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第5話

 ジローは決して振り返ることなく森を駆けた。光が、村より冷たい風が、肩に触れる。乾いた地面だった。スニーカーが泥で汚れることもない。十歳。その数字が嘘のようだった。

 学校で、こんなにも早く走ったことがないのだ。廊下よりも、陽が差すグラウンドよりも広い。森は果てしなく続いている。

 ポケットから木の実が、こぼれ落ちそうだった。

 ふと物影に気付いて足を止めた。背中から汗が流れた。額からも流れ落ちた。正面に、自分と似た背の生き物がいる。角が二本、長い爪が伸びている。

 赤い鬼だった。 

 ジローは言葉を呑み、怯える鬼を見た。


「ごめんよ、勝手に入ってさ」

「……」

 鬼は少しだけ距離を縮めた。裸足だった。口から牙が覗く。

「俺、裸のお姉ちゃん見たよ。逃げてきたけど」

 鬼は手を差し出した。ジローはその手を覗き込んだ。

「何? 何かくれるの?」

「……ギギ。ギギ」

「わかんないよ。俺に何かくれるのかって聞いてるんだよ」

 鬼は首を振った。

「わかった。もういいよ。お姉ちゃんの裸に戻るよ」

 鬼は手を下げた。

「握手はできないんだよ。だってお前、爪あるだろ。痛そうだもん」

 今度は爪を見つめている。寂しそうな目だった。

 ジローは微笑んだ。

「俺から、ちょっとだけいいかな。手、もう一度出しなよ」

 鬼は腕を伸ばし、ゆっくり手のひらを広げた。 

 木の実が一つ、また一つ、ジローの手から落ちた。 

「さっき見つけたんだよ。君にあげるよ」

 手に乗ったばかりの実。ヒトが食えそうもない実をじっと見ている。

「また会おうよ。その時は俺の頼み、聞いてくれよ。いいな? 約束だぞ。それまで持っててくれよ」

 ジローは鬼の元を去った。遠くへ、友達がいる場所へ戻った。

 地面には自分の影が、くっきりと後を追っていた。午後の陽が強く背中を焼いていたせいだった。



 三月のある朝のことだった。村人たちは目を細めながら、誰もが同じ台詞を吐いた。

「なんだ、あれ」

 山腹に見慣れない屋根がある。豪雪地帯のため、小さな屋根は冬の間、完全に隠れていたらしい。真っ白だった。周囲が緑のため、余計に目立っている。

 屋根の下で何があるのか知らないまま、潜入を試みた男がいた。

 この地に初めて訪れたNである。

 子供たちはNに不思議そうな目を向けた。誰一人笑う子はいなかった。溢れるほどの子供が部屋の隅々にいる。男の子ばかりが占めていた。どの子も好きな場所に散って大人しくしていた。ここ待合室から、廊下へ自由に行き来できる者は少ない。

 職員が傍に来た。

 Nは缶コーヒーを片手に言った。

「百円なんですよ」

「知っています。勝手な行動、辞めてもらえますか」

「誰か一人でも、ですか」

「ええ。あなたのような大人でも」

「忠君でも?」

「もちろんですよ。あの子は随分と大人しいですが」

「例えば泣いている子、両親が原因だと思いますか?」

「詳しくは言えないんです」

「なぜ」

「個別に入所理由を聞くことは禁じているんです」

「なぜでしょう。泣いている理由があるからじゃないですか。それを聞いてまずいことはないと思いますが。忠君はちゃんと話してくれました。鉄パイプを手にしたところまで」

 職員は目を丸くした。

「ここはね、外から助けてもらってるの。あなたのようなゲストは歓迎しますけどね」

「いつ、巣立つのですか。山を下りないわけにいかないでしょう」

「十五まで、と決めています。忠君は自らここへ来たんですよ。あと五年。辛抱です」

「その間は肉親と離すわけですか」

「ええ。迂闊に連れ戻されては困りますから」

「でも窓は普通の鍵でしたよ。あれでは侵入者もいるはずです」

「鉄格子で窓を閉ざすなんてしませんよ。別にこの子たちは暴れませんし、逃げることもないんです。ベッドに縛り付けて薬を飲ませるなんてこともしません」

「個室があるんですね」

「ええ。二階に。ただし施設長が部屋割を決めます。漏れた子は下のままです」

「待ってください。雑魚寝ってことですか」

「布団があるだけ幸福でしょう。スープも飲めますし」

 職員は去った。



 年齢を訪ねると、少年は「十歳」と口にした。

 ある日小さな家に、二番目のパパが来たという。蛇口から水が出なくなって二日。破れた襖からは怒鳴り声が聞こえたようだ。

 Nは少年の話に聞き入っていた。目の前に座る少年が十歳であることを信じなかった。 

「もう少し詳しく、いいかな? 言える範囲で構わないよ」

「嫌だ」

「……どうして」

「だって嫌な思い出なんか、話せるわけないじゃん。お兄さんだって、そうでしょ? 違うの?」

 Nは頷いた。

「そうだよね。僕、他人事みたいに聞いたよね」

 忠は笑った。

「朝ごはんの時、あいつが言ったんだ。お前、自分の父親殴るのかって」

「そのあと、ここへ」

「うん。ここの大人に連れて来られた」

「嘘だ。さっき職員の人に聞いたよ。自分で来たって」

「大人って、ほんと余計なことしゃべるよね」

「鉄パイプはどこで?」

「道に落ちてたんだ。こいつで殺そうと思って」

「拾った」

「うん。きっと神様からの贈り物だと思ってさ」

「使えなかった」

「僕が捨てたからさ」

「また手に取ろうって思わなかったかい?」

「あんな声聞いた後だからね。もう怪物を悲しませたくないと思ってさ。パパは僕の食べ方にかちんと来たみたい。遅いだの、お前と食べるとまずくなるだの、言われた」

「箸を置いたんだね」

「うん。箸くらいちゃんと持てるのに。箸が鉄パイプだったらって今でも思うよ」

「例えば両親とも仲良くなったらって思わない?」

「全然」

「ほら、一緒に近所のスーパーに出かけたりさ。あるいはガーデニングしたり」

「そんなのいいよ。二人とも顔が変だから」

 忠は嫌な顔せず語った。

「少し待ってくれるかな」

 Nは職員を捕まえようと別の部屋を訪ねた。ドアノックに気付いて一人の職員が顔を出した。金髪で若く、他の職員とは印象が違った。

 室内は狭い。窓もなく、机が一脚あるのみだった。

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