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第3話

 また大人がいた。すごく怖そうな顔の男だった。はじめはこいつこそ鬼だと思っていた。普通はそう思うはず。たった今、息を潜める赤鬼について聞いたのに、味方として映るわけがない。

 背を向けたままだった。腰を下ろして何かを見ている。

 ジローはこんな時、なぜか尻込みしない。それどころか進んで声をぶつける。俺が辞めろと言う前に。

「おっちゃん、怪我でもしたのかい」

 ジローの質問に男は反応しなかった。ガキ二人、いちいち相手にしないらしい。

 黙り込んでいる大人を相手にしない。俺はそう思ってるけど、奴の頭にはそれがない。

「ごめんよ、ここ初めてでさ。向こうに湖があるからって入ったんだけど」

 男は立ち上がった。振り向いた。

 そして頬が緩んだ。

「ガキに心配されちゃ、俺も終わりだ。勢い余ったのは俺の方だ」


 魚籠(びく)との出会いだった。

 聞くとボスからの指示で、森の警備をしていたらしい。

「裸で倒れてる女、見なかったか? そいつ探してるんだよ。警備を兼ねてな」

 口が裂けても「見た」と言えなかった。女の人は裸だったし、狼を求めている。きっとギャングに捕まったら、赤い血を流すに決まっている。

「さっきこいつが変な女の人を見たってさ。俺たちが通った道で」

 ジローの口の軽さは呆れる。どうして話すんだ? ぶん殴りたくなった。

 だってお前、お姉さんはこの人に乱暴されてしまうんだ。しっかり見なかったから言える。一目散に去ったくせに、よく暴露できるもんだ。

 元の道に戻るくらいなら、狼に片腕捥ぎ取られてもいい。そう思った。


 それから三人で湖を目指したなんて誰が信じるだろう。ジローの奴、先に魚籠を見つけて立ち止まっていた。背中の理由。それを聞こうとは思わなかった。聞くと機嫌を損ねるに決まっている。大人の男にはメンツがある。それを初めて知った気がした。

「帰るんだ。この森は親分が面倒みてる」

 同じことは村の大人たちが口に出す。親分の目が行き届いている。だから、迂闊に踏み入ることはできないぞ。

「森で子供を誘ってよ、化け物になって食い尽くすんだよ。爺さんたち、入るなって言っただろ。そりゃガキを狙うんだから仕方ねえよな」

 聞くと魚籠の子分たちも食われている。信じなかった。見たのは俺だけ。俺の手、裸のお姉さんを見て、汗が滲み出た手。

 自分が先頭にいるみたいで、落ち着かなかった。



 女の人が森を支配している。爺さんの代から子供をさらっていたんだ。俺くらいの年じゃ、何もできないことをいいことに。

 豹は疑っていた。別の怪物がいるに決まっている。

「だってお前、鬼ってのは角が生えて棍棒振り回してる奴らだろ」

 同感だ。正体が綺麗なお姉さんなんて誰も思わない。おかしいと気付いていた。俺だけが裸を見ている。

「それでお前、勃起しなかったか」

「したよ。悪いかよ」

 豹はいつになく真剣だった。俺と同じ年くらいの息子さんがいるし、反応くらいわかってる。最初に「妖精と会った」と口にしたのは俺だ。後悔している。

「どこで見たんだ」

 さらに聞いてくる。

 俺は体が真っ二つに裂けた瞬間を話した。

 すべて本当のことなんだ。美沙さん以外に話しても信じないに決まっている。

「お前、よく我慢してたな」

 バナナシェイク売りのおじさん、後ろからの声だった。

「鬼が来たんです。僕の頭を目掛けて」

 本当だ。本当なんだ。誰かが信じてくれる。

「女の人は化けたんです。腹から大きな頭が飛び出して、八本の足が伸びたんです。お姉さんの顔はいなくなっていました。黒く光ってました。でも目玉だけ真っ赤なんです。鬼はあっという間に首を取られました。呑まれていくのを樹の影から見たんです。あとには首なしの死体だけが残っていました」

 豹が聞き入っていた。

 巨大な蜘蛛は俺と目を合わすことなく去った。今でも夢なのか、たとえ子供の俺に聞いてもはっきりしない。ただ言えるのは、目の前で裸の女性を見たこと。

「そいつは貴重な体験だったな。蜘蛛の奴、名が知れてるけど」

 俺はバーを出た。懐に挟んだ手紙に触れる。大丈夫、誰も読んでいない。


 つい数か月前まで銀世界だったなんて信じていない。空が高い。地平線が鮮明ってことは、このままスニーカーを履けばいい。分厚いブーツでアムンゼンみたいに歩いたこともある。確かあの日は美沙さんが迎えてくれた。窓から顔を出して、俺の名を呼んだ。

 鬼を見たなんて誰が信じるだろう。でも美沙さんなら、と勝手に思い込んでドアを叩いたんだ。

 すぐに暖炉が目に入った。ぱちぱちと薪を燃やしていた。

 森での出来事、勢いあまって話したことを覚えている。眠った。毛布が掛かって薄っすら目を開けた。本当は森の伝説なんかどうでもよかった。地下にある図書室で本を借りようと思っていた。

 夢うつつのなかで顔が浮かんだ。二人のこと、ジローと忠の顔が。

「まだあるんだよ。信じられなくないか?」

 昨日のジローの言い分はもっともだった。便箋二枚にも渡って丁寧に書いてある。手紙なんて一度も出さなかったはずの忠が、一体どうしたんだろう。

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