「それじゃあ、小雨」
鴨ノ助は、小雨に笑みを落とした後、抱いていた肩をそっと遠ざけた。
「誰かに見られては邪魔が入るかも知れない」
「あ……」
小雨の脳裏に雲雀の姿が浮かび、小雨は俯いた。
――そういえば、どうして雲雀姉さんは、いつも私をあんなに邪険にするんだろう。
――私、何かしてしまったのかな?
以前から、小雨は雲雀が苦手だった。
男勝りで言いたいことをはっきり言う雲雀と、言いたいことが言えずに縮こまってばかりの小雨。水と油であり、相性は良くないだろうとは思っていた。
――それでも、前はまだ……少しだけだけど、ちゃんと話せていた。
――あんな風に、脅したり、わざと傷つけるようなことを言ってくる人ではなかった。
潺が死んでから、雲雀の当たりは強くなった。
特に、小雨が厚切と話している時、彼女は邪魔するように絡んでくる。
――もしかして、姉さんも……。
「どうかしたのか? 小雨」
小雨が無言で厚切を見上げていると、彼は柔和な笑みで首を傾げた。
「い、いえ、何でもありません」
「そうかい? なら、早速だが、日付は……」
そこで、厚切はそっと小雨を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「明日の、この時刻に、ここで会おう。いくらなんでも、明日いきなりってことはないだろうし、その時は上手いことを言ってかわせばいい。かわし方は知っているかい?」
「あ、はい。その……せせ姉さんが、よくやっているのを、見ていましたから」
大体が体調不良といえば、相手の方が遠慮する。花街は病にかかりやすい。体調の悪そうな娘をわざわざ呼びつける物好きはいない。それこそ、死にたがりな奴くらいだ。それも、相当苦しんで死にたいような。
あとは――
「……っ」
小雨はもう一つの言い訳を思い出し、顔を赤らめた。
これは少女の特権ともいえる言い訳だが、実際に言葉にすると恥ずかしい。
「……っ」
その時、刺すような視線を感じ、小雨はおそるおそる顔を上げた。
鴨ノ助が、自分を見つめていた。
あまりの気迫に、小雨は身を固くした。
花街で交わされる、男が好いた遊女に向けるような色っぽい視線でも、たまに町で見かける恋仲の男女の間で交わされる、愛おしいものを見るような甘酸っぱい視線でもない。
もっと傲慢で、強欲で、獰猛で――欲を孕んでいた。
「……っ」
小雨は無意識に鴨ノ助から距離を取った。
「小雨? どうかしたのか?」
「あ、いえ」
しかし、それは小雨の気のせいだったようで、一瞬で彼の顔から、その怖い気配は消えていた。
いつも裏庭で泣いている時に慰めてくれる、優しくて頼れる大人の男の人の顔だった。
――私の、気のせい?
「すまない、もしかして、怖がらせたか?」
「い、いえ! それに、その……私が望んだことですし、か、鴨ノ助様なら、私は何も、怖くありません」
小雨は真っ直ぐ鴨ノ助の目を見て言った。
「そうか」
鴨ノ助も、優しい笑みで小雨の言葉を受け入れてくれた。
小雨はそれを見てホッと胸をなで下ろした。
――良かった。いつもの鴨ノ助様だ。やっぱり私の気のせいだったんだ。
「それじゃあ、明日」
そう軽く挨拶を交わした後、小雨は鴨ノ助と別れた。
夜風が身体を冷やす中、小雨は逆に体温が上がっていく気がした。
――きっと私が、恋をしているから。
――あの人に恋をしているから、こんなにポカポカした気持ちになっているんだ。
小雨が自分の両頬に触れると、冷たい指先がほんのり暖まった気がした。
――それにしても、どうして……
ほんの一瞬だったが、鴨ノ助の顔が、獰猛の獣のように見えた。
獲物を狙う、飢えた獣のように。
あの目を、知っている。
何度も、見てきた。
この花街で、男が女を買う時に見せる、欲に忠実な雄の眼。
――なんて、気のせいだよね。
――きっと雲雀姉さんに脅されて、気が動転して、そう思ってしまっただけ。
――だってあの鴨ノ助様が、そんな目をするわけがない。
彼は他の男とは違う。
優しくて紳士的な人なんだから。女性を傷つけたり、道具のように扱ったりしない。
――怖いって思ったのも、きっと……気のせい。
小雨は何度も自分にそう言い聞かせて、屋内へと戻った。