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第14話

「シャベル!」

 広場で見た男性だった。

「ご無沙汰しております」

「あんたは」

「広場でお会いしましたよね。探してたんですよ」

 Nはシャベルを男に渡した。

「これをお返ししようとそこら中歩きまわっていたんです。キジトラの猫がですね、このバーまで案内してくれたんですよ。猫ってなぜか勘がいいんですよね」

「こいつはね、ここで飼ってるの。また太ったみたいだけどさ」

 デブ猫はバーのカウンターへ移動していた。特等席なのか、目を閉じている。

「お兄さん、俺たち馴染みの連中ばかりだから、ゆっくりしていきな。こいつはもう寝てるけど」

 猫は大きなお腹ゆえに、呼吸の度に丸くなるようだった。どうやら旅人を見ては連れてくる癖があるのだ。

 何人かの客がNと男のやり取りを聞いている。内装は二十年代を意識したのか、モノクロ写真が丁寧に額の中に納まっている。目を凝らすと、つい昨日の時代ではないとわかった。飛行機が市場へ出回ってそれほど経っていない頃、まだチャールズ・リンドバーグが海へ飛び立つ前のある日、街のどこかで、誰かが写した写真だ。

「一枚、どう?」

 男は皿を差し出した。

 焼きたてのピザがある。たった今、奥の窯から取り出したばかりのようだった。

「ありがとうございます」

 と、Nは一ピース手に取った。チーズが溶けて湯気が上がっている。厚切りのサラミに黒胡椒を塗した一枚だ。

 ピザは口を開けたような形になっている。

「マスター直伝でね。このピザ変わんねえの。今日は弟だけど」

「シャベル借りたままでした。僕も誰と話してるかわかっていなかったんです。月明りでよく見えてたはずなんですが」

「地面、硬くなかった? 俺はへとへとで早いとこ切り上げたんだけど」

「ああいう作業には慣れているんです。昼間だったら嫌ですが」

 男は残りのピザを頬張った。

「ジンジャーエールください」

 Nは言った。



「穴掘りは珍しい光景じゃないんです。うちはそのおかげで繁盛しています」

 その昔、広場で発掘作業をした男がいるらしい。男は王妃が眠る墓地を探し当てようとしていた。来る日も来る日も同じ広場で掘削を続けた。日が重なるに連れ数が増えたという。

「それがクライバー調査団の前身ってわけ。王妃なんかいねえよ、たぶん」

「初期メンバーの方々は元気なんですか?」

「確かこの村にいるよ」

「元団長だけですよ。あとは村から離れてます」

 バーテンダーが言った。

「僕が参加した時、王妃の話はでませんでした。皆さん、それぞれ像の前でせっせと穴を掘っていましたが」

「実はあの像を作った一家、長い間帰ってきていないんです。どこかにいるとは思いますが」

「墓の調査を依頼したままとか」

「素晴らしい才能ですけどね。本人が一切出てこない。でも覚えているんです。ここを発つ前に、ちょうどあなたが座っている席で」

「……ここで?」

「ええ。ドリンクは水でしたが」

「悩みでもあったんじゃねえの? 俺の知ったこっちゃねえけどよ」

 Nはグラスの中を見つめた。気泡が浮いて音を立てている。

「一つ言えるのは、調査団は依頼を受けて作業をしていることです。それが像の作者かどうかわかりませんが」

「ま、人の秘密ってのはそっとしといた方がいいんだろ。素っ裸の女が広場で泣いても助けやしねえわけだから。みんな地面に夢中なんだよ」

「兄なら、もっと知ってるかもしれませんけど」

「豹が?」

「ええ。昔話を聞くのが商売ですから。団員たちとも会っていると思いますよ」

「あの、あっちの家で見た絵についてなんですが」

「葡萄の」

「宿にも掛かっていたんですよ。この地域では流行っているんでしょうか」

「それも兄なら知っていると思います。たくさんの人がいますから」  

 翌朝、葡萄の絵について村人に聞くと、同じ顔が返ってきた。

「昔はもっと飾ってあったのにね」

 Nは別の村人に聞き出すと、今度は意外な答えが出た。

「お兄さんはどこから? 山の者じゃないみたいだね」

「連絡がないままなんです。まさか春を迎えるなんて」

「調査団も始めて見たんだね。それなら絵に目が留まるのも必然ってわけだ」

「シャベルを返したばかりですが」

「葡萄の絵があるうちは大丈夫なんだ。果実ってのは新鮮なままがいい。団員たちも元気な証拠だよ」

 ログハウスで開いた自分の日記には、〈葡萄酒の香りがする。たぶん〉と綴っている。

 つい二か月ほど前、確かに宿で記した文だ。

「葡萄の絵、そんなに気になるかい?」

 宿のフロントは言った。

「確かにうちにもあるけど」

「果実が集まっていますね」

「そう。もうすぐ美味しい肉が入るからね。お口直しみたいなもんかな」

「しかし、調査団と無関係ではないでしょう」

「……わかんないよ。俺は肉がありゃいいの」

 Nは部屋に戻った。改めて壁の絵を眺めた。サインはない。ログハウスの家と全く同じだ。紫の色鉛筆で描いてある。芳醇な果実がこぼれるようだった。

 バーテンの話によると、村から出た調査団メンバーが複数いる。きっとその人たちの家にもあるのかもしれない。さらに目を凝らす。やはりサインらしき名はどこにもなかった。 

 窓から子供たちの声が飛び込んできた。学校に向かう時刻だった。小さな村のため、生徒数は少ない。それでも二、三人のグループが道を歩いていった。

 Nは窓を開けた。女の子の歌声が聞こえた。『カントリーロード』を歌いながら、宿の前の通りを過ぎてゆく。窓の向こう、村全体を囲む山が白い。ここを訪れた日から、積雪は減っている。しかし、未だ山頂に白粉を残したままだった。


 ドアを叩く音が聞こえた。

「今から広場であんせるめのライブがあるんです。来てください」

 耳を疑う声だった。

「告知、ありがとう。ルイーズなら、おうちへ帰ったよ」

 ドアノブに手をかけた瞬間、Nは黒猫を抱いた女の子を描いた。

 このドアの向こうにいる。

「ブルックスの調子はどう? ルイーズに手を焼いていると思うけど」

「私、麟ですよ」

「……お友達?」

「ええ。カナの親友です」

「待った。どうして僕の部屋を?」

 麟と名乗ったその少女は、確かに廊下にいた。黒猫のルイーズを知っていた。飼い主のカナと親友だという。

 Nは覗き窓を見た。一人の女の子が立っている。カナとの違いは髪の長さだった。

 ドアを開けると、三つ編みの少女は言った。

「突然、ごめんなさい」

 少女は一枚のチケットを見せた。手書きで何か書いてある。

「これを渡しに来たの?」

「はい」

「でもタダでいいわけないよね。ちゃんと払うよ」

「大丈夫です」

「だってチケットなんだから。君たちの夢でもある」

 少女は口を噤んだ。

「……まずいこと言ったかな? だってさ、これライブのチケットでしょ? 間違ってないよね?」

 Nは目を疑った。

 少女の顔が腐り始めている。黄土色に変色し、瞳孔は見開いていた。

 Nは洗面所からコップの水を持ち、腐った少女にかけた。呻き声が部屋中に響いた。顔中が腫れ、目玉が今にも飛び出そうとしている。首筋に大きな亀裂が入っていた。服が溶けている。乳房は老婆のようだ。干し葡萄を辛うじて装着した程度で、とても十代のものではなかった。

 黒い汁が壁から流れ落ちている。部屋中を覆うように流れ、Nの頭上にも迫った。粘液だった。

 Nは少女の腕をつかみ、背中へと体重をかけた。

 両腕は千切れ、黒い血が飛散した。少女は唖然としている。 

「ライブ、広場であるって聞いたよ」

「……ごめんなさい。ほんとは……」

 黒髪が剥げ落ちていた。少女か、化け物か、何かわからない生き物だ。

 Nは化け物を静かにベッドへ寝かせた。涙がこぼれている。

「どうしてこの部屋を訪ねたの? 怒らないから、言ってごらんよ」

 化け物は口を開いた。

「ここに地下室があると聞きました。だから訪ねたんです」

「あそこは女の子一人じゃ危ないよ」

「でもどこかに身を潜めなきゃと思って」

「真っ暗だからさ。僕も入ったことあるけど」

 見た目はいくつかわからない怪物で、鬼の棍棒で散々体を打ったみたいに傷だらけだった。

 Nはバスタオルで化け物を拭いた。その瞬間、化け物はいなくなった。

 あれほど薄汚れたベッドシーツも真っ白に戻っている。壁の汚れも跡形もなく消えている。

 Nは洗面所の鏡を見た。ついさっき頬に浴びた少女の血が消えていた。

 ふと背中の扉に目が留まった。

 一匹の蜘蛛が、走り去っていくのが見えた。



 宿に着いたばかりの頃、Nは地下室に降りたことがある。

 ライトを片手に階段を下りているにもかかわらず、一向に仕事場が見えない。ネズミさえも息を潜めているのか、自分の足音以外は聞こえてこなかった。自分の部屋は、もしかしてこの上だろうか。階段の先が暗闇に吸い込まれていた。どこまでも光が届かず、真っ暗だった。きっとこの上がフロントだろう。

 期待を裏切らず、明かりが消えた。「すぐに電池が切れるから気を付けな」と聞いている。Nは電灯を左腋に挟み、右のポケットからマッチを取り出した。ホテル〈グールド〉と書いてある。階段の手摺が炎の下に浮かんだ。ひどく錆びていた。

 火がそろそろ尽きようとしていた。足元は暗闇に包まれていく。

 冷たい階段の上で、わずかな火の点が音もなく煙を上げた。

 古い扉があった。ドアノブに手を掛けると、軋む音がした。Nはもう一本の火を起こした。炎が本棚を照らした。暗がりでも〈世界文学全集〉と読める。その他、昆虫図鑑や鳥図鑑、大学ノートが隙間なく並んでいた。

 埃をかぶってどれくらい経つのか、Nは考えた。

 ふと図鑑に挟んだ紙に目が留まった。破損した部分をテープでつなぎ留めてある。

 Nは左手に火を移し、右の手を伸ばした。紙を指先で広げてみる。どの方角に位置しているのか、目を凝らしても判別はできなかった。地図には小さな島と、自慢のハサミを掲げたロブスターの絵が載っていた。

「箱なんてありませんでしたよ。無駄足でした」

 フロントの男は笑った。

「悪い。もう片付けてた。冷凍の空箱だったんだけど」

「食肉、と聞きましたが」

「もう村人に渡ってるよ。今年は豊作でね」

「地図のことですが」

「地下にあったやつね」

「ええ。随分埃かぶってましたけど」

「村の誰かなら知ってるかもしれないね。うちの親父と知り合いとかさ。この前のライブから随分経つけど、誰か知ってる人もいたと思うよ」

「……ライブ」

「そう。知らなかった? 村一番のフェス。去年の六月にあったんだよ。あんたが来る前にさ」

 Nは部屋を出た。

 遠い地からやってきたNにとって、暗闇は勲章だった。一度もあの扉を訪れてはいなかった。ログハウスのもなこ。黒猫を抱いたカナ。そして、たった今消えた麟という名の少女。三人こそが〈あんせるめ〉だ。

 そういえば、活動の様子がないままだった。麟の台詞をNは思い起こした。広場で、ライブがある。それも過去のように聞こえる。


 宿を出た。村の様子に大きな変化はなかった。陽が落ちると大抵の旅人は宿の場所を求めてさまよう。途中、住民とすれ違えば、道を尋ねることも珍しくない。寂れたバス停が一つ。そこから、通りを一人歩くことになる。

「蜘蛛ね。お兄さんも見るようになったかい」

 老人は言った。 

「しかし、あれは本当に化けているんでしょうか。こうしてお話しても伝わらなくて」

「その子、何か言ってなかったの。助けてとか」

「全然。至って普通でしたが」

「なるほどね。言い伝えにも、正解はないからね。どこかに本でもあればいいけど」

「やはり蜘蛛に化けているんでしょうか。女の子がいなくなったんです」

「待った。お兄さん、蜘蛛について知りたいならうちに寄ってごらん。もしかして、その子を救える手立てがあるかもよ。すぐそこだけど」

 Nは老人に続いた。

「昔ね、子供をさらう鬼がいるって噂があったんだよ。村の子供、皆八つ裂きにしてね」

「僕が宿で見た女の子も……」

「そうかもしれないね。でも鬼より怖いのが蜘蛛なんだ。法事があれば必ず話題にはなったね」

「子供たちは恐れているんですね」

「都会に出て、それっきりだよ。向こうで蜘蛛一匹、平気な顔して潰す子もいる」

「……麟ちゃんは、そう思えませんが」

 老人は微笑んで蔵の戸を開けた。ガラガラと、大きな音がした。蔵は母屋と隣接しており、中はひんやりしていた。石造りのため、外の陽気を遮断していた。窓は陽の光で白く染まっている。

「ここも古くてね。お兄さんから見て珍しいでしょう。農具を入れるところなんだよ、一応ね」

 Nはしばらく壁を見渡した。いつかの落書きがそのままだった。仮面ライダーらしきお面が鉛筆で描いてある。

「これを」

 老人は木箱から一枚の掛け軸を広げた。八本の黒い脚が飛び込んでくる。朱色の目が光るようだった。 

「立派でしょう」

「……素晴らしい」

「お兄さんで二人目だよ。前に一度、同じように訪ねた男がいて」

「調査団の方ですか」

「いや、クライバーとは関係ない。もっとおっかない連中だよ。名前、〈びく〉と聞いたけど」

「その方について知りたいです。蜘蛛を追っていたとか」

「間違いないと思うよ。うちの村に訪れては、子供とキャッチボールしてたね。ギャングとは思えなかったけど」

 Nは口を噤んだ。蜘蛛の絵を食い入るように見る。老人は朱色の目を指差した。

「きっと親の命令だろうね。しかし、子を守るのは蜘蛛だって一緒だよ」

 老人は絵を畳んだ。

「お兄さんのような旅人も減ったよ、随分とね」

「……〈びく〉という男は」

「さあね。森に消えたきり。もう十年も前かな」

 Nは蔵を出た。

「宿に戻ります。ありがとうございました」

 老人は天を指差した。澄んだ空だった。Nが見上げると、微かな糸が頬に触れた。粉雪よりも軽く、すぐに風の向こうへと消えた。

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