あの日は眠れないまま夜を過ごしたのだ。転校生。なぜか布団のなかで頭を巡った。山の向こうから、遥々クラスの一員になるらしい。
こんな山奥にどうして、と学校までの道を歩いた。穏やかな川を過ぎると、もう目の前に木造校舎が迫る。相変わらず古臭い。村で唯一の小学校だから、と夏枝も呆れていた。
図書室の扉を開けた。生き物図鑑がずらりと並んでいる。昆虫、鳥、魚、獣、と全巻そろっている。図書委員会に入った矢先、重い図鑑を運ぶことになった。図鑑に加え、やたら表紙が怖い金田一耕助の文庫、怪盗ルパンシリーズ、江戸川乱歩の少年探偵団と、どれもこれも並べるのは大変だった。みんな好き勝手棚に戻しては、また違う本を手に取るからだ。
昨日、クラスに入ったばかりの男子が次から次へと棚に入れていた。
背はそれほど高くない。
「僕のおじいちゃんの家さ、前に大きな川が流れててさ、お盆になったらみんなで遊ぶんだ」
横目で顔を見る。
「ところでさ、どうして図書委員になったの」
カナは口を閉ざした。適当な答えが浮かばないどころか、聞きたいこと、聞こうとしていることで溢れた。あんたこそ、どうして。その一言が永久に出ない気がした。
「さっきの話ね。その川で遊ぶんだけど、従兄弟のお姉さんがいつも白い服着てさ、足首だけ浸すんだよ。こうやって、服を上げる感じ。僕がじっと見ているうちにさ、ボールぶつけられちゃうんだ。兄貴のやつ、何じろじろ見てんだよって」
図書室での奮闘ぶり、なぜか自分だけに話しかけ、すぐ別の棚の本を整理する。生き物図鑑を並べてくれたのに、お礼の一言も言えない。
嘘だ、とカナは思った。景色も、来ている服も、母の声も、どうしてと疑う暇もなく月日が過ぎた。
十三歳になって変わったことがひとつ。白いワンピースを着たことだった。
バスケ部に比べて、相変わらず鏡の向こうの背は高くない。
もし、川が流れていたら。
彼が話した、年上の女性のように足首だけ浸してやる。
転校生と出会ってから、今朝までの時間が信じられないほど早かった。カナはベッドで目を閉じた。死んだ祖父が豪快に笑っている。よく遊んだ。朝まで元気だったらしい。日課の散歩も難なくこなし、七時には朝食を必ず取る。自販機のジュースを買いに出かけていたという。
熱中症には気を付けろ、と耳に挟んでいたはずだった。家族の忠告を無視してなぜか遠い丘の上の自販機まで足を伸ばしたらしい。
母は言った。
「カナのためよ、きっと。もう一本、買うつもりだったみたい」
祖父は倒れた。熱いコンクリの上で同じ缶ジュースを二本、手提げ袋に入れたままの状態だった。
いつもは目を留めることなく過ぎる田園も、この日は灰色一色だった。
遠くに古い鉄塔が伸びている。どれも憶測ばかりで、正確に知っている大人はいなかった。大昔に建てたものだ、と学校帰りに何度思ったことだろう。どこを見渡しても、どこを眺めても、塗りつぶした広大な田畑が続いた。祖父の家の周りと似ていた。皺だらけの手。皺だらけの目尻。命からがら葉っぱの雨水を喉に通した話。目の前で腐り始めた友人と、ポケットの家族写真。青い空を裂く、爆撃機の轟音。蛆虫と蚊のそばで、朝を待ち続けた日。雨。ひたすら雨と空腹に耐えた日々。
もう戦争の話は聞きたくない、と耳をふさいだことがある。
カナはベッドから飛び起きた。ラジオから、信じられない光景を知ったのだ。
川に消えた少年について、地域の住民は口を閉ざしているという。つい先日まで遊んでいたのに、まさか、と誰もが信じない。
出かける背中を近所の人が目撃していた。年上の兄弟らしき姿もあった。先に兄たちが帰り、少年は一人川に残ったという。
そして太陽が昇りつめた昼、突然姿を消した。
深みにはまったのか、捜索は続いている。流れを知らないわけがなかった。雨が降ると泥の塊が溢れてしまう。あっという間に水の色を変えるだろう。誰もが水遊びの少年について、口を閉ざすに決まっていた。
カナはラジオを消した。姿見は学習机から離れ、ぽつんと部屋の隅に置いてある。姉からは電話がない。ルイーズの行方を知らせるつもりが、まだ帰らないままだ。
突然、部屋の中で声が聞こえた。ラジオは確かに消したはずだった。カナは息を殺して、そっと鏡の前に立った。誰もいない。足元には冷たい水が音もなく押し寄せてくる。
カナはワンピースの裾をたくし上げた。きらめく陽の光の下、水で遊ぶ少年の背が見えた。足がすくみそうだった。ゆっくり、ゆっくり、その背に近づいた。
図書室での短い会話。本を懸命に、懸命に、棚へと入れた顔。そして、たった一言のお礼。
……久しぶり。
その瞬間、少年は消えた。
かかとは床につけていた。背がぐんと伸びていた。信じられないくらいに、ぐんと伸びていた。
カナは泣いた自分の顔を穴が開くくらいじっと見た。今頃、遠くで姉がこの顔を見て笑っている。涙を拭いた。どうしようもないブスだ、とカナは思った。