「名前と勤務先を預かっております」
「……私の」
「ええ。部外者がこちらへ訪問の際、すべて預ける義務がありますので」
「待ってください。受付でそんなこと聞かれなかったですが」
「私どもは事前に調べております。滞在先のホテルから今朝、連絡があったんです」
Nは唖然とした。
「知れ渡っているみたいですね」
「おっしゃる通り。フロントからあなたの訪問を伺っております」
「別に法には触れませんよね。もっと歩きたいだけですよ」
「森は正直ですからね」
「あの子たちのことですが」
「どうぞ。なんでも聞いてください」
「個別相談があるんですよね。一体、お昼にやる意味なんてあるんでしょうか。不躾で申し訳ありませんが」
「あれは先生がね、日が一番高い時間がいいって言うんですよ」
「朝の時間帯は」
「遊ばせていますよ。お昼まで」
「お腹、空きませんか。いつお昼食べるんですか」
「先生とご飯食べるんですよ。それまで一切口にしてはいけないルールなんです。年長組に限ってですがね」
職員の説明によると、施設長との相談は一人一時間。正午から日付が変わるまでの間、休憩を挟んで続くという。
「では最大で十二人、ということですか。名前を呼ばれない子もいるわけですよね」
「誤解しないでください。優秀な子を選んでいるだけです」
「選ぶ基準はありますか。例えば受け答えがはっきりしているからとか」
「お答えできかねますが」
職員は扉を閉めた。
「ママとは会ってないんだね」
「全然。それきり」
「何か、聞いたことはある? なんでもいい」
「……遠くに海があるって言ってた。それでさ、僕に何度かこぼしたんだ。生まれ変わったら、その土地の人間になりたいって。僕はなんのことかわからなかった。腫れあがった顔でさ、ぐるぐる包帯を巻いた顔でさ、やっとのことで口を開けて話すんだよ。僕、なんのことかわからなくて」
母親が病院に担ぎ込まれ、ベッド脇で聞いたという。実際「地図」と話したか、「ちず」らしき単語を口にしたかは不明だった。
「どこで聞いたのかな。例えばおばあちゃんが昔、話してたとかさ」
「知らない。きっと夢のなかにいたんじゃないかな。あの男から逃れるために」
男の暴力は度を過ぎていた。付近住民が第一報をしなければ、母親は確実に死んでいた。駆けつけた者の中には言葉を失ったと話している。
母親はうつぶせで助けを求めていた。床に這いつくばる状態で、顔面からの血に耐えながら、片手を上げていた。急いで来た職員は一同に唖然とした。必死に訴える目の前の女性ではなく、椅子で笑っている男に対してだ。
「パパは台所で笑ってた。あ、パパじゃなくて男のことね。あいつ、通報受けても平気な顔してたんだ。いつもそうだった。ママが泣きながら何か言ってる」
「普通は悲しくなったりするもんだよ」
「悲しくなんかないよ、僕」
「どうして」
「だってお兄さん、幸せそうだからさ」
顔が腫れ上がるまで殴ったのは事実だ。Nは証言を信じた。そんなに殴るなんてありえない、と口にするくらいなら、舌をかみ切る。そう決めていた。
「僕ね、いつかこんな施設、出たいんだ。つまらないから。バカみたいにつまらないから。へんな顔に膨れ上がったママと遊んだほうがいいよ。水さえ飲めるならね」
「忠君」
「何」
「遠くの海なら、本当にあるよ。お兄さん、ずっと昔に見たことある」
忠は口を閉じている。
「大きな船が止まって、太陽が降り注いでいるんだ。それに、いつもカモメが飛んでる。真っ白な鳥が」
写真を見ている間、忠は微笑んでいた。
スキー遠足当日、引率の女性と話したことがあるという。
「美沙さんっていう人。あっちの村に住んでる」
「綺麗な人だね。今も気になるのかい?」
「……さあ」
頬を赤らめた忠は、写真から目を逸らした。
Nは集合写真を見た。若い女性が一人、子供たちを束ねるように写っている。
「なるほど。手紙として届いたんだね」
裏には住所と、手書きの短い文がある。〈ホテル・グールド、美沙〉と書いてあった。
「この人に返事は書いたの?」
忠は首を振った。
机には鉛筆が数本、消しゴム、それに封筒が束となって隅に置いてある。机の他、ベッドが一台あるのみだった。
「ここで手紙、書けばいいよ。いい机だね」
忠は微笑んだ。
「兄ちゃんにはもう送ったよ。美沙さんに、よろしくって伝えた」
「兄弟、いるんだね」
「うん。でもここには来てほしくないな」
「どうして。面会はできるはずだよね。僕たちも訪れたくらいだから」
「他の子供たちが悲しむよ。それが嫌なんだ」
「いいこと教えようか」
「何? つまらないことなら聞かないよ」
「大丈夫。向こうの村にはね、美味しいバナナシェイクがあるよ。君も飲みなよ。安いから」
「いらない。スープ以外、呑むと吐くだけだよ」
ドアノックがした。Nが扉を開けると、若い男が立っていた。