すようにそう言った
「あ、え、ああ、構わないけど」
あまりの圧にいつもよりも言葉に詰まりながら、それでも特に問題はないため普通に許諾する
「ありがとう、それじゃあ、はい」
凪は嬉しそうにお礼を言いながら僕にむかって小指を差し出す
「指……ああ、指切りだね」
流石の僕でも凪がしたいことは分かる
凪の小指に自分の小指を絡めれば凪はそれをぷらぷらと楽しそうに振って見せる
「そう、君は必ずまたこの空遊郭を訪れる、絵をしっかりと持ってね、そういう約束」
「僕は約束は守るほうなんだけどなぁ」
「これもまた、古い仕来たりみたいなものだから」
格式的なものであると分かっていながら凪の言葉に苦笑いする僕にまた凪は笑ってそう言った
僕はあまり話していて面白い人間ではない、ということは自分でもよく理解している
だけど初めて会ってから凪は一度だってそんな退屈だっていう様子を見せないから、自分が誰かを笑わせられるような面白い人間だって勘違いさせられそうになってしまう
それもまた凪が遊女として優れている点なのだろうが
「よし、切った! それじゃあ、絃……また、待ってるから」
凪は絡んだ小指を勢いよく切るとそう言って僕を大門から見送る
「うん、またね」
そしてまた僕も、少しの名残惜しさを残して現実へ帰っていくのだ
「よし、これで撒き餌は完了か……まさか彼から来てくれるなんて、想像だにしなかった」
絃を見送ったオレは少し名残惜しくて大門の前に立ったまま、そう呟いていた
いずれまた、会えるのではないかと思っていたがまさかこんなに早く、しかも彼のほうから客として会いに来てくれるとは思ってもいなかっただけに昨日はそれなりに驚いたのだ
全く自分らしくもない
「凪、今のが例の客か?」
「……チッ、折角人がいい気分なのに水ささないでくれないか、庵花魁?」
そんな感慨に耽っていれば今一番聞きたくない声が聞こえて舌打ち混じりに振り返るとその認めたくなんてないが男ですら魅了してしまうような美丈夫にガンを飛ばす
「いや、別に水を指そうとしたわけではない、凪が珍しく自分から相手を選んだと聞いたから様子を見に来たのだが……まさか彼だったとは」
「あれ? 天下の庵花魁があんな無名の画家をどこでお知りに?」
しげしげと耳障りの悪いオレの高音とは程遠い男らしい低いその声で言いながらしたり顔で自身の顎を撫でるものだからさらにイラついて声を粗げる
「何か普段よりも機嫌が悪いようだな、タイミングが悪かったか、いや、昨日の花魁道中で熱心な瞳を送ってきていたものでな、あの目には惹き付けられる何かがある――」
「おい」
「なんだ?」
次の瞬間オレは力強く庵の腕を掴んでいた
あいつがお前にそんな視線を向けたのはバカみたいに実直に絵の練習がしたいからで、その男絵の練習にはお前が一番最適だと判断されたから、それだけの理由だ
だから、決して、あいつがお前には向けた瞳には意味も理由もないのだと
「あれに最初に目をつけたのはオレだ、お前なんかよりもずっと前に、あいつだけは絶対に渡す気はないからそれだけはよく覚えておけよ庵」
そんなすべての感情をない交ぜにぶつけるように言葉にして出しきると思い切り突き飛ばす
結構本気で突き飛ばしたのに庵は軽くよろめいただけなのが少し気にくわなかった
そして
「……遊郭とは、客が遊女を選ぶもの、遊女が客を選ぶものでは基本はない、まぁ花魁であればそれも可能だがお前は花魁じゃないだろう、つまりは誰を選ぶのかは……彼次第だ」
「っ……」
当たり前のことを庵が言うものだからまた頭に血が登り握り拳を作る
「おっと、暴力沙汰はご法度だからな、売り物に傷がつくのは誰も望まない、他の客に見られて騒ぎになるのも困るだろう」
だが庵の言葉にすぐにオレは作っていた拳をほどいて辺りの様子を伺う
絃がそれなりに早く帰っていったこともあってまだ大門の辺りは人通りが少なく、いたとしてもそれぞれが別れを惜しむようなやり取りに夢中でこちらのいざこざに気づいている輩は誰もいなかった
売り物に傷、こともあろうか花魁に傷でもつければそれこそなあなあでは済まなくなる
そんなことはオレでもよく分かる
「手なんか出すまでもない、すでに撒き餌は蒔いたんだ、すぐにコロリと落としてみせるさ、あいつだけは……渡さない」
オレは苦々し気にもう一度舌打ちをしてから宣言して見せる
他はどうでもよくてもあれだけは、誰にも渡す気はない
「やる気があって……それはそれは大変良いことだ、励むといい」
庵は少ししゅん巡した後にそう言うと楽しそうに少しだけ口角をあげて、くるりと踵を返して大門から離れていった
「言われるまでもないね」
だからオレは、そんな背中にそう言って吐き捨てた
「さて、まずは……やっぱり彼、凪を、いや、庵花魁か」
僕はアトリエに戻ってくると早々にキャンバスに紙を設置する
沢山の夢を見せてくれた凪のほうが頭のなかには強く残っている、それでも一番最初に描くべきなのは庵花魁だ、と頭のなかの自分が言っていた
すぐに鉛筆を持って紙に向かうと無心でガリガリと鉛筆の鉛を画用紙で削る
だが、どうしても
あの花魁道中で見ただけの庵花魁を艶やかに描き示すことなんて出来なくて
「ダメだ、やっぱりあれだけ見ただけじゃあ細部まで表せられない……それなら」
誰に言うでもなくそうぼやきながら一度筆を折って、それからもう一度鉛筆を手に取ると今度は凪を思い出して新しい画用紙に集中する
「…………」
緩めた着物の内から見えた限り肉付きは良いほうではなかった
だけどしっかりと、艶やかさを失うことのない程度のしなやかな筋肉を持っていて
肌は髪の毛の色に負けないくらい白くて、三味線を弾く手首の血管が少し青く浮き出るくらいに
それなのに青白くて不健康な感じがするかと言えばそういう感じはしない
そう、初めて会った時に白樺の精と見間ごうのではないかと思ったほどに美しかった
彼が自分に自信を持てるのが端から見ても分かるように
図体がでかいだけの木偶の坊な僕とはまるで正反対みたいだった
「……あ」
僕はつい声を漏らす
彼のことを思い出しながら、ただひたすらに鉛筆を走らせて、ふと目を上げたそこには、昨日の自分ではきっと描けなかったであろう男絵が出来上がっていた
絵のなかの凪は楽しそうに三味線を弾いていて、艶っぽさはそれ程までに感じさせない
描けなかった、というよりも描こうと思わなかった、と表現したほうが正しかったかもしれない
僕の目指す方向とは違うかもしれないけれど、決して悪い出来だとは思わない
「……いや、止めよう」
それでも僕は紙に手をかけて一気に裂いてしまおうとして、凪のことを思い出してその手を離した
一枚目に描きあげたものが欲しいと凪は言っていた
それならばこれは凪にあげるためのもので、破いてしまって良いものではない
「……次は、いつ行こうかな」
僕はキャンパスから絵を外すと折れないようにしっかりと仕舞ってから新しい紙を設置する
その頃には僕はすでに次の登桜の時期を考えていた