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第13話

 人が落ちる大きさには十分だった。

「誰か」

 喉から絞り出した声だった。だれか。わずか三文字も空しく闇に消えた。

「誰かいますかー」

 今度は大声で試すも、豚らしき声は続いた。Nは辺りを見回した。風で大きく森が揺れている。

 Nは別の穴に飛び込んだ。

 暗闇まで一瞬だった。足元に何かがある。シャベルだ。

 それが自分の手による穴だと知って、Nは身震いした。このシャベルは団員に借りたもので、作業を終えて目印のために残したのだ。

 絶えず何者かの鳴き声が響いていた。さらに掘り続けば鳴き声も止むだろう。Nはシャベルを手に穴の続きを掘り始めた。月夜の下、大勢の団員たちと汗を流した場所だ。人の声は聞こえなかった。誰かの足音すらも届かなかった。ただ右手の掘削音だけが不気味な鳴き声と拮抗していた。強く掘れば頭を割る。血が噴き出して腕全体を真っ赤に染める。土の先にうごめく生物。豚なのか、牛なのか、知らない巨大な動物なのか、想像もつかない。「誰か」と呼んだ声すらも過去だった。

「遊ぼうよ」

 思わず口にした声に違いなかった。もう数センチほど穴を掘れば正体がつかめる。Nはシャベルを離さなかった。作業も慣れたものだった。きっと団員たちは休日なのだ、とNは思った。

地上に戻ると、Nは裸婦像の前まで向かった。

 村の人々が嫌うほど、露骨な像ではなかった。労働者を見守るかのようだ。

「女神なんだよ。君も気付いたと思うけど」

 作業中に聞いた男の言葉だった。シャベルを貸した男だ。

「ばあさんたちがこんなものいらないってさ。裸の女、寝転がってるだけだからとか。作者も誰かわかんねえし。たぶん広場ができた頃からあるんじゃねえかな」

「他にもあるんですか、この村に」

「いや、俺も長いけどないと思うよ。素っ裸でもう何十年さ。石の女だからカチカチだよ」

 裸婦像は変わらずNを迎えていた。「遊ぼうよ」と、Nは言った。 


 広場への道には、どこからやってきたのか猫が寝ていた。赤茶色の巨体を晒していた。Nが顔を近づけると、全く驚くそぶりを見せなかった。

 そこへ一匹、別の猫がやってきた。黒猫だった。Nは立ち止まり、その猫の位置に腰を下ろした。頭の形は小さい。雌だった。Nの手触りが心地いいのか、声にならないほど弱く鳴いた。左手で撫で続けるうち、さらに猫が二匹、すり寄ってきた。

「ルイーズ!」

 少女の声だった。

「すみません。うちの猫なんです」

「よかった。この子が勝手に寄ってきたんだ」

 少女の声に気付いた黒猫の耳がピンと立った。綺麗な三角形を描いて、飼い主らしき声に反応していた。

「人懐っこいんです」

「黒猫にしては珍しいね」

「そうなんですよ。いつも通りがかりの人に媚びるんです。私がきつく言うもんですから」

 ルイーズは鳴いていた。

「シャイだよね、黒は」

「旅人が好きなんですよ。お兄さんみたいなタイプ」

 右手のシャベルはまるで亡霊だった。猫の話題から逸れたまま、夕陽を照らすばかりだった。

「これ、持ち主探してるんだけど」

「シャベル」

「そう、あっちの広場で使ったんだけど。まさか猫に化けたとか」

「……知らないです」

 少女は言った。



「よくあるんです。誰かのそばにいるんですよ、この子」

「僕は遠くから来たんだけど、平気だったよね。黒猫は恥ずかしがりやが多いのに」

「お兄さん、猫飼ってましたか? 撫で方でわかるんですよ。飼ってる人と、そうじゃない人」

「ずっと昔に飼ってたよ。白とか三毛に交じってすくすくと育ったよ」

「私の家、他にもいますよ」

「ルイーズは人気者なのかい? また外に行ったのかって嫌味言われてない?」

「大丈夫なんです。もう一匹、黒がいるので。その子が世話を焼いているんです」

 Nは住宅街を歩いている間も、何匹か猫を見た。坂道が続いていた。入り組んだ石畳みの小路が闇に続いている。真っ白な猫が近づいてくるのがわかった。

「あの子はブルックスの友達」

「ブルックス?」

「はい。もう一匹の黒の名です」

「ルイーズの教育係だね」

「そのおかげで私、楽なんですよ。ブルックスはいいお姉ちゃんなんです」

 少女の話によると、二匹の黒猫との出会いは一年前。よく似た猫で、〈クロ〉と〈クロコ〉と分けていたが、ある日を境に名前を決めたらしい。

 村の公民館で見たことがある、という。都会からやってきた業者が、過疎地域で映画を無料上映していた。『パンドラの箱』という映画だった。

 手の中のルイーズは主人の顔をよそに目を閉じていた。眠り始めている。

 二匹の黒に新たな名前を分け与えると、夢にまで見た舞台が現実になった。

「嘘みたいですけど」

 制服とは別、ステージに立つ衣装を身に着けた瞬間だった。

 横顔は真剣そのものだった。黒髪のボブに変えた。これもサイレント期の女優を意識していた。

 鏡に映るもう一人の自分が煌めいている。本名のまま、〈カナ〉と名付けた。

「他にメンバーは二人いるんですよ。あっちのログハウスに一人」

 Nは喉元まで言いかけると、すぐに呑み込もうとした。

「男子なんか私がアイドルだってこと知らないんです。田舎だからじゃないですか」

「気付かないわけないと思うよ。照れてるだけだよ、みんな」

「そういえば、もなこも同じようなこと言ってました。気付かないわけないって。なんか私たち、田舎でも有名じゃないみたいなんです。それってつまり……」

「いいと思うよ」

「どうしてですか。売れてないみたいじゃないですか。ルイーズもまた同じ曲歌ってやがるって顔するんですよ。ブルックスの方は大人しいですけど」

 村のガス燈が煌々と足下を照らしている。凍える夜も、何年も村人をこの位置から照らし続けている。一人の男と少女の影が伸びるのは、そのせいだった。

 Nは歩きながらこの子がマイクを持つ姿を描いた。そして黒猫がステージの裏で覗き見ている。まるでうるさい女性マネージャーだ。

「ほんとに嘘みたいなんですよ。助けられたようなものなんです。猫がいなかったら、合格なんかしてないと思います。こんな静かな村からデビューなんて夢みたいじゃないですか」

「ブルックスと見分けがつくの?」

「目でわかりますよ! 今、閉じてますけど」

 やがて家の前に来た。居間の明かりが差していた。小路が玄関まで伸びている。古い日本家屋である。庭の燈篭から灯が照っていた。宵闇を淡く照らしている。生い茂る松の木の影が、Nの足元に落ちていた。

「あ、そうだ」

 Nは懐から地図を取り出した。

「地下室で見つけたんだよ。本の中に挟まれてた」

 カナは地図を食い入るように見た。

「クライバーの皆さん、絶対知っていますよ」

「あの広場の人たちね」

「これ、預かっていいですか? ちょっと調べたいんですよ。どうせ次の公演もなくなったし」

 ルイーズは耳をピンと立てている。

 カナは門の扉を開けた。その間、ルイーズは地面に降りた。

「ありがとうございました」

 カナは微笑んだ。一瞬、Nは握手しようと腕を伸ばしたが引っ込めた。汗が滲んだ手だった。おまけにシャベルの土がこびりついている。

 ルイーズは一言も鳴かず、飼い主の手に戻った。また目を閉じたようだ。

 門が閉まった。扉の向こうで「麟」と叫ぶ声が聞こえた。



 シャベルを見た店員は目を丸くした。

 Nは言った。

「広場で借りたものなんです。どなたか、持ち主を知ってらっしゃる人がいれば助かります」

「お客様、どこでそれを?」

「向こうの広場です。裸の象が立っているあそこですよ。調査団を手伝いましてね。僕は夜明けまで土を掘っていたんです。シャベルを貸してくれた人、今になって探そうと思って」

「少々、お待ちください」

 女性は深刻な顔をして店の奥に消えた。Nは席に着かず立ち尽くしていた。周囲の客は訝し気にNを見た。蕎麦の匂いがした。お腹が鳴る。

「お兄さん、ちょっと」

 Nは振り向いた。客の男性が見ている。

「シャベル、広場から持ってきたんだろ? 俺、調査団の連中知ってるよ」

「男性でした。気さくに接してくれましたが」

「あの人、誰にでもそうだよ。でも旅人にとっちゃたまったもんじゃないよな。土掘って宝の山でも出てくりゃいいのに」

 男によると、同じようにシャベルを借りたままの人間が多くいる、という。あの広場はシャベルがいくつあっても足りないようだった。

「村中を探し回るわけにいきません。お返ししたいのです」

「広場に捨てとけ。取りに来るさ」

「そういえば次の掘削、決まっているんでしょうか。運のいいことに参加できましたが」

「確か週三って聞いたことあるぜ。呑気なもんだよ」

「でもあの広場、誰も使っていませんよね。裸婦像に嫌われてるとか」

「あれね。ロダンの猿真似みたいだよな。石ってのは放っておくと苔が生えてくるんだ。フサフサだよ。いろんな意味で」

 客の男たちは笑った。Nは女性店員が奥から出てこないことに苛立った。シャベルを持って入ったことを後悔した。  

「お待たせしました」

 女性が店の奥から顔を出した。

「うちの常連なんですけど、今日は見えてないみたい」

「これを返すだけでいいんです」

「お客様、もしよろしければお預かりしますよ。次、来られた時にお渡ししますから」

「すみません。助かります」

 Nはシャベルを女性に渡した。

 空腹のまま夜を歩いたせいか、疲労困憊だった。黒猫と少女の笑顔に別れ、また一人となったのだ。

 Nは天ぷら蕎麦を注文した。

「お兄さん、ちょっと」

 同じ男性の声だった。

「あんた、浮かない顔してるな。シャベル、返さなくてもよかったんじゃねえの? ああいう道具は武器になるんだよ。山奥のここらじゃ」

「熊でも出るんでしょうか」

「違う、違う。あれ持っていたら、クライバーの連中と会ったってわかるだろ。俺たち、人がいたら疑うように大昔から言われてるからよ。でもお兄さん。あんたは大丈夫」

「また地面を掘ろうと思っているんです。面白いじゃないですか」

「俺はごめんだよ。二度とやりたくねえ。あんなに掘ってどうするんだって話だよ。団長、加減ってもの知らねえ人だからよ。どんどん人を使っては手を広げるんだよ」

 Nは空腹に耐えていた。胃の中に何も入っていないのがわかった。ルイーズも、きっと今頃は夕食の時間だろう。ブルックスと共に温めた鶏肉でも頬張っているに違いない。

「お待たせしました」

 天ぷら蕎麦を持って女性が来た。Nの元へ御膳を置くと、店の奥へと消えた。

 その時、割り箸を包んだ紙に目が留まった。

 文字だ。

〈お会計時にシャベルをお返しします〉

 と、筆ペンで書いてある。


 蕎麦屋を出たNの右手には同じシャベルがあった。土は綺麗に取り除いてあり、さては店の主人が水で洗い流したのだ、と思った。夜が更けていた。蕎麦屋の明かりが遠のく頃には、知らない家の前を何件も素通りしていた。

 坂道を上がると、また猫が足元に駆け寄ってきた。

 Nは思わず腰を下ろし、猫を撫でた。キジトラだった。夜間のため、瞳孔が大きくなっている。太い腕と足から、誰が見ても雄だった。

 Nはシャベルを離し、雄猫を持ち上げた。両腕で抱えると、肉厚でさらに顔が丸くなる。まるでライオンだった。大きな瞳に自分の顔が映った。

「ねえ、この辺りに煙草屋さんある?」

 体重がNの腕に伸し掛かっている。

「バー、ある?」

 この猫が知っている場所へ行こう、とNは思った。ホテルに戻れば、またバイトの誘いがある。あの支配人は地下室まで送り込んで何が楽しいのか、思い出すだけで胸やけがした。

 Nが離した途端、猫は歩き始めた。言葉が通じたのか、足取りが軽い。

「どこまでいくの?」

 尻尾が伸びていた。とある店の看板の下で猫は止まった。

〈ふらんそわ〉と書いた店のドアを開けた途端、常連らしき客がNを捕らえた。

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