美沙の口から「疲れた」の一言を聞いたことがなかった。
部屋に灰皿を運んだ女性スタッフである。ホテルは依然として新たに雇う気配もなく、春になっても一人黙々と掃除をしていた。
〈住み込み、従業員募集。まかない付き。女性限定。美人歓迎☆〉
この新聞広告を最後にスタッフの数は増えていないようだ。
雪深い山のホテルに、遥々足を運ぶ者は少ない。〈女性限定〉が余計だった。
「オーナーの向井が出したんですよ。今どき信じられない謳い文句をね」
「それでこちらへ」
「ええ。もう三年くらい」
「僕は二月に訪れていますけど、とにかくこの村はいろんな人がいますね。びっくりするくらい」
「調査団とは接したんですね」
「はい。隣村まで誘われて」
ログハウスでの会話。父親はガレージでタイヤを替えていた。その娘は不機嫌だった。
「部屋で休憩したんです。夜明けまで穴を掘りましたので。中学生女子から見て、めんどくさかったと思いますよ。泥だらけの男が急に上がり込むんですから」
「確かアイドルの子がいるって聞いたことあります」
「僕が上がった頃には、村を出たかったんでしょうね。都会でめいっぱい笑いたかったんじゃないですか。いや、この村が陰気とかそういうことではなくて」
「陰気です」
美沙は窓に寄った。陽の光で顔が白くなった。
「音楽か、本がなければ死んでいますよ。十代なら、なおさらそう感じてるはず。大人が塔を嫌ってるから、顔を上げようとしない。子供たちは逆に塔の向こうへ行きたいと思ってる。町があるんです」
Nは美沙と同じ窓を見た。山には薄っすらと雪が残っていた。突き刺さるように一本の塔がある。
「あそこ、白い建物、見えますか」
「……塔の横」
「そうです。よくスキー客も眺めてはいたんです。目立ちますからね」
「シェルターみたいですね。避難所とか」
「子供がいます。数百人」
Nは口を閉ざした。
バスを降りた時、気付かなかったのだ。山あいに建造物があるなど、全く気付かずにいた。カプセルのような小さな建物だった。
「雪と同化したんでしょう。春になって姿を現したみたいです」
「遠目だとわかりませんよね。ここからは何とか確認できるくらいですし」
美沙は棚から封筒を取り出した。
「これを」
封を開くと、数枚の写真が出た。スキー客だ。
「みんなシェルターで育ったんです。十五まで」
美沙は写真の子供を差した。
「見てください。この子、茶色の毛の子」
十歳くらいの少年だった。集合写真。一人だけ笑っていない。
「あるバンドのファンで、手紙を書くと言っていました。一応、鉛筆とノートは支給するみたいです。自由時間があるみたいで」
「待ってください。まるで少年院じゃないですか」
「あそこは外界と隔てているわけじゃないんです。私も参加したくらいですし」
「なぜ山の中に。都会から連れて来たんでしょうか」
「村の子供も含まれています。忠君も、この村の子です。義父から逃れたとだけ聞いています。普通、入所理由は隠すものですけど」
「あなたを慕っているんですよ。この年頃の子はそうです。バンドのファンであることも照れ臭かったんでしょう」
「実はそのバンド、解散しているんですよ。広場でのフェスを最後に」
夜更けにNは広場に出かけた。広場では唸るような動物の鳴き声が聞こえた。夜風に乗って、豚か得体のしれない獣の声が絶えず響き渡っている。
穴を覗くと、〈立入禁止〉と走り書きした白い紙が一枚あった。
別の穴には〈見つからず〉と丁寧な字で書いた紙もある。紙が震えていた。その動物らしき声のせいらしい。誰かが来る気配はなかった。蛾の採集に夢中な人、シャベルを貸した人。あの夜、ここで懸命に掘り続けた男たちの影がどこにもなかった。
穴の数は増えている。盛った土の山は当時のまま残っている。不気味な鳴き声のみ、大地を揺らしていた。
「見つからず」
Nは紙を手に言った。
女性は地面の穴を器用に避け、像の下へ寄った。
梟の世話だろうか、とNは思った。自分より背が高い。ジーンズが夜でも青く見える。黒髪である。
「あの……」
女性は振り返った。
「ここにはよく来ますか。僕は調査団について調べているんです。別にあなたを観察するとか、梟と美女の関係について論文を書くとか、真夜中に愛の詩を綴ろうとか、そういう狙いはありません」
微笑んで女性は言った。
「去年のフェス以来です。歌っていました」
「……バンドの」
「はい。解散しましたが」
「一番前があなた。後ろはリズム隊」
「正解。でもこれ以上は言いたくないな」
女性は像の周りを歩いた。人魚が台の上で横たわっている。髪をかき上げ、朝日を浴びるように設置してある。村の老人たちには不評らしい。
「ダビデ像のパンツ。ご存知ですか」
「知らないです。あの人、履いてませんよね」
「これも上着を着なさいってメッセージなのかも」
「私は好きですよ。綺麗な裸の女性。この立派な尾ひれもね」
「向こうの門の作者と同じって聞きました。とあるバーで」
「〈ふらんそわ〉ですか」
「はい。ピザを食べて、ここの調査団についても詳しく聞いたばかりなんです。実はホテルでおかしなことありまして」
「他に客、いませんでしたか。あのバーで」
「バナナシェイクの親父がいました」
「何か言っていました? 李子って名前の女について」
「いや、別に。調査団についてだけ聞いていますが」
「ここにいた人たちね」
「村中にいるとか」
「バーテン、私の元マネなんです」
「なるほど。でもバンド関係者には見えませんでしたけど」
「弟さんですよ。豹とは別人の」
女性は像に上り始めた。大きな乳房をつかむと、一気に肩の上まで昇りつめた。
まるで人魚狩りだ、とNは目を丸くした。
「私がボーカルの李子です」
図ったように雲が流れ、月が出た。人魚は目を閉じている。
「僕がこの村に来て、最初に驚いたことがあります。大勢の人が愚痴一つこぼさず作業しているんです。皆さん、明るい顔していました。遺跡発掘にしては荒っぽいですが」
「王妃の墓なら、国も動いてると思うんです。好きで掘ってるわけなので」
「村の大人、ほとんどじゃないですか。団長だけ村にいるとか」
「私も詳しくないんですよ。きっとあなたのこと、気に入ったんじゃないですか」
「なんでも知ってると聞きました」
「豹の思惑ですよ、それ。ほんとはバンド解散について聞かれたくないはず」
「……少しわかる気が」
「でも彼、いつか広場で仲間が集うこと、期待してると思うんです。歌い手のわがままみたいだけど。女だからって言い訳、したくなかったんです。リズム隊は男子なので」
「男子」
「はい。クラスメイトみたいな」
「素晴らしい」
「それがさ、ちょっと愚痴っていいかしら」
李子は穴を覗いた。
「どうして蕎麦打ってるの? ねえ、隆五」
Nは押し黙った。
「あなた、結局は辰に付いてるじゃない。男二人で、生きてるじゃない」
李子は穴へ飛び込んだ。
「今から蕎麦、食べに行ってあげる。いい? まずかったらこの穴に入ってもらうからね。聞こえてるの、出会ったばかりの旅人と一緒に、行ってあげるから」
李子はその場でしゃがみこんだ。
「別に広場が壊されたなんて思ってないです。歌い手なら、どこだって歌うべきだと思うし」
李子はもう一度人魚の前に立った。
「あれ」
指を差す方向にNは顔を向けた。塔が、白いカプセルが、山の中にある。
明るい照明が射し込んでいた。そのため暗闇に屋根の色が異様に映えている。美沙によると子供が数百人。十五まで。写真の子供たちに笑顔はなかった。
「見えますか。塔のある場所」
「ホテルでも話題にはなっています。僕とスタッフの女性だけですが」
「ここも観光地だったんです。塔を見上げる子供たち、私も見たことありますから」
「村の子供、減っているわけでしょう。僕がバイトに誘われるくらいですし。今のうちに働き手を確保しよう、ってことじゃないですか。おかげで地図が」
「……地図」
「宿の地下室にあったんです」
「見せてもらっていいですか」
「黒猫の飼い主に渡したばかりで」
李子はしゃがみこんで地面に何かを描き始めた。人差し指で〈門、開かず〉と書いてある。
「父が昔、地図について話していました。でも一度聞いただけなので……私、画才には恵まれてないんですよ」
「そうですね。こんな暗い海、初めて見ました」
李子は立ち上がると、速足でNの前を過ぎた。
暖簾〈隆五〉を潜ると声が掛かった。
「シャベルのお兄さん?」
女性は言った。
「無事返しましたよ。向こうのバーで」
「〈ふらんそわ〉ね」
「はい。デブ猫のおかげで」
Nの視界に李子の背が入った。
「あそこの席がいいです」
Nは李子がいる席に向かった。
「ご注文、お聞きしますよ」
席に着いた瞬間、Nの頭に広場の地図が過ぎた。子供が描いたような絵だった。気に障ったのか、李子は無言で蕎麦を食べている。
「天ぷら蕎麦、ください」
Nが言うと、女性スタッフは奥へ消えた。
李子の器に海老が一匹。山菜蕎麦にするべきだった、とNは思った。
「地図はカナという子に渡したんです」
「聞きました」
李子は箸を休めることなく、器の海老を割った。
「夜、歩いていると猫と出会って。飼い主の女の子が駆け寄って。地図を見せると、調査団の人が知ってるとかなんとか。カナちゃんがどんな返事くれるか知りませんが」
「何もないと思います」
「……どうして」
「カナは旅人に付き合っているだけですよ。アイドルらしく振舞うとか、その線」
「あんせるめは解散したんでしょうか」
「同じフェスには出たことありますよ。私の妹、麟と」
「あ」
「何か」
「いえ。あなたがお姉さん」
「蕎麦、食べさせてもらえます? 隆五の蕎麦なので」
「……リズム隊の」
「ええ。隆五も彼女たちを応援していたんです。村から可愛い子が三人、出るわけでしょう。その結果、フェスでお披露目しただけ」
「あなたは妹さん、個人を応援していましたか。スカートとジーンズの違いなら明らかですけど」
李子はつゆを飲み干した。
「三人を応援していました。それだけです」
客層は常連らしき老夫婦、学生らしき若者、子供連れの家族で席を埋めていた。また新しい客が暖簾を潜る。店内は連日、ほぼ満員らしい。
お品書きは手製で、おそらく数年変わっていない。〈天ぷら〉〈山菜〉、離れて〈ビール〉とある。Nは李子と同じ天ぷら蕎麦を食べ始めた。
「カナちゃんが家で名前を呼んでいたんですよ」
「それも芝居ですよ。旅人を前にいい子なんですよ、きっと」
「僕は現役のアイドルに会えて肩入れしているのかもしれない。これも黒猫が運んだ縁だと思います。ルイーズ、またさまよってるかも」
李子は立ち上がった。客が驚いている。Nは店内の客、すべての視線を浴びた。
「皆さん、いつも隆五の店に来てくれてありがとう。ボーカルから御礼を」
客の箸が止まっている。五歳くらいの子供さえ李子を見て唖然としている。
女性店員は店の奥に消えた。
「私、隆五と同じバンド組んでいたんですよ。広場でのフェス、覚えていますか。麟が乱入した、あの日です」
Nは口を閉ざした。
「麟は先日、いなくなりました。もし見かけたら、声をかけてください。姉からのお願いです」
「隆五なら知ってんじゃねえか」
男の声だった。
「いや、李子ちゃん。あんたの気持ち、わかるんだよ。家族がいなくなる気持ち、俺たちも知ってるけど。みんな気を遣って黙ってたんだよ。お兄さん、李子の彼氏かい? ゆっくりしていきなよ」
Nは天ぷら蕎麦を打った本人と、ついに話すことはなかった。李子は通りを歩いている。ガス燈が照らす小さな道だった。
「あの」
李子が振り返った。
「麟ちゃんが乱入したフェス、もう少し詳しく知りたいんです」
「……マイクを奪っただけですよ、彼女。それじゃ」
李子は暗闇に消えた。
夜更けでも北のシェルターは白く見えた。隣に塔が伸びる。美沙が一度だけ足を延ばしたという。スキー遠足の引率らしい。
美沙を除く村人たちが未だ沈黙していることは奇妙だった。子供たちが百人。都会からの子も含まれている。それも信憑性がないままだった。
広場に戻ると、Nは人魚像を見上げた。
「こんにちは」
像の目が開きそうだった。
Nは穴だらけの地面を見た。埋め尽くした観客を描いた。そして李子のマイクを奪った少女と、宿で聞いた声を重ねた。
像の後ろ、生い茂る森からは葉っぱの音だけが聞こえる。