ジローは決して振り返ることなく森を駆けた。光が、村より冷たい風が、肩に触れる。乾いた地面だった。スニーカーが泥で汚れることもない。十歳。その数字が嘘のようだった。
学校で、こんなにも早く走ったことがないのだ。廊下よりも、陽が差すグラウンドよりも広い。森は果てしなく続いている。
ポケットから木の実が、こぼれ落ちそうだった。
ふと物影に気付いて足を止めた。背中から汗が流れた。額からも流れ落ちた。正面に、自分と似た背の生き物がいる。角が二本、長い爪が伸びている。
赤い鬼だった。
ジローは言葉を呑み、怯える鬼を見た。
「ごめんよ、勝手に入ってさ」
「……」
鬼は少しだけ距離を縮めた。裸足だった。口から牙が覗く。
「俺、裸のお姉ちゃん見たよ。逃げてきたけど」
鬼は手を差し出した。ジローはその手を覗き込んだ。
「何? 何かくれるの?」
「……ギギ。ギギ」
「わかんないよ。俺に何かくれるのかって聞いてるんだよ」
鬼は首を振った。
「わかった。もういいよ。お姉ちゃんの裸に戻るよ」
鬼は手を下げた。
「握手はできないんだよ。だってお前、爪あるだろ。痛そうだもん」
今度は爪を見つめている。寂しそうな目だった。
ジローは微笑んだ。
「俺から、ちょっとだけいいかな。手、もう一度出しなよ」
鬼は腕を伸ばし、ゆっくり手のひらを広げた。
木の実が一つ、また一つ、ジローの手から落ちた。
「さっき見つけたんだよ。君にあげるよ」
手に乗ったばかりの実。ヒトが食えそうもない実をじっと見ている。
「また会おうよ。その時は俺の頼み、聞いてくれよ。いいな? 約束だぞ。それまで持っててくれよ」
ジローは鬼の元を去った。遠くへ、友達がいる場所へ戻った。
地面には自分の影が、くっきりと後を追っていた。午後の陽が強く背中を焼いていたせいだった。
三月のある朝のことだった。村人たちは目を細めながら、誰もが同じ台詞を吐いた。
「なんだ、あれ」
山腹に見慣れない屋根がある。豪雪地帯のため、小さな屋根は冬の間、完全に隠れていたらしい。真っ白だった。周囲が緑のため、余計に目立っている。
屋根の下で何があるのか知らないまま、潜入を試みた男がいた。
この地に初めて訪れたNである。
子供たちはNに不思議そうな目を向けた。誰一人笑う子はいなかった。溢れるほどの子供が部屋の隅々にいる。男の子ばかりが占めていた。どの子も好きな場所に散って大人しくしていた。ここ待合室から、廊下へ自由に行き来できる者は少ない。
職員が傍に来た。
Nは缶コーヒーを片手に言った。
「百円なんですよ」
「知っています。勝手な行動、辞めてもらえますか」
「誰か一人でも、ですか」
「ええ。あなたのような大人でも」
「忠君でも?」
「もちろんですよ。あの子は随分と大人しいですが」
「例えば泣いている子、両親が原因だと思いますか?」
「詳しくは言えないんです」
「なぜ」
「個別に入所理由を聞くことは禁じているんです」
「なぜでしょう。泣いている理由があるからじゃないですか。それを聞いてまずいことはないと思いますが。忠君はちゃんと話してくれました。鉄パイプを手にしたところまで」
職員は目を丸くした。
「ここはね、外から助けてもらってるの。あなたのようなゲストは歓迎しますけどね」
「いつ、巣立つのですか。山を下りないわけにいかないでしょう」
「十五まで、と決めています。忠君は自らここへ来たんですよ。あと五年。辛抱です」
「その間は肉親と離すわけですか」
「ええ。迂闊に連れ戻されては困りますから」
「でも窓は普通の鍵でしたよ。あれでは侵入者もいるはずです」
「鉄格子で窓を閉ざすなんてしませんよ。別にこの子たちは暴れませんし、逃げることもないんです。ベッドに縛り付けて薬を飲ませるなんてこともしません」
「個室があるんですね」
「ええ。二階に。ただし施設長が部屋割を決めます。漏れた子は下のままです」
「待ってください。雑魚寝ってことですか」
「布団があるだけ幸福でしょう。スープも飲めますし」
職員は去った。
年齢を訪ねると、少年は「十歳」と口にした。
ある日小さな家に、二番目のパパが来たという。蛇口から水が出なくなって二日。破れた襖からは怒鳴り声が聞こえたようだ。
Nは少年の話に聞き入っていた。目の前に座る少年が十歳であることを信じなかった。
「もう少し詳しく、いいかな? 言える範囲で構わないよ」
「嫌だ」
「……どうして」
「だって嫌な思い出なんか、話せるわけないじゃん。お兄さんだって、そうでしょ? 違うの?」
Nは頷いた。
「そうだよね。僕、他人事みたいに聞いたよね」
忠は笑った。
「朝ごはんの時、あいつが言ったんだ。お前、自分の父親殴るのかって」
「そのあと、ここへ」
「うん。ここの大人に連れて来られた」
「嘘だ。さっき職員の人に聞いたよ。自分で来たって」
「大人って、ほんと余計なことしゃべるよね」
「鉄パイプはどこで?」
「道に落ちてたんだ。こいつで殺そうと思って」
「拾った」
「うん。きっと神様からの贈り物だと思ってさ」
「使えなかった」
「僕が捨てたからさ」
「また手に取ろうって思わなかったかい?」
「あんな声聞いた後だからね。もう怪物を悲しませたくないと思ってさ。パパは僕の食べ方にかちんと来たみたい。遅いだの、お前と食べるとまずくなるだの、言われた」
「箸を置いたんだね」
「うん。箸くらいちゃんと持てるのに。箸が鉄パイプだったらって今でも思うよ」
「例えば両親とも仲良くなったらって思わない?」
「全然」
「ほら、一緒に近所のスーパーに出かけたりさ。あるいはガーデニングしたり」
「そんなのいいよ。二人とも顔が変だから」
忠は嫌な顔せず語った。
「少し待ってくれるかな」
Nは職員を捕まえようと別の部屋を訪ねた。ドアノックに気付いて一人の職員が顔を出した。金髪で若く、他の職員とは印象が違った。
室内は狭い。窓もなく、机が一脚あるのみだった。