――いつかは、こういう日がくるって分かっていた。
それが花街で生きる女の宿命だということも。
蕾が花開くように、蛹が蝶になるように――変わる瞬間は必ず訪れる。
しかし、実際にその現実を突きつけられると、決意が揺らぐ。
いや、違う。決意が揺らぐ本当の理由は、花を散らす恐怖ではなく――
「小雨? どうしたんだい?」
「厚切様……」
思わず部屋を飛び出して店の裏庭まで駆け下りてきた時。背後から声をかけられた。
――どうして、彼がここに? お客さんが来るような場所じゃ……
「とても、哀しそうな目をしているね」
鴨ノ助は優しい手つきで、小雨の頬を撫でた。
たったそれだけで、浮かんだ疑問は頭の隅へと追いやられた。
「私で良ければ、話くらい聞くよ」
「厚切様……っ」
思わず縋りそうになるが、それを寸前で堪えた。
「いいえ、私は……」
「我慢するもんじゃないよ、小雨」
と、彼は一歩後ろに下がった小雨の腕を引いて自らの腕の中に閉じ込めた。
そして、袖で小雨の涙を拭った。
「いけません、厚切様。お召し物が……」
「いいんだよ。私の袖はね、女の涙を拭うためにあるのだから」
「……っ」
優しい口調と、自分の頭を撫でる手に、小雨は別の涙が溢れてきた。
「ありがとうございます、厚切様。あなたは、いつも、私に優しくしてくださる」
「当然だ。私はね、小雨、お前のことをとても気に入っているんだよ。だから、どうしても、構わずにはいられないんだ。なんてことを言ったら、また店の人に怒られちゃうかな」
おどけた様子で言う彼の瞳は熱っぽく小雨を見つめ――まるで恋焦がれる乙女のような深い情を感じた。
その時、ふいに、朝霧の言葉が脳裏をよぎった。
――『聞いて、小雨。私、好いた人が出来たの』
――『まだ少しだけ怖いけど、その人が言ってくれたの。私の水揚は、自分が担当するって。その気持ちだけで、私は十分救われた。これから先、とても怖いことや酷いことがあるかも知れないけど……初めてを好いた人に捧げられるのなら、それだけで私は生きていけるわ』
――初めてを、好いた人に……。
「厚切様……」
小雨は、縋るように彼を見上げた。
対する彼は、そんな小雨の身体を抱き締めながら、彼女の頬を優しく撫でる。
「何だい?」
「私……もうすぐで、水揚なんです」
「それは、本当か? あ、でも、言われてみれば、小雨ももうそんな年頃だったね」
「……雲雀、姉さんが……日程を、決めるって」
「雲雀……ああ、またアイツか」
彼女の名前を出しただけで、大体の想像がついたのだろう。鴨ノ助は、軽く拳を握った。
「まったく、酷いことをする女だ。自分も、通った道なら、それがどれだけ重要か分かる筈なのに……」
「厚切様、私……」
小雨は遠慮がちだった手を伸ばし、鴨ノ助の背中に手を伸ばした。
「小雨?」
「私、ずっと……これが、本当に恋なのか、分かりませんでした。ここでは、恋は御法度。恋をした人から、命を落とすから……」
――今でも、命をかける程のものかどうかは分からない。だけど、泡沫様は言ってくれた。
「それでも、あなたをお慕い申しています」
恋の結末は人それぞれ。ならば――
――私は、この人との一夜限りの思い出だけあればいい。
「
「そんなもの、必要ないんだよ、小雨」
「え?」
思ったよりも優しい声が降ってきて、小雨は彼を見上げた。
「慈悲なんかじゃない。言った筈だよ。私はね……ずっと前から、お前が好きだったのだから」
「う、そ……」
「嘘なものか。毎日頑張るお前に、いつしか恋に落ち……いじらしいお前を、自分の物にしたい。そんな欲望すら抱いていたんだよ」
「……あっ……」
鴨ノ助の腕が、小雨の腰を撫でた。
「本当は、お前が店に出てからにしようって我慢していたんだが……お前にそこまで懇願されては、男として、私も応えなくてはね。小雨……貰って、いいんだね?」
「はい、厚切様!」
――ああ、私は幸せだ。
小雨は、ずっと重かった心が晴れていくのを感じた。
今までが雨雲のように暗くジメジメしたものだったら、今は雨上がりの空のように清々しい。
――姉さん達は、恋は危険だ、命を落とすって言うけど……そんなの、嘘だった。
――だって、私は今、こんなにも幸せだ。
――恋をして、幸せになれたんだ。
――あの時、姉さんがすごく幸せそうだったのが、今ようやく分かった。
恋をした。
そう自覚した瞬間、心がとても軽くなった。雪解けのような、晴れやかな気持ちになれた。
これが最初で最後の恋だとしても――
「厚切様、私は、幸せです」
「ああ、私も……これで、ようやくお前が手に入る。恋い焦がれていた時は辛かったけど、今とても幸せだよ」