「あ、あのー」
僕はなんとか藤屋までたどり着くと前よりも少しだけスムーズに妓夫に声をかける
「あ! 絃様! どうぞ中へ、凪さんがお待ちですよー」
そうすれば妓夫も三回目の僕を覚えていたようですぐに対応してくれる
まぁ、これだけ背が高くて陰鬱としていれば嫌でも覚えやすいだろう
「あ、ありがとう……」
僕はお礼を伝えながら妓夫についていく
「それにしても前回からそれなりに経ちましたが、お忙しかったです?」
「いや、まぁ、うん、そうだね……」
別に忙しかったかと聞かれれば即答で否と答えることが出来る
売れない画家がすることなんてさしてなく、ただぷらぷらと売れない絵を描くばかりだ
「やっぱり画家さんって忙しいんすかね、いやぁオレ、生まれてからずっと遊郭にいて、見目にも恵まれなかったからこうして妓夫してるんすよー、だから同じ境遇の凪さんには少し憧れもあって――」
「千、余計な話はしなくていいって、この間も言わなかったか?」
そしてまた、妓夫の彼……千くんの言葉を遮るように凪が登場する
以前もそうだが凪は毎回よく気付くものだと感心する
仕事の時間は部屋にいる時もずっと気を張っているのだろうか
「あ、凪さん!」
「ほら、いいから早く行った行った」
「はい! では絃様! ごゆっくり!」
千くんは凪に促されてまた階段をかけ降りていった
というよりもここ、空遊郭は他の遊郭よりも比較器子供などは少ないという印象だった
というのも普通の遊郭ではなく男が春を売るこの場所では子供は産まれないからだ
そんな中千くんは産まれたときから遊郭にいたと言った、そして凪も同じ境遇だと
「ごめんね、毎回毎回うるさくて、いらっしゃい絃、待ってた、よ……」
「あ、な、凪……凪?」
ということは凪もずっとこの遊郭にいるということだろうか、なんて考えている間もなく嬉しそうだった凪の表情から笑顔が消えて手首を強く捕まれる
「……なぁ、ちょっと来てくれる?」
「ど、どうしたの凪?」
そして無理やり引っ張るものだから焦って聞き返す
「いいから」
だが僕の言葉に答えることなく凪はそのまま自室に僕を力任せに引き込んだ
「な、凪、話したいことが、あるんだけど……!」
部屋に引き込まれた僕は何とか腕を振り払って凪に声をかける
「それは丁度タイミングがいいな、オレも君に話したいことがある」
腕を振り払われた凪は振り返ってそう言いながら笑って見せる
だがどう見たっていつもの笑顔ではなかった
「……どうしたの?」
僕はまず凪が何に憤っているのかを聞くことを優先するべきだと聞く側に回りながら床に座る
「なんで君から庵花魁のいつも焚いてる香の香りがするんだ?」
それに促されるように座った凪がいつもの調子を装ってこちらへ聞いてくるから
「え、ああ、そんなに匂いついてる……? 自分だとよく分からないや……」
慌てて僕は自分の衣服の匂いを確認する
確かに庵からはいい香りが漂っていた
それはいつも凪から香っているよりも強めの香で、我の強い庵によく合っている香だと思った
「……否定しないんだ」
「何を……?」
そんな僕の様子を見て機嫌悪そうに凪がそう呟くものだから僕は聞き返す
実際にさっき庵に会っているのは事実だし一体何を否定すればいいのだろう
「庵花魁の香りがすることをだよ」
「え、だ、だって実際さっき会ったし……あ、聞いてよ凪! 話もしたんだ! これで少しは僕達の目標に近付いて――」
何か、勘違いされているのか
そう思って慌てて僕は説明しようとする
庵と会えたことで進んだ僕達の賭けについて
それなのに
「何の話をしたんだ」
「……え」
それを伝えても凪の表情が明るくなる様子はなくて、むしろ冷ややかな声でそう、聞き返されてしまって間の抜けた返事を返す
「庵花魁と会って、一体何の話をした?」
「い、庵と何を話したってそりゃ……」
絵の話以外に何がある、そう、言いたかったのに
「へぇ、庵、呼びなんだな、それ、君発信?」
「いや、そういう訳じゃあ……」
凪が突っかかってくるのはそこではなくて
「じゃああいつがそう呼ばせてるのか……」
僕の言葉に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて視線を斜め下に向ける
「な、凪? どうしたの? なんか、おかしいけど……それよりも! 庵が僕の絵を欲しがってたんだよ! 次に登桜する時に一枚描いてきて欲しいって依頼を貰ったんだ、これで気に入って貰えれば――」
「君の絵のファンはオレだ」
やはり何か僕達の間で相違がある、そう思って必死に説明する……僕の両肩を強く握りしめて目の前で凪がそう呟く
「え、きゅ、急に、どうしたの……?」
それは、以前にも聞いた話だ
そしてその話が僕をこの場所から1ヶ月も遠ざけた
「君の絵に一番最初に目を付けた一番最初のファンはオレだ、それを忘れないでくれよ」
それなのに凪はそれをまるで刷り込むように何度も言う
言われたくない言葉なのに
「君は……前回もそう言ったね、ファンだって……」
僕は確認するように同じ言葉を凪に反芻する
「ああ、だって実際にそうだろう――」
「それは違うよ」
そして、それを肯定しようとする凪を、僕は否定した
「……は? オレが一番最初で、一番のファンじゃないって、言いたいのか……? それなら誰が一番……庵だとでも言いたい――」
「誰でもないし誰もいないんだ」
「っ……」
僕に伝えたいことが上手く伝わらなくて、それがもどかしいというように憤る凪に僕はただそう、淡々と伝えた
「僕程度の絵にそもそもファンなんていないし、ファンなんていたらいけない、まだそのレベルじゃない、誰も……認めていない、だから君は僕のファンじゃない、ただ誰もいない、それだけの理由だよ、分かったらほら、今回も絵をちゃんと描いて来たんだ……庵とも縁が出来たし少しお祝いに酒でも頼んで……凪?」
それから、この1ヶ月かけて考えた結論を凪に伝える
僕の絵にファンなんていないし、いたらいけない
それは、認められていないから
簡単に纏めてしまえばそういうことだ
これで話を終わりにして、また楽しい時間を作って貰おう
折角庵ともこうして知り合いにだけだがなれたのだ、こんなよく分からない言い合いをしていては勿体ない、そう思って話を変えようとしたのに
「……ざけんな」
「え……? な、ぎっ……!」
次の瞬間には僕は床に押し倒されていた
以前にも一度同じようなことがあったがあの時はまだ布団の上だった
今回は直接床に叩きつけられて背中に鈍い痛みが走る
だが目の前に広がる白と朱が子供のように泣きそうな顔をするものだから、こっちが何かしてしまったかのような罪悪感に苛まれ、何も言えない
「ふざけるな! この際庵のことはどうでもいい、だけど、オレがお前の絵のファンだってことは否定させない……僕程度、なんて愚弄もさせない、それは絃、お前自身にもだ!」
「な、凪……なんでそんなに、怒って……」
僕の上にまたがって怒鳴る凪に、恐る恐る、聞き返す
怒鳴る凪を尻目にただ黙り込むのもまた、ひどく居たたまれなかったからだ
「君の絵を否定されたら、オレは……一体何にすがっ、て…………あ、わ、悪い、こんなことする、つもりは……」
だがすぐに正気を取り戻した様子の凪は慌てて僕の上から退くと手を差し出してくる
「いや、だ、大丈夫……」
僕はそれを掴んで起き上がると少し乱れた髪と衣服を整える
「……と、とりあえず、庵に取り入れそうなことはオレとしても万々歳だな、ああ」
「そ、そう……」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言う凪に僕はただ同調することしか出来ない
「前祝いもしたいところだけど、ちょっと今日は色々考えるところがあって疲れたな、悪いけどもう今日は寝てしまわないか?」
凪は言いながら敷かれた布団にまずは自分が入る
「そ、それは構わないけど」
「そうか、じゃあ、ほら」
そして僕から許可が出ると布団に僕の分を開けて手招きする
「あ、ありがとう……」
「お休み、絃」
「お、おやすみ……」
そして僕が床に入ったのを見届けた凪はすぐに後ろを向いて、黙り込んでしまった
そんな後ろ姿に返事を返して暫く待ってみたけれど、寝息は聞こえてこなかったからきっと寝てはいなかったのだろう
今まで何だかんだで朝まで話し込んだりしていた僕達はこの日、初めて僕達は床を共にした
そのままの、言葉の意味で