美沙はもう一度子供たちの写真を差し出した。
晴れたスキー遠足の集合写真。束の間の笑顔。一人を除いて、太陽を浴びている。
「忠君が手紙を書いた話、しましたよね」
「この子について教えていただけますか。いつからシェルターに? 差し支えなければ他にもいろいろと」
「私も詳しくは聞いていません」
「わかっているんです。忠君の苦しみに触れることですし。ただ広場で好きなバンドのメンバーに出会えたこと、僕から本人に伝えたいと思うんです……それが慰めにはならないかもしれませんが」
「彼らはそれを拒んでいるんです。でも建物はゲストを受け入れている。大きな矛盾ですよ」
「どうしてですか。救い出そうと意思を持っても無駄ということですか」
「この日は幸い晴れていました。スキー日和でしたね」
「写真を見る限り楽しくなさそうです」
「忠君は私の腕をつかんでいました。初心者向けコースを滑るためです。別にスキーを苦手としているわけじゃない。私には、そう映りました」
「塔は見えましたよね。背中に、どんと」
「ええ。この日も塔の管轄なんです。私も引率者に名を連ねたらしくて。きっと女を一人、呼ぶ感覚なんでしょう。塔にとっては容易いことなので」
「僕がこれ以上聞けない感じになってませんか。いや、誤解です。わざわざ写真を持ち出すあたり、あなたは遠足について自ら話そうとしている。だから宿の常連客にも話題にしてもらいたい。もっと聞いていい、ということでしょうか。話が混み入ってきましたが」
「李子、どうして広場にいたかわかります? 偶然以外で」
「……梟から聞いたとか」
「いいえ。もっと実務的です」
「まさかあなたが」
「はい。広場へ向かう客、すべてバーに報告しているんです。それを豹が知る。あの店、なぜ賑わうか、これでお分かりでしょう。ヒトって、噂が大好きなんですよ。私もね」
「なるほど。穴の開いた広場で会うにしては出来過ぎでしたから」
「李子、ああ見えて人が好きなんです。元マネから連絡があれば現場に向かう」
「でも収穫には自信ありません。一緒に蕎麦を食べただけで。麟ちゃん探しのヒントもなく」
「それも収穫じゃないですか。この人は知らないと知る。クライバーについても」
「調査団の話題なら閑話ですよ。僕はこの少年とあなたの関係について聞きたいんです。雪山で年上の女性と出会う機会、少なくとも忠君にとっては貴重ですから。それに塔の役人とか、大人たちが常に目を光らせているわけでしょう。村から来た綺麗な女性に救済を求めるのは必然と言えます。話が長くなりますが、僕も笑顔のない子供を見て思うんです。無理に笑えなんて、口が裂けても言えません。写真の印象で言うには簡単ですけどね」
「ところで蕎麦、美味しかったでしょう。私もよくあの店行きますけど」
「隆五さんには会えなかったんです。蕎麦屋の奥、覗くわけにもいきませんし。男と何しに来たと言わんばかりに」
「隆五はそういう人じゃないですよ。辰さんも」
「待ってください。メンバーは何人いるんですか。この村にいるんでしょうか」
「李子を含めて三人。全員、この宿近くにいますよ」
「辰さんという人も」
「はい。大きな森の前に」
「その人、ログハウスで清掃してますか」
「最近、やめたみたいですよ」
「やっぱり。どうやらすれ違いだったみたいですね」
「基本照れ屋なんです。それで辰さんが余計に遠くなる」
「森の前、確か姉妹が描かれていると聞きました。人魚とは別に」
「作者は同じなんですよ。マルク、という名の」
初めて聞く名前だった。バーで耳にした設計士と同じだろう。Nは〈ふらんそわ〉で交わした夜の会話を思い出そうとした。王妃の墓を探しているらしい。
美沙は席を立った。写真が入っていた棚から、今度は手紙を出した。つい昨日届いたような手紙だった。
「美沙さん」
手紙を開く手にNは驚いた。
「どうして早くに教えてくれなかったんですか。手紙、届いているなんて」
「あなたが李子と蕎麦屋デートしたからです」
「ですが僕は広場の穴の行方について調べていたんですよ。これを依頼した人物って誰なのだろうと一人考えながら。無駄足じゃないですか」
「李子はその無駄足に付き合ったわけです。マルクはそんなあなたを待ってるはず」
Nは大きな溜息をついた。
電話が鳴った。フロントからだろう、とNは思った。
Nが美沙の部屋を訪れると、度々噂話が耳に入った。長期滞在の客、と名が知れ渡っているためか、フロントへの苦情も早かった。
「よかった」
美沙は言った。
「どうせ僕のことでしょう。女の部屋で何してるってクレームが来るわけで」
「いいえ」
美沙は椅子に着いた。
「地図のことでした。向井も知りたがっているみたい」
「あれ、段ボール整理のバイトのついでに探し当てたんですよ。正確に言うと、拾っただけです」
「今、お部屋に?」
「……黒猫の誘惑に負けて、女の子の手に」
「カナちゃんの猫ね」
「はい。李子さんにも伝えています。蕎麦屋で、どこか冷めた口調で僕の話を聞いて」
「李子は何か言っていましたか。確か彼女のお父さん、地図のこと知ってるはずなんです。李子本人からもそう聞いて」
「四角い絵を描いていました。最初は国旗か何かだと思ったんですが」
「地図だった」
「僕の評価にカチンと来たのか、急に避けるように蕎麦屋へ。なぜか知りませんが」
「人の評価に疲れてるんですよ。たとえ落書きであっても」
「しかし、僕はその落書きにヒントを得たんです。〈門、開かず〉と書いてありました。きっと森の入り口のことですよ」
「メッセージかも。辰さんにあなたのこと伝えたかったとか」
「歌い手の李子さん。門番の辰さん。蕎麦屋の隆五氏。これでメンバーはそろっていますね。彼らを結ぶのはやはりあの女神像だと思うんです」
Nは手紙を取った。
マルク、と差出人の名前がある。
「調査団の皆さん、手紙については知っていたんでしょうか」
「知らないと思います。作業に夢中で」
「僕はシャベルを持って後悔はしていません。以前のバイトなら、そう思わなかったことです。バイトって必ず出しゃばる先輩いますからね」
「読みましょうか。調査団についても、距離が縮まるはず」
美沙は便箋に目を通した。
「お願いします。しばらく、暗闇にいます」
Nは目を閉じた。新学期、村の子供たちが学校へ向かう窓。その先に、人魚が待つ広場があった。夜が更ける。男たちが作業していた。月の明かりが土を焼いた。初めて広場に向かった夜。ヘッドライトが光った通り。風はなく、過ぎ去った車のタイヤ以外に騒めきはなかった。
美沙は言った。
「きっとこれを書いている間は、偽善者だろう。どうしてかわかるかい? 王妃なんてどこにもいないからさ。夜更けに穴を掘るなんて行為、誰が見ても不思議だと思うんだ。僕も君も、村人たちの力には本当に驚いている。美沙、君の仲間は聡明で、いつも夜明けを夢見ているね。人魚を背にして、まるで土に戻ろうと懸命だ。あの池を汚したのはヒトだと証明している。透明な水を汚したのはヒトのせいだと証明している。でも大地の底に身を隠そうなんて思わないでほしいんだ。あそこには何もない。いや、少なくとも像を作った僕が戻るまでは。祖父だって同じことを言うはずさ。地図の隠し場所がありすぎるってこと。広場のどこに、どの位置に、僕たちの理想を、憧れを、夢を埋めるか。なんて贅沢な悩みだろうと思う。メンバーすべての笑顔に感謝したいよ。宿にいる君も、同じように思ってくれるはずさ。古いモンブランを執ってよかった。これも祖父の形見のひとつなんだよ。最後に、クライバーに幸あれ。そして現団長の君に、愛を。マルク」
一人の老人が椅子に座っていた。夜更けのせいで白い煙が映えている。口からもくもくと吐き出しているようだ。Nは足を止めた。
男に驚いた様子はない。煙草を吹かし、「何しに来た」と言わんばかりである。
Nは懐から手紙を出した。老人の目が開いた。
「お訪ねしたいことが」
老人は腰を上げた。微笑んでいる。
「マルクは随分前に村を出たよ」
「美沙さんとはどういう関係ですか。まさかクライバーの団長だなんて知りませんでした。あそこにいる人たち、みんな隠してたんですね」
「その手紙、地図のこと書いてないかね。波止場往きの」
「……波止場」
「あくまで名目だよ。マルクの祖父が付けたんだ。わしとは古い仲間でね」
「祖父なら同じことを思う。そう書いてありました。つまり広場には何もない」
辰は笑った。綺麗な歯並びだった。
「美沙の指揮で動いたんだよ。彼らを誇りに思うよ。たった一枚の地図のために、夜通し作業を続けたわけだからね。今となっちゃ嘘のようだが」
「人がいない。そう言えるでしょうか。人の足跡なら無数にあるのに」
「君は調査団と接したからそう思うだけだよ。彼らの役目は終わったんだ。もうすぐ団長も現れるだろうしね」
「しかし美沙さん、宿に泊まった日と印象が変わらないんです。男たちを束ねる長なんて、とてもそう見えません。スキー遠足にも引率したと聞きました」
「シェルターについてはよく知らない。わしの耳には、白いカプセルとだけ入っている」
「……子供たちが」
「ああ。町からも預かってるらしい。まったくK地区のやってることはよくわからん。一応の教育と利益だろうがな」
「マルク氏はもちろん知っているはずなんです。広場と、穴と、遠くのシェルターについて」
「わしから見てもおかしな奴だ。団長に気を遣う間でもなかろう。雇われの身なのだよ。調査団専属の」
「設計士、と聞きました。あの人魚と、こちらの女神を」
「血統じゃよ。ぜんぶマルクの爺さんが作ったのさ。美沙の生まれる前に。孫が譲り受けてるんだろう」
「詳しくお聞きしたいです。美沙さんとマルクはどんな関係なんでしょう。黒猫も知らないはずなんです。梟すらも」
「旅人よ」
「はい」
「わしも暇じゃないんだよ。誰が見てもそう見えないが。だけど元リズム隊の言い分、お前さんにも伝わるといいが」
「辰さん。あなたにも手紙、届いていますよね。僕はそれを確認するまで帰りません。旅人の言い分、伝わるといいですが」
Nは辰の手を覗いた。手紙が一通。〈大好きなドラマーへ〉と書いてある。
「鉛筆で書いてあるだろう。間違いなく本人の文字だ。大人の小細工に騙されるほど阿呆じゃないよ。見てみろ、好きな曲が書いてある。李子からマイクを奪った子の名前もね」
「……確かに」
「郵便屋がここへ届けに来てくれた。大好きなドラマーと見て、すぐにな」
「忠君」
「そうだ。〈ジューン・フライド〉に足を運んだファンだ」
「職員じゃないと言い切れますか。忠君に当時のことを聞いて代筆とか」
「子供を装うバカなら封を開けちゃいないよ。K地区はフェスを知らない。その筋の連中が取り仕切ったおかげでね」
Nは美沙との会話を思い起こした。スキー遠足の写真。笑顔のない少年こそ、差出人の忠に違いない。いつか、手紙を。それが現実となって皺だらけの手に納まっている。
「あなたはファンの少年に応えようとしないんですか。こんなこと聞くと失礼なようですが」
「クライバーの連中なら知ってるはずだ。わしがなぜ女神の足元にいるのか、作り話なら簡単だがね。人はいつでも栄光に溺れるもんだ。毎朝、てめえのロッカーを開ける度に楽屋を思い出すんだ。それが嫌でモップに見切りをつけたのさ」
「向こうの村、行ったことありますよ。あなたが去ったログハウスの」
「そうだ。あの村も過去なんだ。今のわしには恐れ知らずの旅人が来る。たまに金を置く者もいるが」
「確か、〈門番クソジジイ〉と」
辰は笑った。歯並びがきれいだ、とNは思った。
「そいつはいい。称号じゃよ。ところであんた」
「はい」
「マルクを探し続けるのかい? それとも、ここで女神の乳房を眺めるだけかい?」
「……宿に戻ります」
辰は笑った。
「そいつはいい。美沙にも伝えておいてくれ。わしは変わらず、とな」