父親が変わってから、一度も会っていない。
鬼畜ぶりは知っている。目の前で母親を殴り続けた。反吐と血糊の中で、忠は呆然としていた。住人が駆けつけても言葉を発しなかった。死体は口を開けたまま、助けを呼んでいた。顔が風船みたいにふくらんで、破裂寸前で、ようやく来た警察も驚いたらしい。男は笑っていた。ジロー本人の口から聞いた話だ。
「どうやら美沙さん宛てに送ったんだよ。照れ臭いから、先に兄貴の俺の所にさ」
美沙さんに、森について話したのは事実だ。俺たちの過去を知る数少ない女性でもある。
「あいつ前にスキー遠足で会ってるから。たぶん、どきどきしたんじゃねえかな。わかりやすい弟だよ」
遠足の引率を買って出たのが美沙さん。子供たちの面倒を丸一日見ている。忠とは母親くらい離れている。ここ小さな村の聖母といっていい。
「なあ、この手紙」
ジローが手紙を渡して言った。
「〈グールド〉まで届けてくれ。俺は嫌だ。理由は聞くな」
目印は水たまりに浮かんだ四分音符。
玄関に掛かったランプが水に反射している。その先に、美沙さんがいる。
グールド。有名なピアニストから名前を取ったみたい。スキー遠足の子供たちも足を止めているはず。コンクリートから噴き出る雪解け水のおかげだ。扉の音符がほんのり照って、旅人を歓迎していた。
夜明けが遠いなんて自明の理だと思う。朝が遠い夜なんて数えきれないほど経験している。時に梟の声に驚いて目を覚ましたこと、星空を仰いで数時間過ごしたこと、それからジローと森を駆けた日。ベッドで思い過すのも悪くなかった。
魚籠の捨て台詞を思い出す。
「魚がいる」
その一言だけが耳にこびりついている。これも長い夜のせいだ。
遠くに行きたいと思っていた。でも俺には山を越える術がない。バーと、家をふらふらしている。朝が来なくてもいい。燃えている星が一つでも走り去るなら、何時間もこのままでいい。
ジローだって、そうするはずだ。
あいつのことだから、星屑なんか捨てると思う。窓の向こう、闇に放って、野良猫の餌にでもする。昨日の顔色から見て、あいつは本当に弟を気にしている。
俺に話した、もう一つの頼み。耳を塞がなかったことを後悔している。
正直言って、断る気だった。忠の手紙くらいは届けることができるけど。ジローの頼みほど嫌なものなんてない。首を横に振る勇気。それができるなら、とうの昔に別れている。
あの森の入り口、二人の女神様がいつも眠りの邪魔をする。
とりあえず目を閉じる。
魚たちが星を食べる夢を見た。
忠にもし会ったら、俺は言う。お前の親父、暴力振るったんだろ。ママの顔を腫れ上がるくらい殴ったんだろ。
復讐しようと思っていた。でもどこにいるか、どこで息をしているか知らない。
通りはいつ歩いても人がいない。朝も昼間も変わらず店の戸が閉まっている。〈観光案内〉の文字が錆びてどうしようもない。
一応、かつては人で賑わっていたんだ。でも俺が生まれた頃には宿も減った。その証拠に、学校帰りの俺たちが無人の宿を指差して笑った。お化けが出るぞ。お化けが出るぞ。今思うと、お化けすら寄ってこない廃墟が並んでいる。
一匹の黒猫を見た。
道端で、「どこ行くの」とばかり瞳を投げた。抱きかかえてみる。黒猫は鳴きもせず目を閉じた。
「これからね、お仕事なの。君も付いてくるかい?」
地面に放つと、尻尾がピンと高く上がった。黒猫はいなくなった。
空に青みが帯びている。住宅に明かりが灯り始めて、犬の鳴き声が混じる。新聞配達のバイク音が聞こえた。長く村にいるけど、騒めくこの時間が一番好きだ。日が昇るまでのわずかな時間が何よりも好きだ。
通りの奥から車の音が飛んできた。背筋を伸ばしてカーキ色のトラックを見た。
ハンドルを握る男が一人。髪は短い。ギロリと死んだ目を投げていた。
これがジローから聞いた男に違いない。あいつ、こんな奴らといつ知り合ったんだろう。
荷台の中はがらんとしている。作業衣らしき服が数枚ある。ほぼ鮨詰め状態になるのは確実だ。薄暗い。誰もいない。
布の隙間から黒い屋根瓦が見えた。俺が生まれた村。大人たちと出会ったバーがある場所。トラックは通りを一直線に駆け抜けてゆく。やがて村を出た。