山名の家は斧馬でもかなり大きく、存在感のあるものだった。
今でも立派な門構えのある屋敷に住んでいるし、古い文献もそれなりに残っているらしく、時々(本当に時々)研究者のような人々も訪ねて来る。
その山名家の一人娘、
一家は今は新居の方に移っており、こっちに来ることは滅多にないのだ。ただ、掃除や手入れはちょこちょこおこなっており、埃っぽさや、居辛さは感じなかった。
雅樂の前には、食事の用意がある。二人分。料理を作り、部屋に設えたのは母と祖母だった。本当は自分でやらなくてはいけないらしいのだが、雅樂は料理はからっきしなので、このようなことになったのだ。
『今日はこの部屋でお夕飯ということでしたけど……。もう食べて良いのでしょうか』
料理はとっくに冷めてしまっている。ただ、家の者の話では、なるべく深夜0時を過ぎてから食べるように、とのことだった。
『話だけは昔から聞いていましたが……いざ自分がやる段になっても、意味がよくわかりませんわね』
鼠一匹いない、森閑とした母屋で一人首を傾げる雅樂。
いかにも育ちの良い綺麗な目元の、上品な雰囲気の女性であるが、どこか抜けているような印象も覚える。着慣れない着物のせいで今一つ落ち着かない様子だ。
『着物なんて七五三以来……あ、成人式以来でしょうか。まぁコスプレのようなものと思えば』
などとのん気なことを考えている。ちなみにコスプレの経験はない。
今日は、山名家で〝かんのあえ〟と呼び習わされている日である。
代々、山名家の中の誰かがこれをやらなければならないのだが、今年は〝そろそろ雅樂に〟ということで、彼女がここに座っているのである。
何が〝そろそろ〟なのかは雅樂にもよくわからない。おそらく誰にもわからないのだろう。
特別何か難しいことをするわけではない。ただこの日は母屋の決まった部屋で、一人で晩飯を食うのだ。出来れば、0時過ぎということだが、絶対に守らなければならない決まりというわけでもないらしい。
聞くところによると、赤歯寺でも似たようなことをしているようだった。
『あちらも食べてよろしいのかしら……?』
何故か料理は二人分ある。もういつもの夕飯の時間はだいぶ過ぎており、雅樂は腹と背中がくっつきそうになっていた。
そろそろ0時を回ることでは。
そう思い柱時計を確認してみるが、まだ一時間ばかりある。
もう食べてしまおうか、と雅樂は箸に手を手を伸ばすが、寸でのところで思い止まる。
先程からこれを、何度か繰り返している。
きつく言われているわけではないが、雅樂はタブーを破ることに抵抗があった。
厳めしい造りの古い母屋は、何か圧迫感があり、雅樂の心の内を見透かしてくるような怖さがある。
誰も見ていないからといって、勝手なことをするのを、この家は許してくれないのではないだろうか。そんなぼんやりとした思いがわいてくる。
『……少しだけなら』
ほんの少し、味見程度ならよいのでは。
しかし、あまりの空腹との戦いに負け、雅樂は目の前の誘惑に引きずられそうになった。
『一口だけ……万一味付けを間違えていたら、失礼になりますし……』
雅樂も今思い出したのだが、今日は確か山名家にやってくる何かと食を共にする、という日であった。
神様か何かよくわからないが、少しくらい味見……毒見をしても罰はあたらないのでは?
雅樂の中でするすると言い訳が結ばれていく。
では、と箸とお椀を手に持った矢先、突然裏の戸が開いた音がした。
『お、お母様かお婆様が見にいらしたのかしら?』
雅樂は、思わず身を固くする。
「こんばんにゃ~」
間の抜けた声が母屋の中に響いた。雅樂の母や祖母のものではない。奇妙な濁った声音だった。強いて言えば男のものだが、聞き覚えのない声である。
どうしていいかわからず、うろたえている内に何者かの気配がどんどん雅樂の居る部屋に近づいてきた。
「おばんですにゃ~」
声の主は器用に引き戸を開けて、のしのしと室内に侵入してくる。
「ねっ、ねっ、ね……ねこ?」
「返事が無いから勝手に上がらせてもらったにゃ。驚かせたら悪かったかにゃあ」
「ねこっ! 猫……」
雅樂の前にいるのは、猫であった。ただの猫ではない。大きさでいえば虎かライオンくらいはあるのではないだろうか。いや、もう少しあるかもしれない。
「いや、ほんとスマンにゃ。人間態は疲れるからにゃあ……あれっ? っていうかワシのこと見えとるの?」
混乱の極みにいる雅樂はまともに返事が出来ず、引きつった顔でブンブンと首を縦に振った。
巨大な猫は、気持ち良さそうにほぉーと唸り、顔を上下に緩ませる。
「幸先がいいにゃ。これはなかなか有望株にゃ」
「ヒッ、ヒッ」
雅樂は引きつけを起こしたように、青い顔で息を短く呑みこんでいる。
「まーやりにくいにゃろうけど、これで来たから最後までこれでいかせてもらうにゃ。さて、これから本題に入るんにゃが、今ちょっと困ったことに……」
「んぎゃあああああ!」
絹を裂いた、というには少し騒々しい悲鳴を上げ、雅樂は一目散に逃げ出した。
家族のいる新居に辿りついた雅樂は、息も絶え絶えといった様子で、自分の遭遇したものについて喋った。家族が皆起きていたのは雅樂にとって幸いであった。
「その辺の猫が入ってきたんやないの?」
「上甲さんとこ猫飼うとったやろう? あれ結構大きかったことないか?」
「色はどがいやったぞ?」
矢継ぎ早に質問を浴びせられるが、雅樂は全て一息で否定する。
「そういう話ではないです! あれは普通の猫ではありません!」
「でも……猫は猫なんやろう?」
「猫といえば猫なのですが……大きさがパンダくらいあって……」
身振りをまじえて、雅樂が詳しい説明を始めると、どっと笑い声が起こる。
「なんで猫の大きさをいうのにパンダが出てくるんぞな」
「他にあるやろう? ライオンとか虎とか」
「いや、座り方が猫よりはパンダに近かったので……。こう、足を投げ出したような」
この部分はなんとか、雅樂の言いたいことが伝わったようであった。
「しかしなぁ……ウチもむかーし
雅樂の祖母が言う。
……上古。
そうだ、そういえば、今日この山名家にお迎えするモノは〝上古〟という名だったことを雅樂は思い出した。
「まあ、上古様はうちの守り神みたいなもんなんやろう? そんなら猫でもええんかもしれん。ほら、まねき猫みたいな」
父が言うと、皆再び口を開けて笑う。いつもと変わらぬ家族の様子を見ているうちに、だんだん雅樂の気分も落ち着いてきた。
……そう言われてみると、何やら福々しい印象の大猫ではあった。守り神というよりは化け猫に近い容貌だったが。
『しかし……おそらくあれだと儀式は失敗、ということになりますわね』
雅樂は一応確認してみるつもりではあるが、客をほっぽって主人が逃げ出してしまった以上、成功ということはないだろう。
確認はもちろん、明日、日が高くなってから家族の誰かと共同で行うのである。