「村から来た者ですが」
「はい」
「忠君、こちらにいると伺っています」
「……少し、休ませてください」
Nは言った。
窓の外からバイクの音が聞こえた。Nは思わず窓を振り向いた。
施設に向かう前、Nは郵便配達の男と出会った。思わず見上げるほどの大男である。夕暮れ時、Nは遠くからやってきた人影に足を止め、右手を挙げた。
バイクを一時停止すると、男は人懐っこい顔で話しかけた。どうやら山道を歩く旅人は珍しいようだった。
「この村ね、小さな道、たくさんあるんだよ。ガス燈のおかげで住宅まで見える。お兄さん、見かけない顔だけど」
「僕は山の向こうから来ました。〈グールド〉に滞在しています」
「ちょうど配り終えたところだよ。いい宿だね、あそこ。水たまりに音符のランプが浮かぶからね」
郵便配達の男は笑った。Nは思わず息を呑んだ。
口元に、確かに牙を見たのだ。二本、鋭く下の歯から突き出ていた。
「どうしたんだい? おいらの顔、カゲロウでも付いてるの?」
「いえ」
「村の悪い癖でさ、外から来る人間、みんな警戒するんだよ。おいらも随分、視線を受けるね。ポストに向かう度にね」
男は帽子を取った。
角が二本、はっきり髪から生えている。
「驚かせて悪い。あんた、目がいいね。夜更けでも見破るなんてさ」
Nは微笑んだ。
「とんでもない。道案内してもらっただけです」
「おいら旅人には親切なんだよ。昔から」
「秘密にしますよ。見たことは」
「何言ってるんだい? 村の奴ら、みんな知ってるよ。だから話しても構わないさ。ここは森とは違うから」
「……森」
「そう。おいらの家もある。ちょっとばかり遠いけど。よかったら遊びに来なよ。狼どもがいなくなってるから」
男はポケットから木の実を出した。
「ある少年と約束してる。ここじゃ詳しく言えないけど」
「わかりました。気を付けて」
「あ、そうだ。バナナシェイクの屋台ね。まっすぐだよ。お兄さんの言う通り」
男はバイクで去った。
屋台の灯りが通りに浮かんでいた。暗闇でも〈バナナ〉の文字が読める。
店の親父は上機嫌だった。
「この村に度々売りに来てるけどよ、店の売り上げ落ちたことねえんだ。広場での穴掘りに、黒猫を連れた女の子、それにお兄さんのような旅人。いつ来ても、誰かが店に寄ってくれる。バナナ一本も明日の銭になるってもんだよね。月明りの商売も捨てたもんじゃないね」
「実はその女の子と会っているんです。今、おじさんが話した子から」
「あの黒猫抱いてた子?」
「アイドルなんですよ。猫に名前を付けた途端、デビューが決まったんですって」
親父は笑顔を浮かべた。
「俺、曲名知ってるよ」
「教えてくれますか」
「よし。もう一本、頼んでくれるかい?」
Nは言葉を覚えた案山子のようだった。
「ください」
ジューススタンドはうちだけだという。村の住民とは長い付き合い、旅も嫌いじゃないし。
「おまちどお」
Nはシェイクを受け取った。すりおろしたばかりのバナナ。匂いが強く、白く泡立っている。
カード残量も僅か。この地に来てから、一度もチャージしていない。
「デビューシングルはね。『桜ソングなんか歌わない』だったと思うよ」
「ありがとうございます」
Nは店を後にした。
シェイクの残りが少なくなった頃、図ったように一匹の猫が目の前にやってきた。
どこかで見た黒猫だった。Nの足元にすり寄って鳴いた。
「ルイーズってさ。いつも外出するの。それで明け方帰ってくる」
カナは言った。
「それでちゃんと帰ったの? まさか山、飛び越えてない?」
「大丈夫。お姉ちゃんのところまで行かないよ」
電話を切った。キャンパスなんて全然羨ましくない、と胸の内で繰り返す。この村からどれだけ離れているのか想像はつかなかった。五歳上とはいえ、妙に大人びた声を聞いた気がした。
カナは階段を上がり、部屋に入った。
磨いた姿見は姉からのお古だった。「しっかり服、選びなさいよ」と言い残して夏枝は都会に出ている。
教室の扉、みんなの目が一斉に集まった朝を懐かしく思った。