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3話「鏡の中のX」

 私は、一人の少女のそばに身を置いている高次元生命体である。少女は私を「X」と呼ぶ。外見は黒いマリモのように見えるが、それはあくまでこの世界で活動するための仮の姿であり、実際には三次元を超えた存在だ。


 さて、少女が過ごす夏休みも半分が終わろうとしていた。

 そして、そんな少女は今、自宅の裏手に生い茂る木々の影に隠れ、じっと物置を見つめていた。私はと言えば、少女の肩の上に停まり、同じく物置をじっと見ている。

 物置の前に、少女の叔母と色黒の男が立っていた。叔母は背筋をピンと伸ばし、どこか厳格な雰囲気を漂わせる女性である。年齢は30後半とのことだが、少女が言うには「もっと若く見える」らしい。黒髪は肩にかかるか否かの短さで、整った眉と切れ長の眉は強い意志が宿っているようだ。

「どうかしら」

 叔母に尋ねられ、色黒の男は「うーむ」と腕を組む。藍色のツナギと帽子をかぶっていた。 

「けっこう古いものが多いですね」

 今、物置の扉は大きく開け放たれ、その外には使われなくなった道具や箱が山積みにされていた。古いラグの切れ端や年代物の引き出し、古い書籍の束、壊れかけた家具などや調度品。どうやら叔母はそれを処分しようとしており、色黒の男はそれを引き取りに来たらしい。

「うち、リサイクルショップなんで、引き取れないものも多いかも」

 叔母の鋭い目が男に向けられる。

「あ、もちろん全部じゃないですよ」

 慌てて男は言い直した。そして「あ、これとか」と一枚の姿見に目をやった。

「これとか、良い値段がつきそうです」

 色黒の男が言う通り、その姿見には高級感があった。彫刻された木製のフレームは深いマホガニーの色合いで金箔が繊細に施されている。鏡台の脚部は流れるような曲線を描き、脚元には見事な金属細工がされていた。

「引き取っちゃいます?」

 すると木の影で少女が息を呑んだ。「ダメダメダメ」と祈るようなポーズを作った。まさにあの姿見こそ、少女が次の実験で使いたい道具なのだ。

「あぁ、ごめんなさい。それは違うの」

 鏡を眺める男に叔母が伝える。

「中の物を運ぶときに一旦、外に出しただけ。売り物じゃない」

「あ、そうなんですか」

 男は少し落胆したようだった。

「でも物置にしまってたってことは使ってないんですよね? せっかくだし引き取っちゃいますけど」

「大丈夫」

 ぴしゃりと叔母は断る。

「それ以外のものを査定してくださる?」

 これ以上の交渉は無理と判断したのか、男はもう鏡のことは口にしなかった。他の物を品定めし、やがて二人は家の中へと入っていく。同時に、入れ替わるようにして少女は木々の隙間から飛び出した。

「よかったぁ!」

 姿見の前に立ち、大きく息を吐いた。

「ねえ、X。これで次の実験ができるよ!」

 少女が嬉しそうに報告する。私はただ上下に体を震わせるだけだった。


 少女は姿見を小さな台車に乗せ、こっそり自分の部屋の中へと運び込んだ。部屋の扉を閉めると、お気に入りのリュックを開け、中をゴソゴソと探る。やがて「あった!」と声を弾ませ、あるものを取り出した。

 それは、細長い懐中電灯である。

「これはすごいんだよ」

 うふふ、と少女は語る。

「いつも行っている図書館の近くにね、とっても大きな工場があるんだけど、昨日行ったら入り口があいてたの。だから私、思い切ってその中に入ってみたんだ」

 少女と暮らし、私は人間に関する常識がある程度わかってきた。少女のその行動は不法侵入である。

「そしたらね、この懐中電灯を拾ったの!」

 窃盗である。

「あ、大丈夫。後からちゃんと戻すから!」

 とはいえ窃盗である。しかしながら、私の言葉は少女に届いていない。

「これのなにがすごいかって言うとね」

 そう言って少女は部屋の電気を消した。カーテンを閉め、自身の部屋に極力光が入らないようにする。

「見てて」

 少女は懐中電灯のスイッチを押す。すると、小さな光の筋が天井へと伸びていった。なるほど、私は少女が言わんとしていることがわかった。通常の懐中電灯と比べて光の筋が細く、そしてはっきりとしているのである。

「ね! レーザーポインターみたいでしょ!?」

 少女は目を輝かせ、そしてその光の線をゆっくりと姿見へと向ける。

「わ!」

 少女の手元から伸びた細長い光の筋、それは鏡の表面で反射し、反対の壁へと一直線に伸びた。

「X、ちょっと持ってて!」

 宙を漂っていた私は小さく体を揺らして応えると、重力を操り、懐中電灯をぴたりとその場に固定する。

「そのままね! そのままにしててよ!」

 少女は忙しくなく机の引き出しを開け、中から透明な分度器を探り出した。床に膝をつき、鏡に映る光の角度を慎重に観察し始める。懐中電灯から伸びる光の入射の角度、そしてそれが姿見で反射する角度をそれぞれ測って

「すごい! 一緒だ!」

 興奮した様子で少女は飛び上がった。本棚から「光の法則」と書かれた書物を取り出し、夢中になってめくる。

「入射角が24度! 反射角も24度!」

 それからも少女は鏡を使った実験に興じていた。手鏡と姿見を向かい合わせることで、無数に連なる自分の姿を映し出し、その擬似的なトンネルの不気味さと奇妙さに身震いをした。もちろん幾重にも映し出される少女の瞳の中には好奇心が蠢いている。


 異変が起きたのはしばらくしてからだった。先にそのことに気づいたのは少女である。

「あれ、X?」

 そう言って少女は鏡の中のある箇所を指差した。その指先の向こうには私が映っている。いや、違う。正確には“私に近い何か”が映っていた。本来の私は黒いまりものような形状をしている。しかし鏡の中にいるそれは、なぜか真っ白に染まっていたのだった。

「X、あなたの力なの?」

 尋ねる声には、驚きと好奇心が混じっている。少女がそう尋ねるのも無理はない。私は高次元生命体であり、これまでも私のエネルギーによって少女の身の回りに不思議な現象を引き起こしてきた。つい数日前の鈴虫などはその最たる例であるし、そもそも私と少女が出会うきっかけとなったあの”奇妙な出来事”も元を辿れば原因は私にある。

 だが今回のこれは違う。私は否定の意思を伝えるため自らの体を左右にゆっくりと震わせた。私の高次元エネルギーを受けた物質や生物は、私にしか感知できない独特の振動や歪みをその周囲に生み出す。しかし、この姿見からはそれを感じられなかった。すなわち、真っ白な私が鏡の中に現れた、という現象はこの鏡自体が生み出した “異常”なのである。


「あなたじゃないのね……」


 少女は私の意思を理解し、小さく頷いた。そして不思議そうに鏡に近づき、私と、鏡の中の“白いX”を何度も見比べた。少女の視線は鋭く、まるで謎を解こうとする探偵さながらである。すると。

「あ!」

 鏡の中の“白いX”だけが動き始めた。それは、私の動きに追随するものではない独自の動きであった。あたかも自分の意志を持っているかのように、あたかも私とは”別の生物”であるかのように示すかのように、縦横無尽に鏡の中の空間を飛び回っている。その奔放な動きは私とは対照的にも見えた。

「なにこれ、なにこれ」

 彼女は分厚い図鑑をめくり始める。どこかに目の前の現象を説明してくれるページがあることを期待しているらしい。ページをめくっては鏡の中の“白いX”と確認し、またページをめくって鏡の中を見る。

「光の屈折? いや、違う」

 少女のページをめくる速度が徐々に速くなっていく。だが、彼女の図鑑にはこの現象についての記述はない。

「ない……こんなこと、どこにも書いてない!」

 少女はパッと顔をあげ、飛び跳ねるようにして私にこう言った。

「すごい! これって大発見だ!」


 鏡の中の“白いX”は、依然として独自の動きを続けていた。少女はその動きをじっと観察している。ノートを広げると思いついたまま、“白いX”に関する情報を書き連ねていた。

「物置にあった鏡を部屋に持ってきたら、鏡の中のXが白くなった。白いXは好き勝手に動いている。こっちのXよりも活発だ。さっきからずっと飛び回っている。まるで……」

 そこで少女は鉛筆を持つ手を止めた。

「もしかして、私に何か伝えようとしている?」

 その瞬間、白いXの動きがピタッと止まった。少女の近くまでやってきて、大きく上下に動く。それは、私が少女に肯定の意思を伝える時とほとんど同じ動作であった。

「そうだよ! 白いXは何か伝えたいんだ!」

 少女は白いXに尋ねる。

「なに? あなたは何を伝えたいの?」

 白いXが動く。しばらくして、少女はアッと声をあげた。

「これ、文字の形じゃない?」

 少女の言う通り、白いXは自らの動きの軌跡で文字を表現している。

「上、下、斜め」

 少女はノートを膝に置いて白いXの動きを書き留めていった。白いXは左右に揺れる、次に弧を描くように動く。少女はその複雑な動きを目で追いながら、手を止めることなくペンを走らせた。

「こうかな……?」

 完成した文字列を見て、少女は首をかしげた。

「うーん、これってなんだろう?」

 ノートにはいくつもの曲線や線が並んでいるが、それは見慣れた文字でもなければ、絵ともつかない、奇妙な形状だった。少女は困惑した表情でノートと白いXを交互に見つめる。

「あ、待って!」

 少女は立ち上がり、ノートを鏡の前へと持っていった。彼女が書いた文字は反転し、そして、【はじめまして】と読めるようになる。

「そっか! あなたの世界は全てあべこべなのね!」


 それから、少女は白いXとの交流に夢中になった。まず少女は、白いXとスムーズにコミュニケーションを取るため反転文字を書く練習を始めた。彼女の飲み込みは早く、あっという間に反転文字の読み書きを身につけた。

「ほら、これで合ってる?」

 少女がノートを鏡に向けると、白いXが大きく上下して肯定の意を示した。彼女は嬉しそうに飛び上がった。

「じゃあ次はしりとりね!」

 少女が提案すると、白いXは体を小さく揺らして同意する。

「最初は……リンゴ!」

少女がノートに「りんご」と反転させて書いて見せる。すると、白いXはしばらく考え込むように静止し、やがて自らの体を変形させた。宙に真っ白の動物のシルエットが浮かび上がる。

「もしかして、ゴリラ?」

 少女が尋ねると白いXは元の球体に戻り、そして上下に揺れた。

「うわぁ、すごい!」

 少女は歓声を上げ、それから二人のしりとりは続いた。動物、食べ物、建物、そして時には想像上の存在までが次々と飛び出した。

「あー、面白い!」

 ひとしきり白いXとの交流を楽しんだ後、少女は満足そうに息をついた。すると白いXが突然動きを止めた。

「なに? どうしたの?」

 白いXがゆっくりと動く。その軌道を追いかけ、少女はノートに鉛筆を走らせた。

「『こっちに、来てみませんか?』。こっちって、鏡の世界のこと?」

 白いXが頷く。

「私も鏡の世界に入れるの?」

 再び、白いXが頷く。

 ごくりと少女は生唾を飲み込んだ。ご存知の通り、少女は好奇心の塊である。たまたま入り口が開いていた工場に単身で侵入し、加えて懐中電灯を手に入れて戻ってくるほどの無鉄砲さも兼ね備えている。

「私、行ってみたい!」

 白いXが反転文字で少女に指示を出す。


――鏡の前に立ってください


 少女は姿見の前に正体した。ノートを両手でギュッと抱え、緊張した面持ちである。


――腕を鏡に伸ばして


 右手を広げ、手のひらを鏡へと向ける。


――そのままこっちに


 一歩、鏡へと踏み出す。


――もっと


 さらにもう一歩、鏡へと進んだ。その瞬間、少女の体が宙に浮かび上がる。スカートの裾がふわりと広がり、彼女の小さな足が床を離れた。

「えっ? なに……どうして?」

 少女は自分の足元を見下ろしながら、困惑した表情で声を上げた。両足をバタバタと動かしているが、浮かぶ体はまったく動じない。

「X? これってあなたの仕業なの?」

 その通り。鏡に触れようとする少女を止め、彼女を宙ぶらりんにしているのは私の力である。

「なに? どういうこと?」

 少女が不満げな声を出した。当然だ。彼女にしてみれば楽しみにしていた冒険を邪魔されたのだから。だが私はその声に反応せず、じっと鏡の中の自分を見つめ続けていた。


 私は観測者である。この世界を観察するためにこの星へと降り立った。しかしながら、鏡の中の白いXは違う。彼は私にはない意思を持っている。すなわちそれは、この鏡の意思に他ならない。

「もう、どうしたの? 早く私を――」

 少女の言葉が途切れた。どうやら彼女も気づいたようだ。この部屋で新たに生まれたある異常な現象を。

 今、私の力によって少女は天井付近まで浮かび上がっている。だが、鏡の向こうはそうでない。鏡の中の少女は宙に浮かず、姿見の前で立ったままなのだ。


 “鏡の中の少女”は笑っていた。目を細め、満面の笑みだった。

 だんだんとその顔が黒ずみ始める。白いXとは対照的な、真っ黒の皮膚だ。

 “鏡の中の少女”の唇が小さく開く。太く低い声が聞こえた。


「もう少しだったのに」


 彼女はそれだけ呟くと私たちに背を向け、鏡の中の部屋の外へと消えていった。白いXのまた、”鏡の中の少女”の後に続いていく。

私たちは、その後ろ姿をただじっと見つめていた。



 気づくとどっぷりと日が暮れていた。少女は大慌てて姿見を物置へと戻そうとするも、どうやら近づくのも怖いらしく、仕方がないので私が重力を操作し、鏡を物置まで運んだ。観測者と言いながらもなんだかんだ私は少女の世界に干渉している。

 幸いにも少女が姿見を持ち出したことは叔母に気づかれることはなかった。


 その日の夕食で、少女は例の鏡について叔母に尋ねていた。(私はこっそりその時の二人の会話を盗み聞きしていた。)

「なんでそんなこと気になるの?」

 叔母の鋭い目が少女を突き刺す。

「え、あ、その」

 あからさまに少女の目が泳いだ。彼女は隠し事や嘘をするのが得意ではない。叔母は疑わしそうに少女を見ていたが、やがて缶ビールをぐびっと飲むと

「曰く付きの鏡なのよ」

 と答えた。

「曰く付き?」

「私の父さん、だからあなたのお爺ちゃんね、そのお爺ちゃんが生きている時はこの家で暮らしてたんだけど、その時からあの鏡は物置にあったみたい。関わると良くないからことが起きる、特に子供は絶対に近づくなって言われてた」

 どうやら、少女が物置に近づくことを禁止していたのはそれが理由らしい。

「捨てちゃえば良いんだけど、それもそれでなにが起きるかわからないからダメなんだって。だから、ずっとあそこにしまってるの」

 売ったら良い値段するみたいなんだけどねぇ。少女の叔母は肩をすくめ、そしてグビっとビール缶を傾けた。


 翌日、ちょっとしたトラブルがあった。最近取り付けた物置の鍵が壊されていたのだと言う。特別盗まれたものなどなかったが、叔母は少女の仕業ではないかと問い詰めた。

「違う!」

 少女は顔を真っ赤にして否定し、「なんで私のせいにするの!」と頬を膨らませながら反論した。しかし叔母は「日頃の行いが悪いせいだ」と譲らなかった。概ね、私も叔母に同感である。


 さらにその翌日、不用品買取センターの男がやってきた。

 例の鏡を売ってくれないかと叔母に何度か提案していたあの男だ。

 同じ男であるはずだが、その肌は真っ白になっていた。


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