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Ⅵ クライバー調査団 後編

第16話

 美沙の口から「疲れた」の一言を聞いたことがなかった。

 部屋に灰皿を運んだ女性スタッフである。ホテルは依然として新たに雇う気配もなく、春になっても一人黙々と掃除をしていた。

〈住み込み、従業員募集。まかない付き。女性限定。美人歓迎☆〉

 この新聞広告を最後にスタッフの数は増えていないようだ。

 雪深い山のホテルに、遥々足を運ぶ者は少ない。〈女性限定〉が余計だった。


「オーナーの向井が出したんですよ。今どき信じられない謳い文句をね」

「それでこちらへ」

「ええ。もう三年くらい」

「僕は二月に訪れていますけど、とにかくこの村はいろんな人がいますね。びっくりするくらい」

「調査団とは接したんですね」

「はい。隣村まで誘われて」

 ログハウスでの会話。父親はガレージでタイヤを替えていた。その娘は不機嫌だった。

「部屋で休憩したんです。夜明けまで穴を掘りましたので。中学生女子から見て、めんどくさかったと思いますよ。泥だらけの男が急に上がり込むんですから」

「確かアイドルの子がいるって聞いたことあります」

「僕が上がった頃には、村を出たかったんでしょうね。都会でめいっぱい笑いたかったんじゃないですか。いや、この村が陰気とかそういうことではなくて」

「陰気です」

 美沙は窓に寄った。陽の光で顔が白くなった。

「音楽か、本がなければ死んでいますよ。十代なら、なおさらそう感じてるはず。大人が塔を嫌ってるから、顔を上げようとしない。子供たちは逆に塔の向こうへ行きたいと思ってる。町があるんです」

 Nは美沙と同じ窓を見た。山には薄っすらと雪が残っていた。突き刺さるように一本の塔がある。

「あそこ、白い建物、見えますか」

「……塔の横」

「そうです。よくスキー客も眺めてはいたんです。目立ちますからね」

「シェルターみたいですね。避難所とか」

「子供がいます。数百人」

 Nは口を閉ざした。

 バスを降りた時、気付かなかったのだ。山あいに建造物があるなど、全く気付かずにいた。カプセルのような小さな建物だった。 


「雪と同化したんでしょう。春になって姿を現したみたいです」

「遠目だとわかりませんよね。ここからは何とか確認できるくらいですし」

 美沙は棚から封筒を取り出した。

「これを」

 封を開くと、数枚の写真が出た。スキー客だ。

「みんなシェルターで育ったんです。十五まで」

 美沙は写真の子供を差した。

「見てください。この子、茶色の毛の子」

 十歳くらいの少年だった。集合写真。一人だけ笑っていない。

「あるバンドのファンで、手紙を書くと言っていました。一応、鉛筆とノートは支給するみたいです。自由時間があるみたいで」

「待ってください。まるで少年院じゃないですか」

「あそこは外界と隔てているわけじゃないんです。私も参加したくらいですし」

「なぜ山の中に。都会から連れて来たんでしょうか」

「村の子供も含まれています。忠君も、この村の子です。義父から逃れたとだけ聞いています。普通、入所理由は隠すものですけど」

「あなたを慕っているんですよ。この年頃の子はそうです。バンドのファンであることも照れ臭かったんでしょう」

「実はそのバンド、解散しているんですよ。広場でのフェスを最後に」


 夜更けにNは広場に出かけた。広場では唸るような動物の鳴き声が聞こえた。夜風に乗って、豚か得体のしれない獣の声が絶えず響き渡っている。

 穴を覗くと、〈立入禁止〉と走り書きした白い紙が一枚あった。

 別の穴には〈見つからず〉と丁寧な字で書いた紙もある。紙が震えていた。その動物らしき声のせいらしい。誰かが来る気配はなかった。蛾の採集に夢中な人、シャベルを貸した人。あの夜、ここで懸命に掘り続けた男たちの影がどこにもなかった。

 穴の数は増えている。盛った土の山は当時のまま残っている。不気味な鳴き声のみ、大地を揺らしていた。

「見つからず」

 Nは紙を手に言った。



 女性は地面の穴を器用に避け、像の下へ寄った。

 梟の世話だろうか、とNは思った。自分より背が高い。ジーンズが夜でも青く見える。黒髪である。

「あの……」

 女性は振り返った。

「ここにはよく来ますか。僕は調査団について調べているんです。別にあなたを観察するとか、梟と美女の関係について論文を書くとか、真夜中に愛の詩を綴ろうとか、そういう狙いはありません」

 微笑んで女性は言った。

「去年のフェス以来です。歌っていました」

「……バンドの」

「はい。解散しましたが」

「一番前があなた。後ろはリズム隊」

「正解。でもこれ以上は言いたくないな」

 女性は像の周りを歩いた。人魚が台の上で横たわっている。髪をかき上げ、朝日を浴びるように設置してある。村の老人たちには不評らしい。

「ダビデ像のパンツ。ご存知ですか」

「知らないです。あの人、履いてませんよね」

「これも上着を着なさいってメッセージなのかも」

「私は好きですよ。綺麗な裸の女性。この立派な尾ひれもね」

「向こうの門の作者と同じって聞きました。とあるバーで」

「〈ふらんそわ〉ですか」

「はい。ピザを食べて、ここの調査団についても詳しく聞いたばかりなんです。実はホテルでおかしなことありまして」

「他に客、いませんでしたか。あのバーで」

「バナナシェイクの親父がいました」

「何か言っていました? 李子って名前の女について」

「いや、別に。調査団についてだけ聞いていますが」

「ここにいた人たちね」

「村中にいるとか」

「バーテン、私の元マネなんです」

「なるほど。でもバンド関係者には見えませんでしたけど」

「弟さんですよ。豹とは別人の」

 女性は像に上り始めた。大きな乳房をつかむと、一気に肩の上まで昇りつめた。

 まるで人魚狩りだ、とNは目を丸くした。


「私がボーカルの李子です」 

 図ったように雲が流れ、月が出た。人魚は目を閉じている。

「僕がこの村に来て、最初に驚いたことがあります。大勢の人が愚痴一つこぼさず作業しているんです。皆さん、明るい顔していました。遺跡発掘にしては荒っぽいですが」

「王妃の墓なら、国も動いてると思うんです。好きで掘ってるわけなので」

「村の大人、ほとんどじゃないですか。団長だけ村にいるとか」

「私も詳しくないんですよ。きっとあなたのこと、気に入ったんじゃないですか」

「なんでも知ってると聞きました」

「豹の思惑ですよ、それ。ほんとはバンド解散について聞かれたくないはず」

「……少しわかる気が」

「でも彼、いつか広場で仲間が集うこと、期待してると思うんです。歌い手のわがままみたいだけど。女だからって言い訳、したくなかったんです。リズム隊は男子なので」

「男子」

「はい。クラスメイトみたいな」

「素晴らしい」

「それがさ、ちょっと愚痴っていいかしら」

 李子は穴を覗いた。

「どうして蕎麦打ってるの? ねえ、隆五」

 Nは押し黙った。

「あなた、結局は辰に付いてるじゃない。男二人で、生きてるじゃない」

 李子は穴へ飛び込んだ。

「今から蕎麦、食べに行ってあげる。いい? まずかったらこの穴に入ってもらうからね。聞こえてるの、出会ったばかりの旅人と一緒に、行ってあげるから」

 李子はその場でしゃがみこんだ。

「別に広場が壊されたなんて思ってないです。歌い手なら、どこだって歌うべきだと思うし」

 李子はもう一度人魚の前に立った。

「あれ」

 指を差す方向にNは顔を向けた。塔が、白いカプセルが、山の中にある。


 明るい照明が射し込んでいた。そのため暗闇に屋根の色が異様に映えている。美沙によると子供が数百人。十五まで。写真の子供たちに笑顔はなかった。

「見えますか。塔のある場所」

「ホテルでも話題にはなっています。僕とスタッフの女性だけですが」

「ここも観光地だったんです。塔を見上げる子供たち、私も見たことありますから」

「村の子供、減っているわけでしょう。僕がバイトに誘われるくらいですし。今のうちに働き手を確保しよう、ってことじゃないですか。おかげで地図が」

「……地図」

「宿の地下室にあったんです」

「見せてもらっていいですか」

「黒猫の飼い主に渡したばかりで」

 李子はしゃがみこんで地面に何かを描き始めた。人差し指で〈門、開かず〉と書いてある。

「父が昔、地図について話していました。でも一度聞いただけなので……私、画才には恵まれてないんですよ」

「そうですね。こんな暗い海、初めて見ました」

 李子は立ち上がると、速足でNの前を過ぎた。



 暖簾〈隆五〉を潜ると声が掛かった。

「シャベルのお兄さん?」

 女性は言った。

「無事返しましたよ。向こうのバーで」

「〈ふらんそわ〉ね」

「はい。デブ猫のおかげで」

 Nの視界に李子の背が入った。

「あそこの席がいいです」

 Nは李子がいる席に向かった。

「ご注文、お聞きしますよ」

 席に着いた瞬間、Nの頭に広場の地図が過ぎた。子供が描いたような絵だった。気に障ったのか、李子は無言で蕎麦を食べている。

「天ぷら蕎麦、ください」

 Nが言うと、女性スタッフは奥へ消えた。

 李子の器に海老が一匹。山菜蕎麦にするべきだった、とNは思った。

「地図はカナという子に渡したんです」

「聞きました」

 李子は箸を休めることなく、器の海老を割った。

「夜、歩いていると猫と出会って。飼い主の女の子が駆け寄って。地図を見せると、調査団の人が知ってるとかなんとか。カナちゃんがどんな返事くれるか知りませんが」

「何もないと思います」

「……どうして」

「カナは旅人に付き合っているだけですよ。アイドルらしく振舞うとか、その線」

「あんせるめは解散したんでしょうか」

「同じフェスには出たことありますよ。私の妹、麟と」

「あ」

「何か」

「いえ。あなたがお姉さん」

「蕎麦、食べさせてもらえます? 隆五の蕎麦なので」

「……リズム隊の」

「ええ。隆五も彼女たちを応援していたんです。村から可愛い子が三人、出るわけでしょう。その結果、フェスでお披露目しただけ」

「あなたは妹さん、個人を応援していましたか。スカートとジーンズの違いなら明らかですけど」

 李子はつゆを飲み干した。

「三人を応援していました。それだけです」

 客層は常連らしき老夫婦、学生らしき若者、子供連れの家族で席を埋めていた。また新しい客が暖簾を潜る。店内は連日、ほぼ満員らしい。


 お品書きは手製で、おそらく数年変わっていない。〈天ぷら〉〈山菜〉、離れて〈ビール〉とある。Nは李子と同じ天ぷら蕎麦を食べ始めた。

「カナちゃんが家で名前を呼んでいたんですよ」

「それも芝居ですよ。旅人を前にいい子なんですよ、きっと」

「僕は現役のアイドルに会えて肩入れしているのかもしれない。これも黒猫が運んだ縁だと思います。ルイーズ、またさまよってるかも」

 李子は立ち上がった。客が驚いている。Nは店内の客、すべての視線を浴びた。

「皆さん、いつも隆五の店に来てくれてありがとう。ボーカルから御礼を」

 客の箸が止まっている。五歳くらいの子供さえ李子を見て唖然としている。

 女性店員は店の奥に消えた。

「私、隆五と同じバンド組んでいたんですよ。広場でのフェス、覚えていますか。麟が乱入した、あの日です」

 Nは口を閉ざした。

「麟は先日、いなくなりました。もし見かけたら、声をかけてください。姉からのお願いです」

「隆五なら知ってんじゃねえか」

 男の声だった。

「いや、李子ちゃん。あんたの気持ち、わかるんだよ。家族がいなくなる気持ち、俺たちも知ってるけど。みんな気を遣って黙ってたんだよ。お兄さん、李子の彼氏かい? ゆっくりしていきなよ」

Nは天ぷら蕎麦を打った本人と、ついに話すことはなかった。李子は通りを歩いている。ガス燈が照らす小さな道だった。

「あの」

 李子が振り返った。

「麟ちゃんが乱入したフェス、もう少し詳しく知りたいんです」

「……マイクを奪っただけですよ、彼女。それじゃ」

 李子は暗闇に消えた。


 夜更けでも北のシェルターは白く見えた。隣に塔が伸びる。美沙が一度だけ足を延ばしたという。スキー遠足の引率らしい。

 美沙を除く村人たちが未だ沈黙していることは奇妙だった。子供たちが百人。都会からの子も含まれている。それも信憑性がないままだった。

 広場に戻ると、Nは人魚像を見上げた。

「こんにちは」

 像の目が開きそうだった。

 Nは穴だらけの地面を見た。埋め尽くした観客を描いた。そして李子のマイクを奪った少女と、宿で聞いた声を重ねた。

 像の後ろ、生い茂る森からは葉っぱの音だけが聞こえる。


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