少女と出会ってからしばらくの時間が過ぎた。今日まで、少女はペットボトルロケットを飛ばし、私と共に天体観測に出かけ、アリの巣の研究に精を出した。おかげで今の私は、少女の周囲にある大抵の物の名称や使用用途を理解できるようになった。
たとえば少女が熱心に見つめているそれが「鈴虫」と呼ばれる昆虫であるということも。
今、少女はベッド脇の椅子に腰を下ろしている。既に日は沈み、少女はパジャマに着替えていた。彼女の目の前には小さな机があり、その上に二つの虫籠が並べられている。机の片隅に置かれた卓上ランプはそれらを柔らかく照らしている。
片方の虫籠の中には黒い球体――私、超高次元生命体Xが収められている。そしてもう片方の中にいるのが、鈴虫だ。今日の夕方、彼女の部屋の窓からひょいっと迷い込んできたのである。
「やっぱり違う……!」
鈴虫を見つめながら少女が呟いた。その声には、戸惑いとわずかな興奮が混じっていた。彼女が違和感を抱いているのは鈴虫の羽音である。彼女が言うには、普通の鈴虫であれば、きれいに整ったリズムで「チリリリ…チリリリ…」と鳴くものらしい。あるいは、連続して「チリリリリリ…」と。それが鈴虫という生き物の特徴であると少女は語っていた。
少女が持っている分厚い昆虫図鑑もまた彼女の主張を裏付けていた。何度もめくった形跡が残るそのページにも「鈴虫の鳴き声は、羽をこすり合わせることで生じる。規則正しいリズムを持ち、三拍子の音や連続的な羽音を特徴とする」と書かれている。
少女は再び虫籠に目をやる。そして耳を澄ませた。艶やかな黒褐色の外観を持つそれは、羽音を鳴らしている。
「チリリリ…、チ、チッ、ザザザ…チリリ……ザザザ…ザザザ…」
確かに不規則である。まるで本来のリズムを失ったかのように音の間隔が乱れていた。加えて、羽音の中には、「ザザザ」という機械的なノイズ音が混じっている。それは鈴虫本来の音色ではなく、明らかに異質な、例えるなら何かが混線しているような響きを帯びていた。
「ラジオみたい」
少女がぽつりと言った。その言葉は、真剣に耳を澄ませていた彼女の頭の中から自然にこぼれ落ちたようだった。
「昔、お母さんと一緒に聞いたことがあるの。古いラジオでね、チューニングを合わせるたびにザザザ…っていう雑音が聞こえるんだけど、少しずつダイヤルを回すと、だんだん音楽とか人の声が聞こえてくるの。それと同じ感じがする」
少女の声にはどこか懐かしさが混じっていた。そして突然、何かを思いついたように立ち上がると部屋を出た。
廊下を忍び足で進む彼女の後ろを、私はゆらゆらと浮かびながら付いていっている。再三となるが私は高次元生命体であり、虫籠など意味を持たない。彼女の動向が気になる時はこうして、自由気ままにカゴの中から抜け出すことにしているのだ。
彼女がやってきたのはまたしても物置である。ペットボトルロケットの時と同様、今回もここに彼女が求めているものがあるようであった。まるで物置の中にいる”何か”が少女を誘っているかのようでもある。いや、流石にそれは考え過ぎか。
「あった……!」
少女の目の前には埃を被った四角いラジオが置かれていた。それは長年使われていなかったらしく、プラスチックの表面が白くくすんでいる。彼女はそっとラジオを持ち上げ、その軽さを確認すると、胸の前に抱きかかえるようにして物置をそそくさと出ようとした。
しかしそれは叶わなかった。
少女の前の前に、腕を組んだ叔母が立っているのだ。彼女に見つからないよう私はそ
っと物陰に隠れる。
――叔母さんが怒っている
少女はそう直観したようだ。私も全く同じことを思った。この個体は怒っている。
「なにをしているの?」
薄暗い闇の中で叔母の目がぎらりと光る。そして
「勝手に入っちゃダメって言ったでしょう!」
耳を突んざくような怒声が響き渡った。
「あの、ラジオが欲しくて」
怯えながらも少女は両手に持っていたラジオを叔母に見せる。すると
「いけません」
叔母は少女の腕からラジオを取り上げる。
「部屋に戻りなさい」
「でも」
「戻りなさい!」
叔母の声は冷たく鋭かった。少女は「はい」とだけ呟くと、俯いたままその場を後にした。彼女は足音をできるだけ小さくしながら部屋へと向かい、扉をそっと閉じた。
ベッドに腰を下ろした少女は、両膝を抱えながらじっと下を向いていた。その表情はどこか曇り、目の奥には泣きたいのに泣けないような苛立ちが漂っている。
少女が部屋の窓を開けたのは単なる気まぐれだろう。どんよりとしたこの空気を一新させたいからだったかもしれないし、この家から出て行ってしまいたい思いから発露されたものかもしれない。
だがそれは、鈴虫が放つノイズに少しだけ変化を与えた。少女もそれに気づいたらしい。少女は机の上の虫籠に耳を近づける。羽音に混じり、微かに全く新しい種類の音が聞こえた。
「ピアノだ」
確かに、鈴虫の羽から聞こえるそれは旋律を奏でているようであった。ノイズに混じってよく聞こえないが、何かしらの曲を演奏しているようでもある。
少女は鈴虫の籠を持つと、それを窓辺に近づける。果たして彼女の予想は当たっていた。鈴虫の奏でる音はよりクリアになっていく。ただ、どうやらそれだけではなかったらしい。
「これ、あの曲だ……」
「あの曲?」と私は少女に近づく。いつのまにか虫かごから出ている私のことを気に留めることなく、少女は興奮した様子で答えた。
「これ、お母さんが弾いてくれた曲!」
どうやらそれは、少女の母親がピアノでよく弾いていた楽曲らしい。少女は虫籠にさらに顔を近づけた。そして「お母さん?」と小さな声で呼びかける。
するとピアノの旋律がふっと止まった。羽音の奥から、誰かが息を呑むような音が聞こえる。ややあって、
『大丈夫よ』
穏やかで優しい声が響いた。
『あなたは大丈夫』
『大丈夫』とはどういうことだろうか。少女に向けて発せられた言葉なのか。それとも羽音の向こう側の世界で誰かに言っている言葉なのか。だが、少女にとっては言葉の意味などどうでも良かったらしい。「絶対にお母さんの声だ」と何度も頷くと、それから母親のことを呼び続けた。
しかし、その日のうちに向こうの世界からの応答はなかった。開けっぱなしの窓の向こうから夜風の音だけが微かに聞こえていた。
翌朝、少女は目を覚ますと早々に家を出ていった。私は、鈴虫と共にこの部屋で少女の帰りを待つことにした。「鈴虫と共に」と言ったが、厳密に言えば少女の部屋には私と鈴虫以外の生物もいくつか存在する。星遊魚が泳ぐ水槽であるとか、不死蝶が並べられた標本であるとか、真空を餌とする食宙植物などもいるのだが、今回の話には関係がないので割愛する。
さて。私は、改めてこの鈴虫を観察した。体長はおよそ2~3センチメートル。黒褐色で細長い体型をしている。背中には2対の翅があり、前翅は硬そうで、後翅は柔らかいような印象を受ける。また、触角は体長を超えるほど長く、6本の脚は細長くしなやかだ。
次に少女が所有する昆虫図鑑を拝借し、そこに掲載されている特徴と比べてみる。特に大きな違いはない。またオスとメスには明確な違いがあり、鳴くのはオスだと言うことがわかった。つまり、ここにいるのはごく一般的な鈴虫のオスということになる。
しかしながら私にはわかる。どうやらこの昆虫は、高次元生命体である私からエネルギーの干渉を受けているようだ。ただ、その影響がどういったものなのか私にもまだわかっていなかった。我々が聞いたあの声が今は亡き少女の母親のものとするのならば、時空を超えて過去と交信できたということになるのだが。
虫籠の中にいる鈴虫は黒い体をじっと丸めて微動だにしない。昨日の出来事がまるで幻であったかのように、鈴虫は静かなままだった。
しばらくして少女はこの家へと戻ってきた。その手には数冊の本が抱えられている。表紙には「家庭で作る簡易ラジオ」や「電波の仕組み」といった文字が書かれていた。
少女は勉強机に腰掛けると、熱心にページをめくり始めた。どうやらラジオの電波を調節する要領で、鈴虫の交信状態を改善させようと考えているらしい。叔母が用意したサンドイッチを食べることもせず、少女は一心不乱に本を読んでいた。挿絵付きの説明を指で追いながら、アンテナの仕組みや電波を受信するための工夫についての記述にじっくりと目を通す。
「あ!」
彼女の目がひらめきを得たように輝いた。私も虫籠の中から当該ページを覗き込む。そこには「アルミホイルで覆うことのよってラジオが電波を集めやすくなる」と記載されていた。
「アルミホイル!」
少女は部屋から飛び出し、すぐにアルミホイルを手に持って戻ってくる。彼女の叔母は仕事で外出中だ。キッチンのものを勝手に持ち出したとなったら再び叱責されることになりそうなのだが、どうやら今の少女はそんなことを露ほどにも考えていないらしい。少女は手にしたアルミホイルを慎重に広げると、机の上の鈴虫のカゴの前に立った。銀色の光沢が窓から差し込む太陽の光を反射し、部屋の中に輝きを散らす。
彼女の小さな手がホイルを虫籠にそっと巻きつけ始めた。慎重に、隙間ができないように、そしてホイルがずれないように端を折り込みながら、まるで虫籠を特別な装置に変える儀式をしているようだった。一周巻きつけては確認し、さらにもう一周と繰り返し、厚みを持たせるように何重にも重ねていった。途中、少女は鉛筆を用いてホイルに何箇所か穴を開ける。鈴虫が呼吸するための空気穴らしい。最後に端を指でしっかりと折り込み、音がこもるような形状に整えると、彼女は静かに息を吐いた。
彼女は籠を窓際へと移動させ、顔を近づける。しかし、相変わらず鈴虫は静かなままで、羽音ひとつ立てることはない。
少女は眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。
「うーん」
ちらっと虫籠の中の私をみる。
「なんでだと思う?」
時間帯の問題ではないだろうか。
「だよねぇ、わからないよねぇ」
少女が肩をすくめた。
「あ、そうだ!」
また何かを思いついたように少女は本棚へと向かっていく。そして、先ほど私が拝借した昆虫図鑑を取り出すと、再び少女は鈴虫のページを開いた。
「えっと、鈴虫は湿度が適度に高い環境を好みます。生育に適した気温は20~30℃程度で、特に25℃前後が理想的です」
再びページを捲る。
「産卵のために、柔らかく湿った土壌が必要です。特に腐葉土や湿り気のある黒土など、卵が乾燥しにくい土壌が理想的です。鈴虫のメスは……ここは関係ないか」
さらにページを捲る。
「鈴虫は身を隠すための植生が豊かな場所を好みます。ススキのような草むらや低木の下、岩の隙間、倒木の陰など、適度に隠れられる場所がある環境が理想です。……ほうほう!」
またさらにページを捲る。
「鈴虫は静かで人や動物の出入りが少ない環境を好みます。また、直射日光や強い風が当たらない場所が適しています。人間が飼育する場合は、風通しのよい日陰や屋内で飼育するのが望ましいです……よし!」
少女はそう呟くとクローゼットから小さなリュックサックを取り出した。昆虫図鑑とラジオに関する書籍をリュックに入れ、私が入っている虫籠を首掛け、アルミホイルで巻かれた鈴虫の籠を片手で持ち上げる。そして、玄関へ駆け出した。
少女の足が向かったのは、家の裏手に広がる小さな山だった。その山は長年手つかずの自然が残る場所であり、彼女が幼いころから何度も遊び場として訪れていた馴染み深い場所だそうだ。獣道と呼ぶには頼りないほど細い土の道が、木々の間を縫うように続いている。彼女はその道を慣れた様子で進んでいく。草木を踏む音と、枝葉が擦れる軽やかな音が耳に心地よく響き、湿り気を含んだ土の匂いが立ち込めた。
太陽の位置はまだ高い。木漏れ日がちらちらと地面に模様を描き、鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。
「お母さんは、私が小学校に上がる前に死んじゃったの。もともと体が弱かったんだって」
森の中をぐんぐんと進みながら、少女は私と鈴虫に向け、自らの境遇を語る。
「お母さんとは家の中で遊ぶことが多かったの。一緒に色々なものを作ったんだぁ。牛乳パックの舟にしてお風呂に浮かべたり、空き瓶に小さなライトを入れてランタンにしたり、紙コップを使って糸電話にしたり」
どうやら少女の科学者気質は母親との交流で生まれたものらしい。
「夜になると家の外に出て星を一緒に見た。星座にすごく詳しくてね、『あれがオリオン座で、こっちがカシオペア座』って教えてくれたの。でも、長い時間、外には出れなかった。感染するんだって」
感染。つまり少女の母親は何かしらの保菌者だったということか。
「お母さんが死んでから、お父さんは仕事が忙しくなったみたい。あちこち移動しないといけないから私とは暮らせないの。だから、私は叔母さんと一緒に住んでる」
そこで、少女の足が止まった。
「あの人は嫌い。私のこと、絶対に邪魔者だと思ってる」
私には同じ高次元生命体の仲間はいる。しかし人類における「家族」に相当するものは存在しない。少女と行動を共にするようになり、私は様々な物や現象を学んだ。だが、今の少女の感情だけは私に測りきれないもののような気がした。
「あ」
少女の声と共に、ススキの茂みが目の前に現れた。
それはまるで風に誘われて踊っているかのようだった。長い葉をそよがせ、ざわざわと音を立てている。少女はその光景に少しだけ見惚れた後、小さな手を伸ばした。
ススキを数本摘み終えた少女は、次に地面をじっくりと見つめ始めた。そこには、茶色や黄色に変色した大小さまざまな枯葉が敷き詰められている。その中から形の良いものを選び、指先でそっと拾い上げる。こうして集められた自然の素材を持ち、少女は再び虫籠のそばに戻った。ススキの葉は風通しを良くするように立てられ、枯葉や小枝は虫籠の中に自然な陰影を作るように配置された。その間、鈴虫は虫籠の隅でじっとしている。
「これなら……」
そっと蓋を閉じ、期待を込めた声で少女は呟いた。口に手を当て、自らの気配を消そうとしている。昆虫図鑑に書いてあった「鈴虫は静かで人や動物の出入りが少ない環境を好む」という一文を守っているらしい。
しかし、籠の中の鈴虫は相変わらず沈黙を保っていた。少女の眉間に皺が寄る。
「うー!」
少女は我慢できずに声を上げ、草の上に座り込んでしまった。小さな科学者は今や、顔を膨らませながら悔しそうに籠を見つめている。
「なんでぇ?」
唇を噛みながら小声でつぶやき、再び空を見上げる。すると
「あ!」
少女は何かを見つけたらしい。その視線の先を私は追う。木々の間から電波塔がそびえ立っていた。
少女はリュックから「電波の仕組み」と書かれた書籍を取り出した。慌ててページを捲り、その中に『高い場所では電波が入りやすい』と書かれているのを見る。
彼女の瞳に再び光が宿った。西の空からは分厚い灰色の雲がこちらに押し寄せているのが見えた。
少女が電波塔にたどり着くと、彼女の頭上を重たく灰色の雲が覆っていた。日が暮れるまでにまだ時間はあるはずだが、普段よりも周囲が薄暗く感じる。
少女は虫かごを胸に抱えながら、電波塔をじっと見上げていた。その高さに一瞬たじろぐも、彼女の目には迷いよりも決意が浮かんでいる。
電波塔の周囲には古びた金網が巡らされていたが、あちこちが錆びついている。金網の表面には赤茶けた汚れが広がり、ところどころ緩んで膨らんでいる。そしてなにより、金網の下部には大きく裂け、大人が通り抜けられるほどの穴ができていた。
少女は虫籠を片腕に抱え、裂け目にしゃがみ込むようにして身を滑り込ませた。金網の先端が少しだけ彼女の服に引っかかったが、構わずくぐり抜ける。
その時、ポツリ、ポツリと、空から冷たい雨粒が落ち始めた。少女の頬を雨水が滑らかな線となって伝っていく。雨の匂いが周囲に漂い始めた。風が強くなり、遠くで木々のざわめきが聞こえる。少女は、鉄骨の側面に取り付けられた梯子に手を伸ばす。すると、雨で湿り気を帯びた冷たさが指先に伝わったのか、慌てて手を引っ込めた。
「Xも来てくれる?」
少女に尋ねられ、私は上下に体を震わせた。少女は「ありがと」と言い、私が入っている虫籠の蓋を開ける。虫籠から出た私は少女の肩の上に止まった。次に少女は私が収容されていた虫籠を地面に起き、代わりに鈴虫の入っている虫籠を胸から下げる。
そして、電波塔の梯子を登り始めた。
湿った靴底が鉄の階段を叩くたびに、小さな金属音が響いた。無論、私の力で少女と鈴虫を電波塔の上まで運ぶこともできる。しかし私は、私の力が鈴虫にどんな影響を与えていたのかを見極めたい思いがあった。新たなエネルギーを与えた場合、鈴虫の体がそれに耐えきれず、崩壊する可能性もある。
雨がじわじわと強まり、わずかに残った日の光が消えかけていく。その中で少女は一歩ずつ梯子を登っていった。
ふと、虫籠の中からかすかな旋律が聞こえた。少女が息を潜める。雨音に混じって耳に届いたのは、昨夜聴いたピアノの音色だ。
ピアノの音に耳を傾けている間にも、雨は次第に勢いを増していた。大粒の雨が鉄骨を叩き、小さな鈴の音のように響く。少女の服はいっそう濡れ始め、髪から雨水が滴り落ちていた。それでも彼女は梯子を登り続けた。
「お母さん……」
少女が虫籠の中に話しかける。ピアノの音はさらに大きくなっていた。その音の周囲でわずかに人が話している声も聞こえている。複数人いるのだろうか?
「お母さん!」
少女がさらに強く呼びかける。その声は雨音にかき消されそうになる。それでも少女は呼びかける。
「お母さん!」
鈴虫から聞こえる旋律に向け、声の限りに。
「お母さん、いるの!?」
その時。
「あっ」
少女が手を滑らせた。慌てて体勢を立て直そうとするが、滑らせた方の指は空を切る。体のバランスを崩し、足が梯子から外れた。少女の体が宙に投げ出される。虫籠が空を舞い、鈴虫の音が一瞬だけ高く響いた。少女の目が恐怖に染まる。重力に引っ張られて体が落下する。高次元生命体の私であれば重力を操作することで彼女を助けられるだろう。しかし私はそれをしなかった。する必要がなかったのである。
少女が地面にぶつかる瞬間、ひとつの影が素早く動いて少女の下へと入り込んだのだ。暗がりの中で勢いよく腕を伸ばしたのは、そう、彼女の叔母だった。
「なにしているのっ!」
叔母の身体は泥で塗れていた。少女を受け止めるときに飛びついたせいである。よくよく見ると腕には切り傷もついている。森の中を走って抜けてきたようだ。
「あんなところに昇って! 危ないことしちゃダメって言ってたでしょ!」
顔を真っ赤にし、叔母は声を荒げる。そして
「よかった……」
彼女は、少女を強く抱きしめた。少女はあまりの出来事に呆然としていたのだが
「ごめんなさい」
そう小さく呟くと、段々と目を潤ませ、やがて赤ん坊のように泣いた。思えば少女が叔母の前で涙を見せたのはこの時が初めてだった。
さて、そこからの話は後日談である。家に帰った少女はこっぴどく叔母に説教をされたであるとか、少女が落ちた拍子に虫籠の蓋が開き、例の鈴虫はどこかへと逃げてしまっていったであるとか。他にも語るべきことはあるが、それらは瑣末な話なので今回は割愛する。
※
それから随分と時間が経った。私は少女――今はもう立派な成人女性であるが便宜上「少女」と呼ぶ――といくつもの季節を過ごした。
私と言えば、相変わらず無言の観察者である。少女と見守り、観測する存在だ。無論、天才朝顔や反戦鯨との出会いで少女と会話を交わす機会はあったのだが、それらは例外である。基本的に私は重力をわずかに歪め、床から数センチ浮いた状態で彼女のそばにいるだけだ。
その家で、「少女」は窓辺の椅子に腰掛けていた。かつて「少女」が少女であった頃に暮らしていた気の強い叔母の家ではない。彼女の家は例の電波塔の近くにまだあるものだが、今や誰も住んでいない。叔母が亡くなってタイミングで「少女」が引き払ってしまったのだ。それが叔母との約束であり、さらに叔母は「私のことなどさっさと忘れなさい」と病院のベッドで嘯いていたのだが、それでも「少女」は彼女の月命日を欠かしたことはなかった。
「お母さん!」
「少女」の元に一人の少年がやってきた。「少女」の息子である。私はさっとカーテンの陰に隠れた。このところ彼は私を見つけると殺虫剤を吹きかけてくるのである。高次元生命体である私は、人類の殺虫剤によって生命を脅かされることなどないがそれでも気分は良くない。
「Xはー?」
少年がキョロキョロと周囲を見渡している。
「さあ」
「少女」は肩をすくめ、そしてカーテンにチラッと視線をやると微笑んだ。
「どこかに行っちゃったみたい」
私がいないことを知った少年は「えー」と口をすぼめ、次に母親に何かをねだった。すると「少女」は立ち上がり、リビングの隅に置かれた真っ黒の楽器の前へとやってくる。
「早く! 早く!」
「はいはい」
「少女」は小さく息を吸い、次に自らの10本の指を鍵盤の上で滑らせた。その手つきな熟練者のそれであり、まるで1本1本の指が別々の意思を持っているかのようである。ピアノからつむぎ出された旋律は部屋中に広がり、そして少年はその音に合わせて楽しそうに体を動かし始める。どれくらい経っただろか、少年は踊り疲れようで、やがて目をしばしばさせる。フラフラとソファに近づき、旋律の心地よさに包まれるように眠ってしまった。
その時、「ザザ」と何かのノイズ音が聞こえた。彼女はピアノを弾く手を止め、音の主を見つめた。窓の縁に1匹の鈴虫がいる。羽音を響かせているのだが、その音は明らかに普通の鈴虫とは異なり、どこか機械的で、なによりも不規則であった。
『お母……ん……?』
羽音の向こうから幼い声が聞こえた。「少女」は息を呑む。そして
「大丈夫よ」
「少女」は鈴虫に向かって優しく語りかけた。
「あなたは大丈夫」