「シャベル!」
広場で見た男性だった。
「ご無沙汰しております」
「あんたは」
「広場でお会いしましたよね。探してたんですよ」
Nはシャベルを男に渡した。
「これをお返ししようとそこら中歩きまわっていたんです。キジトラの猫がですね、このバーまで案内してくれたんですよ。猫ってなぜか勘がいいんですよね」
「こいつはね、ここで飼ってるの。また太ったみたいだけどさ」
デブ猫はバーのカウンターへ移動していた。特等席なのか、目を閉じている。
「お兄さん、俺たち馴染みの連中ばかりだから、ゆっくりしていきな。こいつはもう寝てるけど」
猫は大きなお腹ゆえに、呼吸の度に丸くなるようだった。どうやら旅人を見ては連れてくる癖があるのだ。
何人かの客がNと男のやり取りを聞いている。内装は二十年代を意識したのか、モノクロ写真が丁寧に額の中に納まっている。目を凝らすと、つい昨日の時代ではないとわかった。飛行機が市場へ出回ってそれほど経っていない頃、まだチャールズ・リンドバーグが海へ飛び立つ前のある日、街のどこかで、誰かが写した写真だ。
「一枚、どう?」
男は皿を差し出した。
焼きたてのピザがある。たった今、奥の窯から取り出したばかりのようだった。
「ありがとうございます」
と、Nは一ピース手に取った。チーズが溶けて湯気が上がっている。厚切りのサラミに黒胡椒を塗した一枚だ。
ピザは口を開けたような形になっている。
「マスター直伝でね。このピザ変わんねえの。今日は弟だけど」
「シャベル借りたままでした。僕も誰と話してるかわかっていなかったんです。月明りでよく見えてたはずなんですが」
「地面、硬くなかった? 俺はへとへとで早いとこ切り上げたんだけど」
「ああいう作業には慣れているんです。昼間だったら嫌ですが」
男は残りのピザを頬張った。
「ジンジャーエールください」
Nは言った。
「穴掘りは珍しい光景じゃないんです。うちはそのおかげで繁盛しています」
その昔、広場で発掘作業をした男がいるらしい。男は王妃が眠る墓地を探し当てようとしていた。来る日も来る日も同じ広場で掘削を続けた。日が重なるに連れ数が増えたという。
「それがクライバー調査団の前身ってわけ。王妃なんかいねえよ、たぶん」
「初期メンバーの方々は元気なんですか?」
「確かこの村にいるよ」
「元団長だけですよ。あとは村から離れてます」
バーテンダーが言った。
「僕が参加した時、王妃の話はでませんでした。皆さん、それぞれ像の前でせっせと穴を掘っていましたが」
「実はあの像を作った一家、長い間帰ってきていないんです。どこかにいるとは思いますが」
「墓の調査を依頼したままとか」
「素晴らしい才能ですけどね。本人が一切出てこない。でも覚えているんです。ここを発つ前に、ちょうどあなたが座っている席で」
「……ここで?」
「ええ。ドリンクは水でしたが」
「悩みでもあったんじゃねえの? 俺の知ったこっちゃねえけどよ」
Nはグラスの中を見つめた。気泡が浮いて音を立てている。
「一つ言えるのは、調査団は依頼を受けて作業をしていることです。それが像の作者かどうかわかりませんが」
「ま、人の秘密ってのはそっとしといた方がいいんだろ。素っ裸の女が広場で泣いても助けやしねえわけだから。みんな地面に夢中なんだよ」
「兄なら、もっと知ってるかもしれませんけど」
「豹が?」
「ええ。昔話を聞くのが商売ですから。団員たちとも会っていると思いますよ」
「あの、あっちの家で見た絵についてなんですが」
「葡萄の」
「宿にも掛かっていたんですよ。この地域では流行っているんでしょうか」
「それも兄なら知っていると思います。たくさんの人がいますから」
翌朝、葡萄の絵について村人に聞くと、同じ顔が返ってきた。
「昔はもっと飾ってあったのにね」
Nは別の村人に聞き出すと、今度は意外な答えが出た。
「お兄さんはどこから? 山の者じゃないみたいだね」
「連絡がないままなんです。まさか春を迎えるなんて」
「調査団も始めて見たんだね。それなら絵に目が留まるのも必然ってわけだ」
「シャベルを返したばかりですが」
「葡萄の絵があるうちは大丈夫なんだ。果実ってのは新鮮なままがいい。団員たちも元気な証拠だよ」
ログハウスで開いた自分の日記には、〈葡萄酒の香りがする。たぶん〉と綴っている。
つい二か月ほど前、確かに宿で記した文だ。
「葡萄の絵、そんなに気になるかい?」
宿のフロントは言った。
「確かにうちにもあるけど」
「果実が集まっていますね」
「そう。もうすぐ美味しい肉が入るからね。お口直しみたいなもんかな」
「しかし、調査団と無関係ではないでしょう」
「……わかんないよ。俺は肉がありゃいいの」
Nは部屋に戻った。改めて壁の絵を眺めた。サインはない。ログハウスの家と全く同じだ。紫の色鉛筆で描いてある。芳醇な果実がこぼれるようだった。
バーテンの話によると、村から出た調査団メンバーが複数いる。きっとその人たちの家にもあるのかもしれない。さらに目を凝らす。やはりサインらしき名はどこにもなかった。
窓から子供たちの声が飛び込んできた。学校に向かう時刻だった。小さな村のため、生徒数は少ない。それでも二、三人のグループが道を歩いていった。
Nは窓を開けた。女の子の歌声が聞こえた。『カントリーロード』を歌いながら、宿の前の通りを過ぎてゆく。窓の向こう、村全体を囲む山が白い。ここを訪れた日から、積雪は減っている。しかし、未だ山頂に白粉を残したままだった。
ドアを叩く音が聞こえた。
「今から広場であんせるめのライブがあるんです。来てください」
耳を疑う声だった。
「告知、ありがとう。ルイーズなら、おうちへ帰ったよ」
ドアノブに手をかけた瞬間、Nは黒猫を抱いた女の子を描いた。
このドアの向こうにいる。
「ブルックスの調子はどう? ルイーズに手を焼いていると思うけど」
「私、麟ですよ」
「……お友達?」
「ええ。カナの親友です」
「待った。どうして僕の部屋を?」
麟と名乗ったその少女は、確かに廊下にいた。黒猫のルイーズを知っていた。飼い主のカナと親友だという。
Nは覗き窓を見た。一人の女の子が立っている。カナとの違いは髪の長さだった。
ドアを開けると、三つ編みの少女は言った。
「突然、ごめんなさい」
少女は一枚のチケットを見せた。手書きで何か書いてある。
「これを渡しに来たの?」
「はい」
「でもタダでいいわけないよね。ちゃんと払うよ」
「大丈夫です」
「だってチケットなんだから。君たちの夢でもある」
少女は口を噤んだ。
「……まずいこと言ったかな? だってさ、これライブのチケットでしょ? 間違ってないよね?」
Nは目を疑った。
少女の顔が腐り始めている。黄土色に変色し、瞳孔は見開いていた。
Nは洗面所からコップの水を持ち、腐った少女にかけた。呻き声が部屋中に響いた。顔中が腫れ、目玉が今にも飛び出そうとしている。首筋に大きな亀裂が入っていた。服が溶けている。乳房は老婆のようだ。干し葡萄を辛うじて装着した程度で、とても十代のものではなかった。
黒い汁が壁から流れ落ちている。部屋中を覆うように流れ、Nの頭上にも迫った。粘液だった。
Nは少女の腕をつかみ、背中へと体重をかけた。
両腕は千切れ、黒い血が飛散した。少女は唖然としている。
「ライブ、広場であるって聞いたよ」
「……ごめんなさい。ほんとは……」
黒髪が剥げ落ちていた。少女か、化け物か、何かわからない生き物だ。
Nは化け物を静かにベッドへ寝かせた。涙がこぼれている。
「どうしてこの部屋を訪ねたの? 怒らないから、言ってごらんよ」
化け物は口を開いた。
「ここに地下室があると聞きました。だから訪ねたんです」
「あそこは女の子一人じゃ危ないよ」
「でもどこかに身を潜めなきゃと思って」
「真っ暗だからさ。僕も入ったことあるけど」
見た目はいくつかわからない怪物で、鬼の棍棒で散々体を打ったみたいに傷だらけだった。
Nはバスタオルで化け物を拭いた。その瞬間、化け物はいなくなった。
あれほど薄汚れたベッドシーツも真っ白に戻っている。壁の汚れも跡形もなく消えている。
Nは洗面所の鏡を見た。ついさっき頬に浴びた少女の血が消えていた。
ふと背中の扉に目が留まった。
一匹の蜘蛛が、走り去っていくのが見えた。
宿に着いたばかりの頃、Nは地下室に降りたことがある。
ライトを片手に階段を下りているにもかかわらず、一向に仕事場が見えない。ネズミさえも息を潜めているのか、自分の足音以外は聞こえてこなかった。自分の部屋は、もしかしてこの上だろうか。階段の先が暗闇に吸い込まれていた。どこまでも光が届かず、真っ暗だった。きっとこの上がフロントだろう。
期待を裏切らず、明かりが消えた。「すぐに電池が切れるから気を付けな」と聞いている。Nは電灯を左腋に挟み、右のポケットからマッチを取り出した。ホテル〈グールド〉と書いてある。階段の手摺が炎の下に浮かんだ。ひどく錆びていた。
火がそろそろ尽きようとしていた。足元は暗闇に包まれていく。
冷たい階段の上で、わずかな火の点が音もなく煙を上げた。
古い扉があった。ドアノブに手を掛けると、軋む音がした。Nはもう一本の火を起こした。炎が本棚を照らした。暗がりでも〈世界文学全集〉と読める。その他、昆虫図鑑や鳥図鑑、大学ノートが隙間なく並んでいた。
埃をかぶってどれくらい経つのか、Nは考えた。
ふと図鑑に挟んだ紙に目が留まった。破損した部分をテープでつなぎ留めてある。
Nは左手に火を移し、右の手を伸ばした。紙を指先で広げてみる。どの方角に位置しているのか、目を凝らしても判別はできなかった。地図には小さな島と、自慢のハサミを掲げたロブスターの絵が載っていた。
「箱なんてありませんでしたよ。無駄足でした」
フロントの男は笑った。
「悪い。もう片付けてた。冷凍の空箱だったんだけど」
「食肉、と聞きましたが」
「もう村人に渡ってるよ。今年は豊作でね」
「地図のことですが」
「地下にあったやつね」
「ええ。随分埃かぶってましたけど」
「村の誰かなら知ってるかもしれないね。うちの親父と知り合いとかさ。この前のライブから随分経つけど、誰か知ってる人もいたと思うよ」
「……ライブ」
「そう。知らなかった? 村一番のフェス。去年の六月にあったんだよ。あんたが来る前にさ」
Nは部屋を出た。
遠い地からやってきたNにとって、暗闇は勲章だった。一度もあの扉を訪れてはいなかった。ログハウスのもなこ。黒猫を抱いたカナ。そして、たった今消えた麟という名の少女。三人こそが〈あんせるめ〉だ。
そういえば、活動の様子がないままだった。麟の台詞をNは思い起こした。広場で、ライブがある。それも過去のように聞こえる。
宿を出た。村の様子に大きな変化はなかった。陽が落ちると大抵の旅人は宿の場所を求めてさまよう。途中、住民とすれ違えば、道を尋ねることも珍しくない。寂れたバス停が一つ。そこから、通りを一人歩くことになる。
「蜘蛛ね。お兄さんも見るようになったかい」
老人は言った。
「しかし、あれは本当に化けているんでしょうか。こうしてお話しても伝わらなくて」
「その子、何か言ってなかったの。助けてとか」
「全然。至って普通でしたが」
「なるほどね。言い伝えにも、正解はないからね。どこかに本でもあればいいけど」
「やはり蜘蛛に化けているんでしょうか。女の子がいなくなったんです」
「待った。お兄さん、蜘蛛について知りたいならうちに寄ってごらん。もしかして、その子を救える手立てがあるかもよ。すぐそこだけど」
Nは老人に続いた。
「昔ね、子供をさらう鬼がいるって噂があったんだよ。村の子供、皆八つ裂きにしてね」
「僕が宿で見た女の子も……」
「そうかもしれないね。でも鬼より怖いのが蜘蛛なんだ。法事があれば必ず話題にはなったね」
「子供たちは恐れているんですね」
「都会に出て、それっきりだよ。向こうで蜘蛛一匹、平気な顔して潰す子もいる」
「……麟ちゃんは、そう思えませんが」
老人は微笑んで蔵の戸を開けた。ガラガラと、大きな音がした。蔵は母屋と隣接しており、中はひんやりしていた。石造りのため、外の陽気を遮断していた。窓は陽の光で白く染まっている。
「ここも古くてね。お兄さんから見て珍しいでしょう。農具を入れるところなんだよ、一応ね」
Nはしばらく壁を見渡した。いつかの落書きがそのままだった。仮面ライダーらしきお面が鉛筆で描いてある。
「これを」
老人は木箱から一枚の掛け軸を広げた。八本の黒い脚が飛び込んでくる。朱色の目が光るようだった。
「立派でしょう」
「……素晴らしい」
「お兄さんで二人目だよ。前に一度、同じように訪ねた男がいて」
「調査団の方ですか」
「いや、クライバーとは関係ない。もっとおっかない連中だよ。名前、〈びく〉と聞いたけど」
「その方について知りたいです。蜘蛛を追っていたとか」
「間違いないと思うよ。うちの村に訪れては、子供とキャッチボールしてたね。ギャングとは思えなかったけど」
Nは口を噤んだ。蜘蛛の絵を食い入るように見る。老人は朱色の目を指差した。
「きっと親の命令だろうね。しかし、子を守るのは蜘蛛だって一緒だよ」
老人は絵を畳んだ。
「お兄さんのような旅人も減ったよ、随分とね」
「……〈びく〉という男は」
「さあね。森に消えたきり。もう十年も前かな」
Nは蔵を出た。
「宿に戻ります。ありがとうございました」
老人は天を指差した。澄んだ空だった。Nが見上げると、微かな糸が頬に触れた。粉雪よりも軽く、すぐに風の向こうへと消えた。