村に降りたその時から、Nは異変に気付いた。
鼻を撫でるような匂いだった。風はなく、雲が垂れ下がっていた。木造の小さな待合場所には、傘とスコップが一本ずつ立ててある。寂しい時刻表の前に道が伸びていた。
住宅の戸は閉まって誰一人姿を見せる様子がない。水たまりが鉛色の空を映している。宿の灯が赤く水面に燃えていた。
「うちに泊まるなんて聞いてねえな。予約がねえんだよ」
男は怪訝そうな顔を浮かべた。Nは宿を去った。看板には〈ベストファーザー〉と書いてある。ついさっき降りたバスの轍が村の奥まで続いていた。匂いは雪のせいらしい。
しばらく歩くと、別の宿が見えた。
「お疲れでしょう」
女性スタッフが言った。Nは返事もせずベッドにマフラーと帽子を放り投げた。ポケットに手を突っ込み、「灰皿ください」と言った。
「申し訳ございません。少々お待ちいただけますか」
女性は慌てる様子もなくドアの向こうに姿を消した。
茶色の壁は幾つもの正方形で統一している。浴槽のタイルのようだ。ベッド脇の壁には二本のランプが備えつけてあった。ランプのすぐ下には一枚の絵が飾ってある。葡萄の絵だった。色鉛筆で鮮やかに描かれている。ちょうど枕から見上げた位置にその絵はあった。
天井の照明はどぎついほどの光を放っていた。電球にカラメルでもまぶしたようだ。
「空色が怪しくて……本当に足元が悪い中、お客様には御面倒お掛け致します」
煙草を吸いながらNは言った。
「いえ、構いませんよ。僕はマッチがあればいいです」
女性が持って入った灰皿にマッチのカスを入れた。プラスチックの安物だ。特に目立った飾りはない。
「外へ出かけて煙草でも買おうと思っているんです。この辺りは初めてでして、土地勘などないものですから」
「フロントなら煙草屋を知っていますよ。お伝えしましょうか」
「大丈夫です。散歩は好きですし」
Nがそう答えると、女性は微笑んで部屋の向こうへ消えた。
腕時計は六時を回っていた。部屋中に煙が立ち込めて、あっという間に秒針が見えなくなった。
「すみませんが、煙草がほしいのです」
「それでしたらここから歩いて二キロほどのところに、小さな煙草屋があります。そこが一番近いですかね。よかったらフロントでご案内致します。ここから歩いて、二キロです」
「ありがとうございます」
Nは受話器を置いた。フロントの男は先ほど会っている。にこりともせず立っていた。Nは名前の代わりに〈こんな山奥になんで来た〉と書こうとした。
煙草を吸い終えると、Nはベッドに置いたマフラーを巻いて外へ向かった。夜が降りていた。雲の隙間に星々がきらめいている。古くからのガス燈が暗い道を照らしている。知らない村だ、とNは思った。
視線の先に店長らしき男がいた。遥かに年長だった。宿の女性を除けば、ほぼすべての住民が年上のようだ。
「煙草、ください。ゴールデンバットひとつ」
主人は怪訝そうな顔をしていた。熊の死体でも見たような目だった。
「あんた、もしかして幽霊じゃねえだろうな。見かけねえ顔だしさ。だいたい、こんな山奥に何の用? 仕事? それとも俺たちを騙しに都会から来たのかい? 言っとくけど、俺たち昔から人を疑うように叩き込まれてる。疑って悪いこたねえしさ。だからこれ買ったらさっさと帰ってくれ。これ以上、突っ立ってもらっちゃ困るんだよ」
主人は溜息をついた。罰が悪そうな顔をしている。
「俺な、こういう時な、ほんとはもっと普通に接して、お客さんを和ませてみたいって思うんだ。悪かった。いつもこんな調子でさ。やっぱ弟も呆れてるもんな」
男の声は穏やかだった。
「弟さんは近くにいますか」
「近くのホテルで働いてるよ。あいつも俺と負けず劣らず口悪いよ。ほんと、兄弟そろって接客は向かねえよな。弟なんかあいつ、お客に帰れって普通に言っちゃうんだよ。ありえないだろ? まるで素人はこんな山奥来るなって言ってるようなもんだよな。俺も反省しないとな。ただでさえ若い連中がいなくなったってのに。今は俺たち年寄りが、やかましくなってるかもしれねえ……あんたが煙ほしくなる理由、わかる気がするよ」
Nは煙草屋を後にした。誰も行き交う人がいないまま、村の集落が徐々に見えてくる。暗闇でも真っ白な雪が確認できた。雪深い山の中は久しぶりのような気がした。おそらく中学時代のスキー遠足以来だった。
宿に戻ると、フロントの男が眠そうな目をこすっていた。
「おかげさまで煙草が買えました」
「……旦那、何か言ってました?」
「いえ、別に。何もないとか、幽霊じゃねえだろうなとか」
「あの人、昔は愛想よかったんだけどね。息子さん、娘さんに出ていかれてさ、急に老けちまって。これ偏見だけど、男って年取ると口だけはうるさくなるね。そう思わない? せめてニコニコでもしてりゃ、煙草屋のいい親父にでもなれただろうに。やっぱりここも観光で食ってるからね。人目を気にしないなんてできっこないよ」
「気にしてません。バットが吸えるので。それに私が来ることを知っていたはずです。目が警戒していました」
「……電話で伝えたんだ。若い男が一人、来るってさ」
「この人口の少ない村では連携してますよね。ここと煙草屋も」
「勘がいいね、あんた。ずっとここに滞在するのかい?」
「……仕事次第です」
フロントは笑った。客を欺く奇術師そっくりだった。
「それならいいバイトがある。ほら、これ持って」
赤色のライトが光っている。地下に何かがある、とNは思った。