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第9話

「うちの棚にいっぱいあるの。パパのコレクション」

 LPレコードの貸し出しは、意外にも大盛況だった。

 実は内緒で棚から出していたのだ。年代物とはいえ、制服のまま針を落とすことに抵抗はなかった。

 奇跡的に、機械が学校にあった。一体いつからあるのか、先生もわからないという。同じ部屋の棚の上にはブルータスとラオコーンの石膏が見える。窓からの夕日が照って、影が二体、しっかり壁に伸びていた。

 放課後の美術室ほど、自由な空間はない。それが麟の自信だった。 

「硬貨ってあるでしょ? 昔、みんな使ってたけど。あれじゃないと無理。だから聴きたい人は百円ね」

 麟は学校中を歩き回った。一人百円。週に十枚は貸し出した。割に合っているか、わからなかった。また美術部の麟がおかしなことやっている。学校にレコードなんか持ち出して何かやっている。そう廊下で耳にしても別に構わなかった。どうやら担任の先生でさえ見逃しているようだ。

 円盤をどのように聴くか。最初はそれすらも知らなかったのだ。麟は父の手を見つめ、それを学校まで思い描いた。A面が終わると、裏返してB面にする。後は針をそっと落とすのみ。

 別のクラスのもなこも、何枚か借りていた。夜勤の父親が、自分と入れ違いに広場から戻ってくる。広場の穴を掘って、朝食を食べに帰ってくる。旅人をよく家に呼ぶため、家で見知らぬ男性とすれ違うこともある、と聞いた。


「パパったら、レコード減ってること知らないの」

 貸し出した何枚かが戻ってきていない。ノートに記録が残っていた。〈もなこ、またバッハ〉とある。

 カナは自分と重ねているのか、短い髪の歌手を好んだ。フランスギャル、バルバラ……その他、星になった歌い手たち。

「私、この人たちみたいに歌えないよ」

 それがカナの口癖だった。

 教室でダンスの練習を避けようと川へ出た。ここなら男子にバカにされないし、景色もいい。

 三人、背はほとんど変わらなかった。制服の影が河川敷に伸びている。

「部活、さぼったわけじゃないよ」

 もなこは言った。三人のグループ名は麟が付けた。十代の女子らしくない、と反対する声はなかった。元は村のオーディションに受かったクラスメイト、カナからの誘いだ。

 何でも黒猫に名前を付けた途端、吉報が届いたという。

 大人たちが主催する六月のフェス。その日にお披露するため、踊るのだ。

 もちろん振り付けなどすぐに覚えたわけではなかった。これもカナが繰り返し教えたためだ。センターを務める以上、二人を放っておけないらしかった。

 もなこは地面に置いたラケットを一瞥。その視線を麟は見逃さなかった。

「ストップ」

 カナと、もなこは動きを止めた。沈黙が押し寄せている。

「バドと、どっちが難しい? 教えて」

 麟は言った。

 もなこはラケットを抱き寄せると、川を去った。



「麟ちゃん、ごめんね。ばあちゃん、怖い話したよ」

 祖母は翌日、また同じ話をした。

 目を閉じると決まって大きな怪物が横切った。口が馬鹿みたいに大きく裂けて、よだれを流し、太く鋭い牙が見える。子供たちの鳴き声が耳をつんざくようだった。遠くで、「たすけて」と叫んでいる。鬱蒼とした樹々が少しずつ枯れていった。緑色の葉が白くなった。森は深く、どこまでも知らない大地だった。麟は汗にまみれて目を開けた。

 法事の日に聞いた男の声がこびりついている。余計にうるさく感じたのだ。

 麟はその日、大人たちと一言も口を利かなかった。

「あんたはね、器量がいいから。早く男の所へ行きな。もし蜘蛛を払いのけたり、頭を潰したりすることがあったらね」

 女性はやけに険しい顔をしていた。

 また別の大人が言った。

「あんたのばあさん、若い頃はそりゃよくモテてたんだよ。村中の男、みんな虜になっちまってさ。今となりゃ、年寄りの昔話に過ぎねえけどな」

 それを聞いた祖母は煙草を吸いながら笑っていた。ゴールデンバットという緑色の銘柄だ。濃い煙で、吐くといつも天井まで舞い上がる。鼻につんとする匂いだった。

「蜘蛛を殺しちゃいけねえって言ってなかったかい? いや、物騒な話、うっかり踏みつけちゃ不幸になるって教えられてんだよ。お嬢ちゃんも気を付けな」

 麟は押し黙った。叔父たちの言葉遣いも違う上、誰々が死んだ話など耳に入れても退屈だった。何年か一度の饗宴など、早く過ぎればいい。もくもくと漂う煙草の煙。絶えない笑い声。おまけに、叔父の一人の目が死んでいた。


「麟ちゃん」

 父の何人かの弟らしい。実家で会うのは何年ぶりかもわからず、名前すら知らない。一度も聞いたことがなかった。

「この子ね、李子と違って大人しいの」 

 誰かが言った。

 もっと小さな頃から、何かと口うるさく接してきた女だった。

 ある盆の夜、同じように人がたくさんいた。麟は今でもはっきりと覚えていた。

「女の子なんだから器くらい下げなさいよ。叔父さんたちの顔、見た? 麟ちゃん、ろくにママの手伝いもしないのかって顔してたよ。こういう時はね、女が茶碗下げるもんなのよ。わかった?」

 その日から、麟は親戚の大人を避け始めた。化粧が濃い女たちは以前にも増して口角が不自然だった。きっと無理に笑ってきたツケが出ているのだ。

 おまけに、食器類を率先して片付けている。台所の水の音が聞こえた。あの日と同じ音だった。自分に忠告した女がどこにいるのか、探す気も起きない。

 麟は思わず耳を塞ぎ、席を立った。

「麟ちゃん」

 また叔父の声が飛んだ。

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