冷蔵庫から手にした瓶のラベルには〈作・初子〉とある。剥がしたことが一度もなかった。狭い台所から、苺をすり潰す姿が消えて何年も経っていた。
姉の分はない。祖母直伝のジャムは友達のカナにも好評だった。
畑で獲った苺をすり潰して瓶に入れる。特にレシピなどない。ジャムどころか、ただの潰した果実だ。
それでも、この瓶を持参すると誇らしい気持ちになった。
放課後、教室には自分を含めた影が二つ。さっきまで男子がいた席まで伸びていた。パンを持参して、二人で過ごす。麟はこの時間、歌詞など忘れていた。カナとの会話が好きだった。
瓶を開け、中を覗いている。
「これ、麟のおばあちゃんが作ったの?」
「違うよ、私」
「嘘。あなたジャム作るのめんどくさいとか言ってなかった?」
「言ったよ」
「でも私たちメンバーにはくれるのね」
「……もなこは?」
「部活。うちらと違って練習」
カナは森を指差した。
「あそこ、人を裁くって知ってる?」
麟はカナの指先を追った。学校から、そう遠くない位置に森がある。足を踏み入れた旅人が、ひたすら道に迷った末に餓死するらしい。人骨が所々に落ちているのは、太古より侵犯する人の姿が絶えないためだ。
麟はカナの唇を見つめた。
苺のジャムが付着している。瓶からすくい取った自家製ジャム。それがキラキラと光っていた。
「麟ちゃん、ごめんね。ばあちゃん、怖い話したよ」
寝床で何度も聞いた昔話。それが麟の耳にこびり付いて離れない。
音符の形をしたランプが目印だった。しばらく見惚れるほど明るい灯だった。雨の日は濡れたコンクリートに照り輝き、思わず足を止める者もいた。
古くて素敵な宿だ、と麟は思った。
「麟ちゃん」
扉を開けると、年上の女性が声をかけた。
麟はポケットからチケットを出した。手書きで〈3000えん〉と記載してある。何だか秋祭りで配る食券のようだった。
「買ってあげるよ」
女性は千円札を出した。有名な学者が刷ってある。
麟はしばらく三枚の札を見た。
「これ、お姉さんの」
「昔は当たり前だったのよ。都じゃもっと少ないかもね」
女性はチケットを懐に入れた。
「ありがとうございます!」
麟は宿を出た。ポプラ並木が続いている。この間まで色一つなかった樹の群れだ。近くから金属音が届いた。近くで男たちが足場を組み立てていた。何本もの鉄筋が目に飛びこんでくる。広場が、すぐそこにあった。
足場から器用に降りる人の背が見えた。音もなく地面に着地した。高さは相当ある。カンフー映画みたい、と麟は思った。
男は麟を見て、微笑んだ。
「ここに墓あるって知ってる?」
「……知らないです」
「フェス終わったら発掘だってさ」
「……ここで?」
「そう。地元民が掘るみたい」
男は足場に戻った。麟は空を見上げた。橙色の空には星が一つ煌めいていた。
九歳上の姉、李子は実家を出ている。
「パパの知り合いに頼りたくないの。こんなこと言って、豹さんに相談する他ないかもね」
麟は窓に目が留まった。蜘蛛が一匹、這いつくばっていた。まるで盗み聞きでもするかのように。
李子は厳しい目をしている。
「触っちゃだめ」
蜘蛛の腹は黄色に染まっていた。初めて見る色だった。八本の脚がくっきりと見える。おまけに、顎がこっちに向いていた。噛みついたら一溜りもない顎だ。
「森からやってきてるのよ。だからみんな、神様の子なの」
麟は蜘蛛をしばらく見つめた。
やがて李子の靴が玄関から消えた。いつもスニーカーを履いて出かけた背が見えなくなった。
きっと次の法事にはロックスターだ、と麟は思った。
村を歩くと必ず猫に出会った。ある日は黒猫、別の日はキジトラ、今日は三毛猫の姿を見た。
猫を追いかけようとする度、カナの忠告がしみた。
「追いかけちゃダメ。知らない道に行っても遅いよ」
その忠告通り森が近づいてくる。ここ何日か晴れが続いたため、地面は渇いていた。足跡さえも残らない土だった。
麟は森の入り口で足を止めた。裸の女性が二人。誰が作ったのかは知らない。元はこれも四角形の大きな石のはずだった。今は二人が腕を伸ばしてアーチを描いている。
潜る時に腕を見上げてはいけない。これも学校で聞いたルールだった。女神像は旅人に覚悟があるか、定めているという。ある男がぼんやり天を仰ぐようにして潜ったところ、二度と森から姿を見せなかった。女神は微笑んで迎えていた。多くの旅人を誘って、森へと送り込んでいたのだ。
天罰が下った、と村の大人は口にする。見守っているのは神であり、死ぬのは当然という考えだ。侵入者には罰を。そう誰もが畏怖を抱いて、像を遠くから眺めていた。
「麟」
遠くから声が聞こえた。
「森に来るなって言ったでしょ。バカじゃないの」
森の奥から届いた声。木の向こうから、確実に聞いた声だった。姉に口答えしても勝ち目はない。
「お姉ちゃんこそ何しに来たの? バカじゃないの。あんたなんか鬼に食われて死ねよ」
麟は裸になった。ためらいもなく、裸になった。誰の目にも触れないだろうと知っていたからだ。樹々の間から射す朝日を浴びながら、服を捨てた。
鳥たちが鳴いていた。麟はしばらく裸のまま目を閉じた。もし狼がやってきても、構わないとさえ思った。全身を引き裂いて骨だけ残るなら、それも仕方がないことだ。
眼を開けた。ふと元の道を振り返った。樹で覆ったトンネルが果てしなく続いて、女神の背が見えない。
鳥たちの声が止まった。樹が揺れている。
つぶやくことすら、できない気がした。
「誰か」
麟は服を着た。
その瞬間、首筋に虫が這った。咄嗟に手で追い払うと、地面には小さな蜘蛛が一匹、うごめいていた。