「ようこそ。お待ちしておりました」
男はドアを開けて言った。夜通し作業を終えた解放感からか、穏やかな声だった。Nが手洗いを済ませ、テーブルに着くと、男の妻が食事を運んだ。熱いチキンスープと焼きたてのトースト、ゆで卵、サラダのセットだった。
丸太でこしらえた家は珍しくない。自家製の鳥箱も備えている。山を住処とする動物たち、家近くのせせらぎ。そしてNのような流浪の若者、朝になって散った他の団員たち。主人はそれらすべてを愛していた。木の家は休息なんだ、と誇らしげに語ると、こう付け加えた。
「あなたのような人が少なくてね。みんな都会に出てしまっているんです。俺はこの地域が好きでね、野生の鳥や狸も直に会える自分の村が好きなんです。朝まで仕事だろうが、帰ると疲れも吹っ飛びますよ」
「この人はおしゃべりでね。ゆっくりなさってね。二階がゲストさんの部屋なの」
夜通し働いたせいでNも疲れていた。
朝食を食べ終わると、奥さんの案内で二階の部屋に入った。シングルベッドに小さな机、開いたカーテンからは陽が射していた。
「疲れたでしょう」
「いえ、夜勤には慣れてますから。こんなに良くしてもらって感激です」
「娘たちは学校でね、まだ歩いてるところかしら」
「土臭い男が入って悪いですが」
「とんでもない。あの子たち、みんな部活早いのよ。三人ともバドミントン部でね。よくうちにお客が入ることも承知なの。二階には滅多に立ち寄らないし」
「朝練ですか、今日も」
「ええ。顧問の先生、厳しいみたい。でも好きみたいよ、みんな」
奥さんは紅茶を淹れた。机に小さな箱が置いてある。
「クッキー食べな」
「はい」
裸婦像が遥か彼方に過ぎた気がした。一体、調査団の連中はどこに行ったのか、このログハウスの中では想像もできなかった。それに穴という穴はほったらかしで、子供が遊ぶ場であるのに大丈夫だろうか。
疑問は尽きず、自分が懸命に掘った穴の奥を思った。Nの疲労はさらに増した。滞在してから未だ知らない道ばかりだった。
「とても静かな所ですね。綺麗ですし」
「そうなのよ。毎朝男性が掃除してくれてるの。そこで見かけなかった?」
「いえ。すれ違いだと思うんですが」
「あの人、昔バンドやってたのよ。ドラムね」
「そうなんですか。見かけませんでしたが」
雪で埋もれた川に流れが戻っていた。きらきらと朝日を照り返しては黄金の粒を散らしている。盗んだ宝石を散りばめたばかりのようで、目が眩むほどだった。穏やかな風が過ぎた。白い渡り鳥の群れも景色の一部だった。よく眺めると、くちばしを突っ込んで魚を捕らえている。春の訪れだった。
Nはシャワーを借りたあと、しばらく日記を広げた。鞄に大したものは入れていない。日記の他、クリアファイルが一枚、ガム、のど飴、懐中時計。作業中は穴のそばに置いていた。
ふと、壁に掛かった絵に目が留まった。そういえば滞在先の宿にも同じ葡萄の絵があった。きっとこの地域では流行っているのだ、とNは思った。
日記にはその絵についても記載があった。〈葡萄酒の香りがする。たぶん〉と、素っ気なく書いている。それが二月某日。もう二か月余り過ぎている。
朝早くに仕事を終えたため、昼までが遠い。胃に収めた朝食の効果もあって、心地よい眠気が襲った。
「随分と長い時間経っていました」
Nは紅茶を飲んで言った。
「娘が戻るまで休んでほしいのに。あなた、午後から予定入ってないんでしょう。それならあと何杯でも紅茶飲みなさいよ。自家製のクッキーもね。美味しかったでしょ? オーブンで焼いてるの。実はね、三人とも私のクッキーを覚えてね。バレンタインデーに送ったらしいのよ。あなた男性だから聞くけど、手編みのマフラーと手作りクッキー、どっちが嬉しいかしら。せっかく作るんだったらってこと。私、別に邪魔しないけどね。パパもお仕事終えてるし、いちいちクッキー作りに首突っ込むとは思えないのよ。パパったら夜勤明けでお腹を空かせてるから、また先に食べちゃうかも。よかったらクッキー作り、見て帰ってよ」
「あのクッキー、娘さんが作ったんですか?」
「残念。私が作ったものよ。三人共ね、作り方覚えてるのよ。パパは味がうるさくてね」
「旦那さん、今、どちらへ?」
「何言ってるの。一緒に朝ごはん食べたじゃない」
「もちろんです。そのあと会っていないんです」
「出かけたわ。あなたがベッドにいる間」
「買い物か、何か」
「人と会う、とだけ聞いてるけど」
「調査団のメンバーですか?」
「まさか。きっとタイヤでも交換してると思う。ちょっと待ってね」
奥さんは家のドアを開けた。
Nが肩越しに外を覗くと、「ほら、いるじゃない」と奥さんは言った。
「紅茶を飲んだばかりなんです。奥さんが出かけてるって聞いて」
男は微笑んだ。
ガレージのシャッターが開いている。タイヤが積んである。青色の工具箱が足元で口を開け、Nを吞みこむようだった。
「春になるとタイヤを替えなきゃ。穴掘ってる間も気になっていたんだ。ちょっと見てくれる? こうやって外すんだよ」
男は慣れた手つきでタイヤを外しにかかった。両手で力強くつかむと、重いタイヤが嘘のように外れた。
足もとにはホイールキャップが二枚、丁寧に重ねてある。
「最初にホイールナットを軽く緩めるんだよ。よかったら残りのタイヤ、外してみる?」
「喜んで」
Nの返事は早かった。もっとも目覚めたばかりで体を動かすには最適だった。家を出てすぐ向かい側にあるガレージには、様々な工具で溢れていた。Nは見渡す間もなく、両手を車の後部へ向けた。
「まず車を上げようか。タイヤを浮かせるんだよ」
男は車の下のジャッキを下ろした。
タイヤが床に触れる。Nは男の言う通り、自らの手でジャッキを上げた。
「次だ。これ使って緩めてみなよ」
男はクロスレンチを持って回す説明をした。
「実はね、店に頼むとお金取るんだよ。無駄な出費したくないしね。今日は君が来てくれたから楽だったよ。ありがとう。うちの奥さん、よくしゃべるでしょ? もっと早くに来てもらいたかったな」
Nは初めての作業にも慣れたのか、今度は外したタイヤを転がし、ガレージの隅まで運んだ。硬く、頑丈なタイヤの表面が手のひらから伝わった。タイヤを替える。雪ですべてを囲むこの世界では必須だった。
「穴、明日も掘るんですか?」
「もちろんだよ! 来てくれるよね? あの広場、まだまだ人手が足りなくてね。君は大丈夫。今日だって早くに覚えたんだから」
「タイヤって、こんなに重いんですね。初めてですよ。転がしてみたのは」
「なんだか娘たちにも紹介したくなってきた」
「三人、と聞きましたが」
「そうなんだよ! 俺が朝早くに帰ってくるから、最初はうまく説明できなくて。今じゃ隣の村で穴掘りしてること、みんなに自慢してるけどな。三人、たぶん仲良くできるんじゃないかな。うちの子はね、女房に似てるの。よくしゃべるし、笑うしさ」
「でも部活があるでしょう? 遅くなるんじゃないですか?」
「夏と違っていい加減帰ってくるよ。それまでゆっくりしていきなよ。長女は友達と映画作ってんだけど、夕暮れって一番いいらしいね。マジックアワーとかいう例のあれね」
男は新しいタイヤを取り付けた。その間、Nは背中に突っ立っていることを避けた。両手を止め、何も言わず幽霊になることを避けようとした。
「僕がやります」
Nの声に男は驚いた。別に、外すだけでよかったのにと言いたげな顔だった。
「いいよ、俺の仕事だから」
「ぼうっとしてるわけにいかないと思って」
「いいんだ。ありがとう。また女房と適当に話せばいいよ」
正午過ぎ、キッチンから肉の匂いが流れた。Nはテーブルに着いていた。大きな皿に盛った鳥の胸肉が目に入ると、唾液を飲み干した。
奥さんの手料理だった。旅に出てから誰かの料理を口にしていなかった。Nはスプーンを取った。
「タイヤ交換も甘くないわね」
「ええ。僕も初めてだったんですが」
「あの人ね、人に教えること好きなの。穴掘りにしても、ガレージでの作業にしても。すぐ自慢げな顔して説明するでしょう? 娘たち、嫌がってた時期もあったもの。でも不思議なのはね、三人ともパパが好きなのよ」
「僕に紹介したいと聞きました」
「ほら、旅人巻き込んでる。あなた、それだけ期待されてるのよ。みんな十代だけどね」
「十四歳と聞きました」
「ええ。上は一九歳。一番下が九歳。五歳離れてる。もなこが兄弟ほしいっていうから」
Nはスプーンで砕いた鶏肉を口に運んだ。
広場から隔てたこの村も、かつてはスキー客で賑わっていたようだ。ログハウスで宿泊する学生サークルやカップルの他、山登りを日課とする中高年にも人気だった。夫妻の生活は大きく変わったものの、夜勤の夫を支える手料理に変化はないという。鶏肉の脂が胃に流れ込む。Nの胃はいっぱいだった。
玄関のドアが開いた。
「もなこかな。帰ったみたい」
奥さんは皿を洗いながら言った。Nはドアの方へ眼を向けた。制服を着た少女がいる。
「お邪魔しています」
もなこは「こんにちは」と言い残すと廊下の奥へ消えた。
「旅人は珍しくないのにね。なんだか最近、冷たいのよ。年ごろとは言ってもね、うちは商売やってるのに。ああいう態度はよくないわよ、ほんと」
「すみません。僕が上がりこんでしまって」
「何言ってんのよ、あなた。もなこと話したかったでしょう?」
「でも大人の男ですよ」
「そんなの子供の頃から何度も見てるの」
「外からの男性ですよ、僕。広場でパパと話しただけの男性ですよ」
「そんなの子供の頃からって言ったでしょう。変な気遣いなんていらないの。さっさと会って来なさいよ。私ね、あなたとどんな話できるか楽しみなのよ」
「ご主人もいますし」
「あの人が紹介するって言ったでしょう。いい機会じゃない」
奥さんは微笑んでいた。皿を片付けると、Nはテーブルに一人残った。右手を胃に当てた。鳥の胸肉が入っている。
「あの」
奥さんは水道の流れる音で聞こえないのか、振り返ることはなかった。廊下に消えた少女を追えるわけがなかった。だがNは少女がいるらしい部屋の扉を見た。
急に扉が開いた。もなこだった。Nは馬鹿みたいに硬直し、たった今、ドアから少し顔を出した子を見つめた。次女だろうと思った。
「お邪魔しています。パパと広場からやってきたんです」
「帰ってください」
もなこはドアを閉めた。乾いた音だった。
Nは「ごちそうさまでした」と言い残すと、玄関へ向かった。
計ったように男が戻ってきた。
「娘は君のこと気に入ると思うよ。昔から大人の姿、見てるんだ。スキーが流行ってたんだよ。合宿だったり、旅行だったりね。今は一時期ほどじゃないけどさ、やっぱり俺たちも商売やってるわけ。いつの時代も遠くからやってきた人が好きなんだよ。放っておけないっていうかさ」
「もなこさんと話しましたよ」
「部屋に入ったの?」
「とんでもない。廊下で」
「それならよかった! 年ごろだもんな! いや、誤解してるわけじゃないよ」
男は笑っていた。
ドアから覗く顔色と声音は明らかに警戒していた。なぜこの家に立ち寄ったのだろう。階段の下、キッチンで変わらず水仕事をしている奥さんの背。ガレージを閉めた夫の笑み。お世話になりました、と言い残して去った自分の声。Nが森の中を歩く度に、木の家で過ごした記憶が嘘のように感じた。あの家、地面の穴を掘り終えた自分を迎えた家は本当にあったのだろうか、少女の怪訝な瞳も、その声も。
日は暮れようとしていた。道路に沿って照明が並んでいた。目が眩むほど明るかった。目を凝らすと虫が舞っているのがわかる。蛾だ。クワガタに交じって体をぶつけていた。樹々の間から灯りが漏れていた。小さな村のため、住宅からの灯が数えるほどに照っていた。
広場は穴だけを残して誰も訪れていなかった。Nは穴の奥を覗いた。暗闇で見えなかった。耳を近づけると、何やら不気味な音が聞こえた。動物の呻き声のようだ。