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2.赤歯寺・回向

第3話

 南二名市。合併により広大な土地を市域にした四国の一地方である。斧馬町はその中にかつて存在した旧町名であった。


 昔はこの辺りの中心地であり交通の要衝だったこともあり、住人たちの中には今だに〝最早自分たちは市民であり町民ではない〟という意識が芽生えていない者が少なくない数存在している。


 この斧馬の地に、赤歯寺という仏閣がある。さほど有名ではないが、遍路が来るのでわりと賑わっており、財政状態も悪くなかった。


 夜の帳が下り、深々と静けさが寺域を包む。


 袈裟に身を包んだ歳若い住職は、これまたひっそりと音を立てぬように、古木の廊下を歩み庫裏に向かっていた。


 今日は特別な日とされている。年に一度の大切なお勤めの日であった。先代も先先代も決して忘れたことはなかったというが、住職は怪しいものだと思っている。


 先先代はともかく、先代は酒癖も悪く評判の悪い坊さんだったのだ。


 大切なお勤めには違いないが、今日のこれは正式な仏事ではない。


 これは……なんというのだろう? 民俗行事というのだろうか。知っている人間は『ご招来の日』と呼んでいる。


 この地方の、というか、この赤歯寺に伝わっている行事というか儀式だった。


 簡潔にいうと、何かが赤歯寺に来るという日である。仏であるとか、その眷属とかそういうものではないらしい。


 何かよくわからないモノがこの寺に訪ねてくるのだ。


 ただ来るのではなく、住職はその来るモノのお相手をしなければならない。


 この地方の言葉でいうと、遍路にするように、お接待をしなければいけないのだ。


 現住職はこの儀式の意味や由来など何も聞かされていない。誰にも続けろとも言われてないのでやめてもよいのだが、なんとなく続けている。


『まぁ、大三島のほうでは神様を相手に、とかいう話で一人で相撲するらしいし……。それに類するもんやろな』 


 住職は、聞きかじった知識でなんとなくそんな風に理解していた。


 庫裏くりに到着し、住職は静かに席に着く。準備は前もってしてあるので、後は時間まで座っているだけだ。人に見せてはいけないことになっているので住職以外、この場には誰もいない。気楽なものだ。


 目の前には、きちんと料理が二人分作ってある。自分と客の物だ。


 これも決まりがあって、料理は接待をする住職が全て手ずから作らなければならない。


 寺で出すものなので、なまぐさ、香りや刺激の強いものはない。いわゆる精進料理と呼ばれるようなものだった。


 ただ、酒は出しても良いことになっているので、今回も一応準備してある。基準がよくわからない。


 幸い住職は料理も嫌いではないので、手間ではあるが、これも別に特段面倒だと思ったことはなかった。


 建物の外は、闇が満ちるようにいよいよ夜が更けていく。ただ、庫裏の電灯だけが木々に囲まれたこの寺の中で、地に落ちた星明かりの如くぽっと漏れ出していた。


 こうやって、古めかしい作りの庫裏に端座し、何者ともしれぬまろうどを待っていると、普段の修養とはまた違う、神妙な気持ちになってくる。


 若い住職は、この何か、特別な時間と寂静の気配をいつしか楽しんでいる自分に気付いた。


「入るぞ」


 ふと、何かの声が聞こえた気がした。


 住職は、慌てて黒光りのする板張りの室内を見渡してみるが、誰もいない。


「最近何か変わったことはないか?」


「え? あ、あの、回向えこう様ですか?」


「そうだ」


 〝回向〟は、このご招来の日に赤歯寺に来訪するとされているモノの名である。現住職は、この儀式をもう五、六回は執り行っているが、こんなことは始めてだった。


 先代、先先代はどう言っていただろう?


 本当に何かが来てしまった場合はどう対処すればいいのか……。


「何か変わったことはないか?」


 見えない何かは、再び同じことを聞いてきた。


「と、特に何もありませんが……」


 誰かの悪戯だろうか? との思いも心の隅をかすめたが、住職は確かめる気にはならなかった。


「そうか……」


 声は、何かを思案しているようにしばらく発せられなくなる。


「赤歯寺だけのことではなく、この辺一帯、斧馬の地で考えても何も浮かばないか? 何でもいいんだが。例えば不吉な予感、といったようなものだ。ちょっと気になったようなことで」


 非常に漠然とした問いだが、何かの意図があって聞いている、ということは住職にもわかる。


 しかし、いくら考えてみても、何も出てこない。


「何か災害や犯罪の予兆、といったようなものでしょうか?」


 住職は生真面目に問い返す。


 声の主は、またしばらく沈黙していたが、

「……いや、違う。そうではない。もういい」

と、諦念を含んだ口調で答えた。


「ではな」


「あ、あの、お料理は?」


 帰りそうな気配を察し、住職は慌てて引き留めるような言葉を口に出した。折角用意したのだから、食べてもらいたい気持ちはある。


「いや、いい」


 声は、素っ気なく返したが、

「……酒は貰う」

と、後に付け足した。


 それきり、声は消えてしまった。呼びかけてみても、何の応答もない。


 住職は立ち上がり、部屋の内外を調べてみるが、何者の痕跡も発見出来なかった。


「んっ?」 


 終わった、ということだろうと解釈し、部屋を片付け始めて気付く。


 回向の側の膳に置いてあった、酒の入った徳利が空になっていた。料理は全く減っていない。


「ははっ……ははははは」


 住職は、誰もいない部屋で一人、哄笑する。


「なるほど、これが〝回向〟か。ははははは!」


 仏教語のそれとは違う、知っている者にとっては独自の意味を持つ言葉を口にし、住職は虚空に向かって笑い続けた。

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