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第12話

「ようこそ。お待ちしておりました」

 男はドアを開けて言った。夜通し作業を終えた解放感からか、穏やかな声だった。Nが手洗いを済ませ、テーブルに着くと、男の妻が食事を運んだ。熱いチキンスープと焼きたてのトースト、ゆで卵、サラダのセットだった。

 丸太でこしらえた家は珍しくない。自家製の鳥箱も備えている。山を住処とする動物たち、家近くのせせらぎ。そしてNのような流浪の若者、朝になって散った他の団員たち。主人はそれらすべてを愛していた。木の家は休息なんだ、と誇らしげに語ると、こう付け加えた。

「あなたのような人が少なくてね。みんな都会に出てしまっているんです。俺はこの地域が好きでね、野生の鳥や狸も直に会える自分の村が好きなんです。朝まで仕事だろうが、帰ると疲れも吹っ飛びますよ」

「この人はおしゃべりでね。ゆっくりなさってね。二階がゲストさんの部屋なの」

 夜通し働いたせいでNも疲れていた。

 朝食を食べ終わると、奥さんの案内で二階の部屋に入った。シングルベッドに小さな机、開いたカーテンからは陽が射していた。

「疲れたでしょう」

「いえ、夜勤には慣れてますから。こんなに良くしてもらって感激です」

「娘たちは学校でね、まだ歩いてるところかしら」

「土臭い男が入って悪いですが」

「とんでもない。あの子たち、みんな部活早いのよ。三人ともバドミントン部でね。よくうちにお客が入ることも承知なの。二階には滅多に立ち寄らないし」

「朝練ですか、今日も」

「ええ。顧問の先生、厳しいみたい。でも好きみたいよ、みんな」

 奥さんは紅茶を淹れた。机に小さな箱が置いてある。

「クッキー食べな」

「はい」

 裸婦像が遥か彼方に過ぎた気がした。一体、調査団の連中はどこに行ったのか、このログハウスの中では想像もできなかった。それに穴という穴はほったらかしで、子供が遊ぶ場であるのに大丈夫だろうか。

 疑問は尽きず、自分が懸命に掘った穴の奥を思った。Nの疲労はさらに増した。滞在してから未だ知らない道ばかりだった。

「とても静かな所ですね。綺麗ですし」

「そうなのよ。毎朝男性が掃除してくれてるの。そこで見かけなかった?」

「いえ。すれ違いだと思うんですが」

「あの人、昔バンドやってたのよ。ドラムね」

「そうなんですか。見かけませんでしたが」

 雪で埋もれた川に流れが戻っていた。きらきらと朝日を照り返しては黄金の粒を散らしている。盗んだ宝石を散りばめたばかりのようで、目が眩むほどだった。穏やかな風が過ぎた。白い渡り鳥の群れも景色の一部だった。よく眺めると、くちばしを突っ込んで魚を捕らえている。春の訪れだった。

 Nはシャワーを借りたあと、しばらく日記を広げた。鞄に大したものは入れていない。日記の他、クリアファイルが一枚、ガム、のど飴、懐中時計。作業中は穴のそばに置いていた。

 ふと、壁に掛かった絵に目が留まった。そういえば滞在先の宿にも同じ葡萄の絵があった。きっとこの地域では流行っているのだ、とNは思った。

 日記にはその絵についても記載があった。〈葡萄酒の香りがする。たぶん〉と、素っ気なく書いている。それが二月某日。もう二か月余り過ぎている。

 朝早くに仕事を終えたため、昼までが遠い。胃に収めた朝食の効果もあって、心地よい眠気が襲った。



「随分と長い時間経っていました」

 Nは紅茶を飲んで言った。

「娘が戻るまで休んでほしいのに。あなた、午後から予定入ってないんでしょう。それならあと何杯でも紅茶飲みなさいよ。自家製のクッキーもね。美味しかったでしょ? オーブンで焼いてるの。実はね、三人とも私のクッキーを覚えてね。バレンタインデーに送ったらしいのよ。あなた男性だから聞くけど、手編みのマフラーと手作りクッキー、どっちが嬉しいかしら。せっかく作るんだったらってこと。私、別に邪魔しないけどね。パパもお仕事終えてるし、いちいちクッキー作りに首突っ込むとは思えないのよ。パパったら夜勤明けでお腹を空かせてるから、また先に食べちゃうかも。よかったらクッキー作り、見て帰ってよ」

「あのクッキー、娘さんが作ったんですか?」

「残念。私が作ったものよ。三人共ね、作り方覚えてるのよ。パパは味がうるさくてね」

「旦那さん、今、どちらへ?」

「何言ってるの。一緒に朝ごはん食べたじゃない」

「もちろんです。そのあと会っていないんです」

「出かけたわ。あなたがベッドにいる間」

「買い物か、何か」

「人と会う、とだけ聞いてるけど」

「調査団のメンバーですか?」

「まさか。きっとタイヤでも交換してると思う。ちょっと待ってね」

 奥さんは家のドアを開けた。

 Nが肩越しに外を覗くと、「ほら、いるじゃない」と奥さんは言った。



「紅茶を飲んだばかりなんです。奥さんが出かけてるって聞いて」

 男は微笑んだ。

 ガレージのシャッターが開いている。タイヤが積んである。青色の工具箱が足元で口を開け、Nを吞みこむようだった。 

「春になるとタイヤを替えなきゃ。穴掘ってる間も気になっていたんだ。ちょっと見てくれる? こうやって外すんだよ」

 男は慣れた手つきでタイヤを外しにかかった。両手で力強くつかむと、重いタイヤが嘘のように外れた。

 足もとにはホイールキャップが二枚、丁寧に重ねてある。

「最初にホイールナットを軽く緩めるんだよ。よかったら残りのタイヤ、外してみる?」

「喜んで」

 Nの返事は早かった。もっとも目覚めたばかりで体を動かすには最適だった。家を出てすぐ向かい側にあるガレージには、様々な工具で溢れていた。Nは見渡す間もなく、両手を車の後部へ向けた。

「まず車を上げようか。タイヤを浮かせるんだよ」

 男は車の下のジャッキを下ろした。

 タイヤが床に触れる。Nは男の言う通り、自らの手でジャッキを上げた。

「次だ。これ使って緩めてみなよ」

 男はクロスレンチを持って回す説明をした。

「実はね、店に頼むとお金取るんだよ。無駄な出費したくないしね。今日は君が来てくれたから楽だったよ。ありがとう。うちの奥さん、よくしゃべるでしょ? もっと早くに来てもらいたかったな」

 Nは初めての作業にも慣れたのか、今度は外したタイヤを転がし、ガレージの隅まで運んだ。硬く、頑丈なタイヤの表面が手のひらから伝わった。タイヤを替える。雪ですべてを囲むこの世界では必須だった。

「穴、明日も掘るんですか?」

「もちろんだよ! 来てくれるよね? あの広場、まだまだ人手が足りなくてね。君は大丈夫。今日だって早くに覚えたんだから」

「タイヤって、こんなに重いんですね。初めてですよ。転がしてみたのは」

「なんだか娘たちにも紹介したくなってきた」

「三人、と聞きましたが」

「そうなんだよ! 俺が朝早くに帰ってくるから、最初はうまく説明できなくて。今じゃ隣の村で穴掘りしてること、みんなに自慢してるけどな。三人、たぶん仲良くできるんじゃないかな。うちの子はね、女房に似てるの。よくしゃべるし、笑うしさ」

「でも部活があるでしょう? 遅くなるんじゃないですか?」

「夏と違っていい加減帰ってくるよ。それまでゆっくりしていきなよ。長女は友達と映画作ってんだけど、夕暮れって一番いいらしいね。マジックアワーとかいう例のあれね」

 男は新しいタイヤを取り付けた。その間、Nは背中に突っ立っていることを避けた。両手を止め、何も言わず幽霊になることを避けようとした。

「僕がやります」

 Nの声に男は驚いた。別に、外すだけでよかったのにと言いたげな顔だった。

「いいよ、俺の仕事だから」

「ぼうっとしてるわけにいかないと思って」

「いいんだ。ありがとう。また女房と適当に話せばいいよ」



 正午過ぎ、キッチンから肉の匂いが流れた。Nはテーブルに着いていた。大きな皿に盛った鳥の胸肉が目に入ると、唾液を飲み干した。

 奥さんの手料理だった。旅に出てから誰かの料理を口にしていなかった。Nはスプーンを取った。

「タイヤ交換も甘くないわね」

「ええ。僕も初めてだったんですが」

「あの人ね、人に教えること好きなの。穴掘りにしても、ガレージでの作業にしても。すぐ自慢げな顔して説明するでしょう? 娘たち、嫌がってた時期もあったもの。でも不思議なのはね、三人ともパパが好きなのよ」

「僕に紹介したいと聞きました」

「ほら、旅人巻き込んでる。あなた、それだけ期待されてるのよ。みんな十代だけどね」

「十四歳と聞きました」

「ええ。上は一九歳。一番下が九歳。五歳離れてる。もなこが兄弟ほしいっていうから」

 Nはスプーンで砕いた鶏肉を口に運んだ。

 広場から隔てたこの村も、かつてはスキー客で賑わっていたようだ。ログハウスで宿泊する学生サークルやカップルの他、山登りを日課とする中高年にも人気だった。夫妻の生活は大きく変わったものの、夜勤の夫を支える手料理に変化はないという。鶏肉の脂が胃に流れ込む。Nの胃はいっぱいだった。

 玄関のドアが開いた。

「もなこかな。帰ったみたい」

 奥さんは皿を洗いながら言った。Nはドアの方へ眼を向けた。制服を着た少女がいる。

「お邪魔しています」

 もなこは「こんにちは」と言い残すと廊下の奥へ消えた。

「旅人は珍しくないのにね。なんだか最近、冷たいのよ。年ごろとは言ってもね、うちは商売やってるのに。ああいう態度はよくないわよ、ほんと」

「すみません。僕が上がりこんでしまって」

「何言ってんのよ、あなた。もなこと話したかったでしょう?」

「でも大人の男ですよ」

「そんなの子供の頃から何度も見てるの」

「外からの男性ですよ、僕。広場でパパと話しただけの男性ですよ」

「そんなの子供の頃からって言ったでしょう。変な気遣いなんていらないの。さっさと会って来なさいよ。私ね、あなたとどんな話できるか楽しみなのよ」

「ご主人もいますし」

「あの人が紹介するって言ったでしょう。いい機会じゃない」

 奥さんは微笑んでいた。皿を片付けると、Nはテーブルに一人残った。右手を胃に当てた。鳥の胸肉が入っている。

「あの」

 奥さんは水道の流れる音で聞こえないのか、振り返ることはなかった。廊下に消えた少女を追えるわけがなかった。だがNは少女がいるらしい部屋の扉を見た。

 急に扉が開いた。もなこだった。Nは馬鹿みたいに硬直し、たった今、ドアから少し顔を出した子を見つめた。次女だろうと思った。

「お邪魔しています。パパと広場からやってきたんです」

「帰ってください」

 もなこはドアを閉めた。乾いた音だった。

 Nは「ごちそうさまでした」と言い残すと、玄関へ向かった。

 計ったように男が戻ってきた。 

「娘は君のこと気に入ると思うよ。昔から大人の姿、見てるんだ。スキーが流行ってたんだよ。合宿だったり、旅行だったりね。今は一時期ほどじゃないけどさ、やっぱり俺たちも商売やってるわけ。いつの時代も遠くからやってきた人が好きなんだよ。放っておけないっていうかさ」

「もなこさんと話しましたよ」

「部屋に入ったの?」

「とんでもない。廊下で」

「それならよかった! 年ごろだもんな! いや、誤解してるわけじゃないよ」

 男は笑っていた。



 ドアから覗く顔色と声音は明らかに警戒していた。なぜこの家に立ち寄ったのだろう。階段の下、キッチンで変わらず水仕事をしている奥さんの背。ガレージを閉めた夫の笑み。お世話になりました、と言い残して去った自分の声。Nが森の中を歩く度に、木の家で過ごした記憶が嘘のように感じた。あの家、地面の穴を掘り終えた自分を迎えた家は本当にあったのだろうか、少女の怪訝な瞳も、その声も。

 日は暮れようとしていた。道路に沿って照明が並んでいた。目が眩むほど明るかった。目を凝らすと虫が舞っているのがわかる。蛾だ。クワガタに交じって体をぶつけていた。樹々の間から灯りが漏れていた。小さな村のため、住宅からの灯が数えるほどに照っていた。

 広場は穴だけを残して誰も訪れていなかった。Nは穴の奥を覗いた。暗闇で見えなかった。耳を近づけると、何やら不気味な音が聞こえた。動物の呻き声のようだ。

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