「うん。上等上等」
「じゃあ、そうね……。まず、この辺って溜め池が多いわよね」
「溜め池?」
乙女は、一瞬意味をはかりかねた。
「ええ。斧馬って古くからの米どころでしょ? 少なくとも弥生時代にはもう稲作が始まってたそうよ」
「ふんふん」
「農業を基礎に置いた古代の集落は、沖積平野の扇状地の端や、河川の自然堤防の上、三角州に出来ることが多いの。水が得やすいからね。四大文明もそんな感じでしょう?」
「そうだったような気がする」
「斧馬は山間の盆地。そのどれでもないわ。周囲の山から細々と降りてくる清水を溜め池で集めて、農業用水にするしかない。故に、この地で初めに発生した権力は、溜め池を造成、管理するものだったでしょうね。この地の古墳に眠っている被葬者はそういう人たちだと思うわ」
「へえー。なるほど」
乙女は、話自体は流しながら聞いていたが、話者の薬子については〝なんか面白そうなやつだな〟と感じ始めていた。
この話題に入ってから、表情がやわらぎ少しだけ楽しそうだ。
「古代において強力な権威を持つのは〝水を管理出来る者〟よ。人は水を求め近づくけど、水を恐怖する。水の神である龍神は恐れられ、なおかつ信仰の対象にもなる。……ねぇ、この辺ってやたら〝斧馬〟ってついた地名が多いと思わない?」
「ああ、そうだな。斧馬見もそうだし」
斧馬見市は、ここ斧馬町から少し行ったところにある市である。かつて乙女はアイドル時代、あるイベントのために立ち寄ったことがある土地だった。斧馬町は現在南二名市なので、直接斧馬見と関係は無い。ややこしい。
「かつてこの辺り一帯は斧馬見も含め大きく〝北斧馬郡〟〝南斧馬郡〟東斧馬郡〝西斧馬郡〟に分かれていたそうよ。今は斧馬見にある〝斧馬津彦神社〟も元はこの斧馬町にあったという。斧馬津彦はかつて斧馬津姫と一緒にこの地を治めていた、とものの本にはあるわ。……おそらく、この斧馬町はこの辺一帯を治めていた豪族が住んでいた土地じゃないかしらね」
「たしかになー。なんか回り全部山だし、高いとこにあるし、攻められにくそうでいいかもなー」
乙女の言葉を聞くと、薬子は口元に手をやり、ふふっと軽く笑った。
「ええ、守るに易く攻めるに難い。標高が高いぶん、かつて
「やまと、って奈良の?」
「ええ。奈良も盆地でしょう? 〝大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 大和し 美し〟の歌から考えるとこの〝やまと〟って言葉は、山に囲まれた場所、くらいの意味かもね。……これに関連してちょっと興味深い話があるんだけど」
興が乗ってきたらしく、薬子は大きいこの地域の周辺地図を取り出し、乙女の座っているテーブルの上に広げる。
「この斧馬盆地の下、松山側に御洲市があるでしょう? ここはおそらく出雲系の移民が拓いた土地だと思うの」
「なんで?」
「出雲系の神である少名毘古那を祀ってる古い神社があるわ。そして、市の西側を流れている大きい川は〝
薬子は乙女の席の対面に座った。
「出雲の人々は斐伊川によほど思い入れがあるんでしょうね。武蔵野に移住した出雲の人々が、須佐之男を祀った氷川神社の名も出雲の斐伊川が起源よ。……そういえば記紀の出雲神話に登場する八岐大蛇は斐伊川の神格化だという説があるわね」
「あー。東京に氷川神社っていっぱいあるよなー」
薬子は、乙女の相槌に対し穏やかに微笑んだ。
「ええ。面白いわよね。出雲の神が遠く武蔵野の地であんなに広く信仰されていたなんて。それでね、その御洲の日地川にはここで少名毘古那が渡河の途中で溺れ死んだ、という伝承が伝わってるの」
「へぇー、神様なのに死んじゃったんだ」
「そういう話が残ってる、ってだけよ。これって私は多分〝出雲系の人々の進攻がここで土着の斧馬勢力に阻まれた〟ってことだと思う」
薬子は目の前の地図にある一点、日地川の大きく蛇行しているところを指差した。
「ほら、見て。日地川を越えたらすぐに兎坂峠に入るわ。御洲側から斧馬盆地に入ろうとするなら、このルートしかない。兎坂峠は戦国時代にも中国地方から来た毛利氏の小早川と、土佐一条氏が激突して激しい戦を繰り広げた場所よ。戦略上の要地だったんでしょうね」
「ほえー、そりゃ面白いね。……いや、今までも面白かったけど」
乙女は慌てて付け足したが、薬子は気に下様子もない。
「でも結局、大和政権の力がここまで及ぶようになると、一緒に吸収されてしまうんだけど。戦国時代でも豊臣政権が平定に乗り出したら四国全体があっという間に飲み込まれてしまうし。……今度はそうならないように気をつけないとね」
「今度?」
「ええ。いわば大和政権も豊臣政権も都市の勢力なの。今この地は地域おこしをしてるんでしょう?」
薬子はどこか他人事のように言った。
「地域おこしなんてものはね、都市との戦いなのよ」
乙女は黙って聞きながら、眼をくりくりさせて薬子を見つめている。
「都市の機能は生産地の管理。そのために人や物資、情報を集積する消費地になる。その過程で都市は本能のように膨張し、生産地を呑み込んでいく。生産の場にとって、都市は収奪の機構でしかないわ。……このシステムの中で斧馬が何かを得ようと思うなら、戦って勝ち取らなきゃね」
「いやー、戦っちゃダメでしょ」
笑顔で自説を真っ向から否定する乙女を、今度は薬子が見つめ返す。
「出てった人間戻すにしても、観光客呼ぶにしても……まぁ、移住希望者増やすにしてもさ、なんか面白いことやってんなー、って思わせねーとダメだよ」
薬子は無言を貫きつつ、視線で先を促した。