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第2話

 めいっぱい考えて出した台詞「風邪ひきませんか」

 女の人は目を開けた。

 ジローは一目散に去った。元の道を、あっという間に去ってしまった。

 俺は立ち尽くす他なかった。誰もがそうすると思う。他に何をすればいいか、誰も教えてくれない。あんなに早く逃げるなんてさ、一体何のために入ったのかとムカついた。

 なんて綺麗な人だろうと正直に思った。きっと森の入り口で石像だった女の人が、太陽に当たりすぎて元の姿に戻った。そう思い込んだ。

 微笑んでいた。そして俺だけに、狼にまつわる伝説を話したんだ。


「探しているの。人の声と言葉がわかるの。迷い込んだ子供にも、旅人にも、鬼のいない道を案内するのよ。私は長い間この森で過ごしている。あなたたちは湖に行くんでしょう? 湖のブルーを確かめに行くんでしょう? きっとその途中で出会えるはず」

 お姉さんはそう言った。

 どうして裸のまま横になってたんだろう。俺たちをあんな格好で待つわけがないし。

 ジローも逃げたこと、噛み締めていたはずだ。思いっきり悔やめばいい。信じてもらえるわけないさ。裸の女の人がさ、十歳の俺に伝えてくれただけ。一人でよかったとさえ思った。隣にジローがいると秘密を明かしてくれない。優越感って、本当にあるんだと知ったよ。


 馬鹿みたいに頬が真っ赤だった。それはしょうがない。

 目の前に裸の女性がいて、何もできずにいたのは事実だ。

「この辺りではね、赤い鬼がいつも歩いてるの。でも彼らは姿を変えて生息してる。郵便屋だったりするのよ」

 時折、村から子供がいなくなったのもそのせいだ。

 本当は同級生になれるはずだったのに。

「狼がね、追い払ってくれたのよ。ほんとよ。あの子たちは太古より鬼から人を守ってきたの」

「……僕が、退治します」

 自分でも驚いた。なぜそんなこと宣言できる?

 口が滑ったばかりに、お姉さんは驚いていた。まだ十歳のガキが言う台詞じゃなかった。

 道に棍棒が落ちてりゃ誰だって気付く。鬼なんかどこにいるんだろう。

 陽が眩しかった。化け物みたいな樹に囲まれても、あそこが西の方角なんだってことがわかる。

 でもまだ先だ。立ち止まるなんて男じゃない。これも死んだ爺さんから聞いたのさ。



「裸のお姉ちゃんが横たわってたのか、そりゃ驚くね。よく観察できたろ。一生の思い出じゃねえかよ」

 ショットグラスを磨きながら豹は言った。

 人の話を聞くのに長けている。成人してから何度も話してるのに、嫌な顔ひとつしない。

 二二歳になって初めて話す遠い昔話。それを嫌な面ひとつしないで聞いてくれる。

「あいつ弟、いたんだっけな」

 豹が切り出した話題にスルーしたかった。

 適当な答えほど、あとに響く。ここ〈ふらんそわ〉のカウンター席だって例外じゃない。忠とは何年も会っていない。その理由を知るのはごく一部だ。村の大人は皆、昔からのしきたりなのか黙っている。山奥の白い家。そこがどんな場所か、説明できる人はいない。兄弟が育った環境を聞いたことがあるから、俺も理解している。腫れ上がった母親のそばから、離れただけのことだ。


「お前に振らなきゃ、誰も話してくれねえからよ」

 そうだ。森の中でも、話さなかった。

「ジローの父親、生きてるんです。俺たちが大人になってること、知らないんです」

 客は皆、ジローを知っている。弟の忠についても。

 ここは村で唯一のバーだから、俺の話もすぐに流れる。森での出来事、そこで出会った女性。ジローのこと。すべてこの店では筒抜けだ。

 俺の背中、黒いソファにいるおじさんもよく訪れる。顔馴染みに悪い人なんてない。

「でもそんなDV野郎、どうやって探すんだよ」

「俺たちも探せるなんて思ってません。昔組んだバンドのメンバーだって、どこかで死んでるわけでしょう。人に会うって、結構奇跡だと思いません?」

「それはちょっと違うな」

 豹はグラスを磨き続けている。 

「誰もが都会に出る。でも俺たちはこの村で参加したかったんだよ。カウンターひとつ飛び越えてさ」

 いつもバンドの話になると微笑む。再結成のため、もう何年も前から同じ話をする。俺もまた、森の記憶を話す。豹の口から元メンバーの詳細が明らかになる。きっとバーに来る客、みんな豹の言葉を聞いているんだ。蕎麦屋の旦那、その店の常連客に綺麗な女性がいたことも含めて。

「辰はずっと清掃で食っていた。隣の村にログハウスがあるの知ってるか? あそこ一体が職場だったんだ」

「隆五さんとは会ってないんですか」

「それがさ、時々天ぷら蕎麦を食いに来るらしいんだよ。でも馴染みだからって話しかけやしない。ふらっと立ち寄る感じかな。俺たちにはわからない空気ってのがあるんだよ」

 豹は辰さんに敬意を抱いている。話しぶりからしてそうだ。

「李子さん、よく年の離れたおやじ二人とバンドやりますね」

「あの子も歌、辞めてるけどよ。姉妹そろって美人と来たもんだ」


 李子さんの妹は、同じ森を踏んだ数少ない女子だ。

 ボーカルの妹ってことはみんな知ってるし、お姉ちゃん以上に頑固なことも有名だ。隆五さんも音楽を忘れて蕎麦を打っている。目の前に元メンバーが座っても、話しかけないらしい。

 豹も商売だ。客の思い出話に付き合いながら、バンドメンバーと綿密に連絡を取っていたようだ。蕎麦屋の旦那、李子さん、そしてモップ拭きのおじさん。三人ともまさかパンクバンドのメンバーだって誰も知らない。少なくともこのバーに来ない連中には。

「お前も顔出してやれよ。ファンの顔がわかるっていいことだ」

 みんな口にしないけど、ベースは隆五さんしかいない。そう思っている。

 後ろにいるおっさん。別におしゃべりなわけじゃない。ただ人が好きなだけ。豹とも長い付き合いだ。

 俺って、親父ばかり付き合ってるなあ。

 ジローとは大違いだと思う。あいつは人とこんなにも付き合おうなんて思わない。

「話してくれ。続きだ」

 豹は言った。背中のおじさんもきっと耳を傾けている。森について切り出したのは俺の方だ。もちろん、後戻りなんかできない。あの日、ジローと出かけた放課後と同じように。


「今から話す男についてだけど」

 店全体が俺一人に集中している。一体、いつから森の奥を知ろうとしたんだろう。  


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