広場には数えきれないほどの穴がある。どれも覗き込むには危険なくらいだった。
実態は謎だった。元々はSPレコードの隠し場所として始めたようである。膨大な円盤を抱えて広場に集う光景は、否応なしに人の目を引いた。
しかし今日では複数の証言が明るみに出ており、果たして本当に音楽のためなのか、あるいはただ掘り続けただけなのか、真相を知る者はいない。大地がもう一度割れると、その数万という円盤が姿を現す。多くはジャズと歌謡曲だった。ここに人がいた、と伝言を残す意図があるようだ。
成人一人、優に収まる大きさだった。遠くから噂を聞きつけた旅人が覗いてはダイブする。酔っ払いが足を滑らせ、落っこちる。少年たちがふざけて、落っこちる。広場は変わらず村人たちの憩いの場だった。
北の方角に一本の塔がある。塔の名を知る者はいない。誰もが喉の途中で話題を逸らし、仕舞には二度と口にするなと戒厳令まで出ていた。村人は皆、押し黙って生活しているらしかった。見上げるどころか、今ではうつむいて塔を避けていた。しかし途方もなく高い建物から逃れることはできず、来る人、来る人に沈黙を続けた。誰もいない村だ、と訪れた者がつぶやく。また山を下りてゆく。若者たちは都会へ出たきりである。
今宵、ポプラ並木を歩く男がいた。樹々の隙間から漏れる月明かりを頼りに、旅人は歩き続けている。およそ動物の影もない。梟が羽ばたくとか、暗闇の向こうに猫の目が光るとか、動く影は一切見えなかった。
森はすべてを呑んで静まり返っている。
「一人なんてやめたほうがいいですよ」
フロントの男が言う。
「だって危ないじゃないですか。でも止めません。どうせあなたは人の言うこと聞きませんしね。いや、私だってね、お客さんを孤独にさせたくないというかね。ここは観光地だし、スキー客も減ってるけど」
「森に行きたいんです」
「あのね。うちも商売だけどさ。お客さん危険な目に合わせるわけにいかねえの」
Nは宿から去った。
今度は、別の宿の扉を叩いた。
「石像ねえ。あんたも気になってたかい?」
Nは聞くんじゃなかったと後悔した。話しが適当な上に長く、散漫だった。どこか投げやりな態度に加え、観光客に気分で対応するのは目に見えていた。
「調査団がいてさ、春になると俺なんかもよく駆り出されるわけ。広場に土器やら家の柱の跡やら出てくるんだってよ。それで村の連中、みんな掘り始めるわけさ。別に大した物出ねえと思ってたけどよ、なんとこのあいだ人骨が出てきたの。こりゃ明るくなるなって思ったわけ。つまり、石像は」
「お墓」
「いや、そうなんだけどよ。よく見ると裸なんだよ」
「裸」
「みんな黙ってるわけわかったろ? なんでも五穀豊穣を込めてるだってさ。大昔のジジイのやるこった。どうせ向こうの真似でもしたんじゃねえの。ほら、ロダンとかさ。俺の兄貴も呆れてたもんな」
「煙草屋の主人ですね。よく似てますね、兄弟」
「口の悪い兄貴と一緒にするんじゃねえよ。だってあんた、バット一本やっとのことで買えたんだろ? 俺のこと喋ってなかった?」
「広場まで行ってみます」
Nは宿を後にした。二つのホテル〈グールド〉と〈ベストファーザー〉。距離は猫の額ほどしかない。
並木道を右へ大きく曲がると、石像がある場所へたどり着く。月明かりがNの足元に長い影を作っている。
一台の車が背後から迫った。ヘッドライトが樹を照らした。車は大きく逸れて停止した。白いセダンから男が降りる。知っている顔ではなかった。
Nは足を止めた。男は片手にシャベルを持ち、足元を掘り始めた。男の背には例の像が見守るように建っていた。
「すみません」
Nの声に男は無言のままだった。
「すみません」
男は手を止めた。自慢のシャベルが月に光っている。
「調査団の方ですか」
「帰れ」
男はまた土を掘り始めた。
暗闇に佇む像を見上げると、梟らしき声が飛び込んできた。羽を広げ、Nの頭上を飛んで行った。
思わず身をすくんだものの、Nは微笑んだ。森の王者からの歓迎だと思ったのだ。
きっと石像で羽を休める鳥だ、とNは思った。
「お兄さん」
男が言った。
「あっちに行ってみな。人がいる」
Nは広場へ急いだ。周辺で掘り起こす、とは聞いたものの、一体どれだけの人数で活動しているのか把握できなかった。
「夜更けになると蛾が取りやすくてね」
と、出会った一人が言う。なんでも照明を起こし、ビニールの上に虫を集める方法でたくさんの蛾を目撃できるという。
「俺たち、ほんとは発掘調査してるんだけどね。最近はあまり人が集まらなくてさ。みんなここに来ては時間を潰してるわけ。お兄さん、若いけど虫は好き? いや、嫌いだったらごめんな。だってほら、蛾ってのは意外にかわいいから」
男の案内通りにビニールシートの方へ歩いた。地面に置いた照明が輝いている。
「あれがそう。どくろみたいな顔、わかるかな」
「全部同じに見えますが」
「あれだよ、あれ。羽がでかいやつ」
青いビニールには夥しい虫が付いていた。クワガタにカナブン。名前の知らない小さな虫。その他、森から這い出た様々な虫がいる。
どくろみたいな顔した蛾を含めると、このシートだけで博物館でもできそうだった。
「向こうの森、知ってる? 入口に門があるんだけどさ、女の像があるんだ。この照明なら、夜でもはっきり見えるんじゃないかな」
Nは森のてっぺんを見上げた。
「フロントの人、一人で行かない方がいいみたいなこと言って。さっき抜け出したばかりなんです。月明りを頼りに歩いてきました」
「爺さんのこと、聞いていない? 門の番人やってんの」
「知らないです。この時間もですか」
「話しかけるとブチギレそうでね。ああいうジジイはどこの村にもいるけど。いずれ自分も石になるんだろ。俺たちは〈門番クソジジイ〉って呼んでるよ。雨が降ろうが、槍が降ろうが、あの爺さんは台座の上にいる」
「誰かを待っているんですね。僕のような旅人を」
「そうは思わないけどね。爺さんなりの考えがあるんじゃねえのかな」
「梟君が飛び去って行きましたが」
「見たの? あいつらは俺たちを見てるの。まだ掘りやがってとか」
「森があるわけですね」
「そう。納得させないと入れないんだよ。だから村のみんな諦めてる。何言っても聞かねえからさ」
Nは歩いてきたポプラの通りを思い描いた。
広場が見えた、白い車が過ぎた。
そして、蛾の羽が舞った。
「蛾は人生のすべて。俺にとって」
男の昆虫採集は筋金入りだった。小学校の自由研究には必ず虫を提出し、クラス内で話題となったようだ。学内の優秀作にも選ばれ、九月に入っても展示を続けたという。ついた仇名は当たり前のように「ハカセ」だった。尊敬と憧れの双方が子供たちの間にもあったのだ。
当の本人は調査団の一人に過ぎない、と謙遜している。
「いや、ほんと。大人になっても虫が好きなんて幸せだよ。蛾の鱗粉を浴びて大きくなったんだ、俺」
若者は都会へ出たんだ、と男は嘆いた。村の住人ほとんどが団員になる中、最後に参加したと話す。
「調査団ってこちらに何人いるんでしょう」
「村の住人、ほとんどそうだよ」
「ホテルの人も?」
「ああ、親父ね。元団員だよ。やめてるけど」
「人骨が出たと」
「誰が? 親父が言ってたの?」
「俺なんかもよく駆り出されるとか、何とか」
男は黙った。スクールバスに素通りされた男の子のように、急に口を閉ざした。
「気に障ること、言いました?」
Nは言った。男の顔色は月夜で真っ白だった。
「なんでもない。ちょっと考え事。お兄さん、よくしゃべるね」
「月のせいです」
「そうなんだよ! あそこの森、名前知ってる?」
Nはビニールシートで泳ぐ蛾を見て考えた。ひらひらと羽を震わせている。
大きな蛾が舞った。天使みたいだ、とNは思った。
「タイムオーバー。正解は〈裁きの森〉って言うんだ」
「迷い人を迎える、という意味ですか」
「それもあると思うよ。村の子供にとってはカッコいいんだよ、名前が」
「調査団って何人いるんでしょう。もう一度聞きますが」
「その前にさ、チームの名、聞いてくれよ」
「人骨が出ると聞きました。石像と関連性などあるんでしょうか。ここが墓とか」
「お兄さん、骨の話題はやめようよ」
「僕は知らないだけですって。この村に来て知らないことだらけで」
「何日いても構わないけどさ、俺の虫たちともいい付き合いしてくれよ」
「チームの名前」
「そうだった。ヒントはないよ」
「見当がつきませんね。誰か、人の名とか」
「いい線だね」
「なんとか調査団で間違いないですか」
「ヒント」
「どうぞ」
「プラーター公園のある町はどこだい?」
ウィーンだ。
と、Nは胸の内で答えた。男は微笑んでいた。その町と、一体どんな関係があるのだろう。
「誰か、人の名とか」
「いい線だね……って同じくだりじゃねえか」
頭蓋骨に当たると、手が止まるらしかった。広場を眺めまわすと、人の影が点々としていた。調査団の一人とは言えなかった。Nの姿に気付きもせず、地面を掘り続けている。遠目にもその奮闘ぶりが伝わった。
蛾好きの男と離れ、Nは他の団員に声をかけた。
「見てください」
男は言った。
「夜だと月に照らされて綺麗でしょう」
男の言う通り、広場の像は月明かりのもと輝いている。真っ白である。
「裸婦をこんなに近くで眺める仕事、なかなか他に探してもないですよ。若い人、みんな出ましたけどね」
「やっぱり」
「どうかしました?」
「いや、並木道から見ても何の像かわからなかったんです。人かな、とは思ってたんですが」
「待ってください。ポプラを抜けてこっちへ?」
「はい」
「あんな暗い道、よく切り抜けましたねえ。私も随分前に歩いたきりなんですが」
「よくホテルから出て散歩するんですよ。そのたびに石像がちらちらと見えるものですから」
「こちらへ」
「ええ。先ほど車が通り過ぎていくのを見たんです」
男はシャベルを離さなかった。山盛りの土が噴火しそうだった。火山灰か、崩した石の塊か、昼間の土の色には程遠い。何を掘っているか、深い穴からは確認できなかった。
「森の入り口、ここと同じ石ですか? そこにも裸婦が建っていると聞きましたが」
「そうなんですよ。広場と同じ作者なんです」
男はそう言って新しい土を山に加えた。
「お兄さん、こちらにはお仕事で?」
「連絡が来なくなりました」
「うちの団員、給料弾みますよ」
「やってみます」
辺りは土をせっせと掘る音以外、聞こえなかった。
「調査、いつも明け方まで続くんです。綺麗ですよ、朝焼けは」
「僕も夜勤の経験ありまして。朝が来るとほっとするんです」
Nは話している間もシャベルの手を動かした。団員に入る、と思わず口にしたが最後、間髪入れずマイ・シャベルを手にしていた。
ちょうど別の団員が貸してくれたのである。ぶっきらぼうではあるが、手持ち沙汰は良くないと道具をくれた。Nは礼を言うまでもなく、作業を開始した。
男は言った。
「よかったら家にでもどうですか? 紅茶でも飲んで帰ってください。新しい仲間です」
「それはご丁寧に」
Nは作業を続けた。東の空も青みが射してきた。黄金の月もいよいよ白く変わり、広場に落とした影も薄くなっていた。ほんの二時間前に見た土の盛りも、やはり泥と草の塊に過ぎなかった。灰褐色に輝く土の色がいつの間にか消えている。
団員たちの表情は晴れやかで、夜通し働いた顔とは思えなかった。脂汗が流れ、背中にも汗が滲んでいるのに、少しも疲労度を感じない。やがて森から鳥が啼いた。
「お疲れさまでした。本日は終わりです」
Nは男の言葉に耳を塞いだ。
太陽がちょうど昇り始めたばかりだった。
「どうしたのです? 気に障ること言いました?」
「あまり、手を動かしてないので」
「そんなことないですよ。こんなに掘ってくれれば十分です。それに俺たち、別にああしろとか、こうしろとか、遅いんだよお前とか、先輩風吹かすバカと違いますから」
「ありがとうございます」
Nは再びシャベルを地面に突いた。
「僕、もう少しだけ頑張ります。せっかくですが」
男は「ありがとう」と言い、簡単に家までの道のりをNに教えた。
「バスはこの時間、走ってないんです。紅茶はいつでも飲めますから」
そう言って広場を去った。
Nは作業に戻った。真夜中にいた団員たちが一人もいなくなっていた。
像の大きな乳房に陽が差し込んでいる。朝日が昇り始めたのだ。
どれくらい以前に建てたのか。背びれまで照っている。台座に横たわる一人の女性。その正体はブロンズの人魚だった。
フロントの男が言った通り、ロダンに影響を受けているようだった。目を閉じて恍惚としている。もう何年も、何十年もここでたくさんの人を見ているのだ。
あれだけ土を掘り上げておいて成果のほどは乏しかった。Nは自分の穴を切り上げると、他の数々の穴を覗いた。真っ暗なトンネル。踏み外すと地上に戻れそうにない。とても小さなシャベルで掘削したとは思えない穴だった。穴の壁に手を這わすと、ひんやりと土の温度が伝わった。柔らかな土だった。ようやく大人一人分の深さに達している。
朝の陽に手を遮りながら、Nは村を出た。空腹に慣れているとはいえ、今すぐにでも何かに被りつきたい気分だった。