宿に戻ったNは窓の景色を眺めた。
新たに人が訪れる気配はなかった。マルク、とは架空の人物かもしれない。
美沙から預かった手紙をテーブルの上に置いた。地図。そのために夜通し作業が続いたのだ。総指揮を執った美沙はこの部屋の下にいる。Nはベッドに入り、目を閉じた。
目が覚めてNは洗面所へ向かった。夢を見たはずが忘れていた。カーテンの隙間から、朝焼けが滲んでいる。
ドアを叩くのは何度目だろう。美沙は手紙を読み上げた昨日と変わらず、窓際の椅子にいる。昼前だった。陽が差し込んでいる。
「マルク氏と関係があるんでしょうか。部屋の中の麟ちゃん、もがくような声でしたよ。もしかして手紙を読みたがっているとか」
「それは思い込みでしょう。私に宛てた文面ですよ。きっとマルクも彼女を知らない」
「ですが、あの森から出ていないことを思うと、必然では」
Nは手紙を開いた。
「マルクは、いつ」
「これ以降は届いていません」
「助けてと呼んでいるんですよ、マルクに」
「そうは思いません」
「なぜ」
「私宛て、だからです。他に何が」
「確かに麟ちゃんの声を聞いたわけです。ところがあなたは思い込みだという」
「あなた以外に読ませていないもの。ゴーストが出る宿なら、もっと広まっていると思います。李子だって」
「彼女ははっきり探してくださいと僕に伝えています。家族が消えて、そう思わない人はいない」
「私は調査を続けただけです」
「動物の声、聞いたことありますか。僕は聞いているんです。豚のような声も。団長であるあなたが知らないわけありません。広場を指揮したのは誰ですか。マルク氏はその誰かを訪ねてくるんですよ」
「返事は書きました。届いてるはず」
Nは押し黙った。手紙についての議論は続くだろう。しかし、明日にでも差出人と会える確率はない。
「実は昨日、辰さんと話しました。これでは時間を割いた辰さんの顔が立ちません。お分かりですよね」
「はい」
「僕はあなたと、森を抜けたいんです。生い茂る樹々の下を駆け抜けてみたいんです。そして差出人のマルクと会ってみたい。すぐにでも」
「……時間、頂けます?」
美沙は部屋を出た。
広場に一人の少女がいた。足下には尻尾を立てた黒猫がいる。
美沙に気付くと、少女は笑顔で手を振った。
「お久しぶりです!」
カナが近づいた。ルイーズは器用に穴のそばを歩き始めた。足を滑らせても、楽に顔を出すと言いたげに。
「このお姉さん、人使い粗いでしょう。急に呼び出してさ」
「そんなことないです。美沙さん、リーダーですから」
「さっき宿から出たんだよ。女の子の団員がいるからって。それにこの人、頑なに手紙は自分だけのものと言うんだよ。僕が今朝、麟ちゃんの声を部屋で聞いたのに信じない。きっと麟ちゃん、マルクからの手紙を知ってると思うんだ。そんな気がしてる」
「旅人さん」
「何」
「穴に入ってくれます?」
「はい」
Nは目の前の穴に身を投げた。
鳴き声は聞こえなかった。真夜中に響いた豚の声が消えている。
「ラジオ、ありますか」
美沙の声だった。
「どこにもありません、団長」
Nは地上に顔を出して言った。
「あなたの計画、これでわかった気がします。どこに埋めたのかわからない。ああ、そうですか」
美沙とカナは笑った。
Nが十数個目の穴の底へ入ったその時、鳴き声は突如響いた。足元を隈なく見つめ、それがラジオからの声だとNは信じた。
「ここの下から鳴き声が聞こえるんです。ほんとです。きっとラジオが埋もれているんですよ」
美沙は顔色一つ変えず覗き込んだ。
「こんなに深く埋めたかしら」
「あなたが探せと言いました」
「いいえ。ラジオがあるかどうかを聞きました。探せとは言っていません。それに私たち、鳴き声なんて聞こえません」
「待ってください」
Nは穴から出た。何度、土に汚れたのか数える気にもならなかった。
「カナちゃん」
そう言った矢先、カナが顔を出した。
「私、美沙さんと同じです。変です。地面から何か聞こえる人」
Nは深く息を吸い込んだ。
「では聞きますが、ラジオはいつ埋めたんですか。カナちゃんが生まれる前ですか。それとも、僕がこの村を訪れる前ですか」
「マルクが発った日です。旅に出た日」
「それを求めて」
「はい。私たちはラジオを探す。引き換えに、マルクは地図を埋める。交換条件です」
「僕が発見しました」
Nの声を聞いて、カナは地図を広げた。ポケットに丸めていたようだ。陽の光に照っても黄ばんだ紙。あの図書室で見つけた小さな古い紙だ。
カナの足元にはいつの間にかルイーズが寄っていた。
「もなこのパパさんから聞いたんです。これ、マルクが描いたんだよって」
「宿では村の誰かなら知っていると。そう聞いていたんだ。よく調べてくれたね」
「あのホテルは代々一家を泊めていたんです。これ、どの国かわかります?」
焦げ茶色の大陸がひとつ。その他は小さな島が辛うじて確認できた。
「幻の大陸的な」
「調査団はマルクが来るまで口に出さないつもりでした。蛾の採集で隠すことだってできたわけです。ラジオが見つかったら、私の元へと伝えました」
「でも彼は自分で埋めたんでしょう。手紙に穴の場所、書けば済むことじゃないですか」
「それを書くと、穴が少なくなるわけです。人員削減にはなりますが」
「……なるほど」
「マルクさん、地図のためにここを選んだ。いっぱい、隠し場所が必要だったんです。きっと」
「でも僕たちをここまで動かしておいて、来ないなんてなしですよ。隠し場所を探しているんですから」
「待ってください!」
カナは地図を丸め、穴の底に投げた。そして両手を広げ、背中から身を投げた。
Nの両手に痛みが走った。
十四歳の少女が降ってきたのだ。足元には地図が汚れている。靴の底で大部分を踏みつけていた。
Nはカナの体を壁に預けた。顔を上げた。粗く切り取った青空が覗く。美沙の声は聞こえそうにない。
「ごめんなさい……役に立ちたかったんです」
「無茶苦茶するね」
「……重くなかったですか。手、痛くないですか」
Nは踏みつけた地図を手に取った。
「全然。ほら、地図も無事」
「……私の体で」
「そう。僕と二人分の体重が乗っかったのに、破れていない。まだ大丈夫」
「私、自分も落っこちて、ラジオがあるか確かめてみたかったんです。でも、かっこよく落ちたいって、思って」
「カナちゃん。それ地上では〈イタイ〉って言うんだよ」
「あ」
太ももに土が付着していた。擦り傷に加え、薄汚れている。
「一応、センターなんです。みんなに笑われそうですよね。こんな落ち方じゃ」
「メンバーを探しているなら、僕と同じ。麟ちゃん、家出中みたい。彼女の姉さんがそう言ってた」
「……李子さんも」
「この地図についても話してたよ。やっぱり古くからあるものなんだ」
カナは身を起こし、息を大きく吸い込んだ。
「美沙さん、あとで、森、行きましょう。私の友達、麟が、そこに、行ったきりなんです」
声は異様に響いた。
美沙が顔を出した。冷めた目だ、とNは思った。
カナは一息ついている。腹の底から声を出した証拠だった。
「あの人、ほんとに団長なの」
「……たぶん」
「僕たちをあんな風に見るなんてひどくない? 十代女子と穴に落ちるなんてとか」
「全然気にしてないです……でも美沙さん、怒らせたくないので」
「上がろうか」
「はい!」
Nは地上に向かって言った。
「すみません。マルクは来ましたか。まだですか」
「来ていませんけど。早く上がってください。日が暮れます」
美沙は言った。
陽が高くなった。穴の底まで光が伸びている。土にまみれた地図を持ってNは残りの穴を覗いた。ラジオ、ラジオ。手に納まる程度の機械が、ついにすべての穴を覗いても見つからないままだった。
「美沙さん」
地図を広げると大きな島が飛び込んでくる。見慣れない文字がある。
「これ、僕たちが埋めるのはありですか。マルク氏、この地図を探して戻るわけでしょう。それならあとで〈埋めました〉って報告すればいいんです」
美沙は地図を奪った。
「そういう考えなら、私が持ちます」
「すべて探しました。ラジオなんてありません。もっと穴の奥にあるとも思えません。第一、そんなに深く埋める意図がわからない」
「調査団は依頼を放棄しません。見つけない限り、マルクも来ないでしょう」
「地図は僕が見つけたんですよ。〈グールド〉の地下で。これを渡すのであれば、マルク氏本人に聞いてみてはどうですか。埋めた張本人が知らないなんてありえません。きっと僕たちを使って遊んでいるんですよ」
「性格はよく知ってるつもりです。時間を与えて、身を隠す。彼なりの気遣いなんです。それに辰さんだって私たちを見てない。彼には、彼の目的がありますから」
「まさかラジオの場所、知ってるとか」
「それなら私に伝えているはずです。手紙をくれた本人を待つ、と言えばあの門も開くと思います。憎しみだけが入口ではないんですよ」
「あなたも譲りませんね。ここに埋めた当時を見たわけじゃないのに。あるなんて核心はどこから来るんですか。敗北を認めざるをえないと思うんです。僕が辰さんと話した時、例えば村に身を隠しているなら理由がある。そう思いました。宿の周りや、あのバーで聞き込みをすることだってできたんです。それすらできず、結局は団長であるあなたの元へ向かった。あなたと話した。遠くの賢者について、できる限り信頼を置くよう、共に行動した。一体、あなたを避ける理由、どこにあるんですか。手紙を渡して、なぜ身を隠す必要があるんでしょう。ラジオが見つからないことを予想していたなら、合わせる顔がない。そう思っているとか」
「そんなことないです。私たちとの再会を心待ちにしているはずです。私も、団員もみんな依頼者と共に」
「僕は村のどの人間よりもマルク氏に貢献しています。こんなに土にまみれて、今では地底人です。アイドルを助けた旅人ではないと思います。このまま門へ向かって、孤軍奮闘した男として、女神様に迎えてもらうのも悪くありません。きっと彼女たちが僕を賢者として迎えてくれるはず」
「賢者はマルクだけです」
美沙は言った。
霧が降りて山の頂は真っ白だった。微かに灰色の塔が浮かんでいる。