〈K地区〉は村の中学で一度は耳にする。霧深い北の方角にそびえる塔の周囲十五キロ圏内を指すらしい。
村から塔までの面積をアルファベットで均等に分けた結果、Kと呼ぶようになった。D辺りまでは徒歩圏内である。
教師が「指差してはいけない」と口にする度、生徒たちはあくびをした。休み時間になると、指と指の間に収める子もいた。ちょうど人差し指と親指の間、ミニチュアキットのように捉え、片目を瞑り、しばらく離そうとしなかった。
窓に霜が張り付くと、いよいよ見えなくなった。雪が舞い降り、塔の姿形を完全に閉ざしていた。
大昔に建てた物とは知らず、スキー客は大地を滑降していた。活気に満ちた季節の訪れだった。やがて雪を拭い、元の色に戻った。教室で、廊下で、遥か遠くのK地区を見つめた子供たちは村を去った。春の訪れだった。そびえる塔に誰もいない。その周りにさえ誰もいないだろう。合言葉のように、村の大人たちは口を揃えるようになった。
塔は変わらず雲を突き刺すように伸びている。
ミノルは塔近くの倉庫に着いてすぐに監視を呼びつけた。
「兄貴が死んだ」
監視は帽子を脱ぎ、目を閉じた。
「生きてたんだよ、蜘蛛のクソ女が」
「ここには見かけませんが」
「油断はするな。あいつらはヒトなら何でも食うんだよ」
「我々も迂闊には動けません。恐ろしいとは聞いているので」
「村から十二人来る。そのうち二人は冤罪だ。どうやら、魚籠兄いと一度会っている」
「……森で」
「そうだ。ずっと昔にな」
「ですが、彼らは何をしたというのでしょう」
「下着は俺が用意したんだよ。とりあえず。赤の方が目立つってもんだ」
「……都から」
「ああ。うちの名前出せば、パンツくらい寄こす。都らしいだろ。まだまだ山の中も捨てたもんじゃねえよな」
ミノルは倉庫を後にした。一匹の燕が頭の上を通り過ぎた。巣は天井の隅に出来ていた。ヒナが口を大きく開けている。たった今、巣に帰った親鳥が羽を動かし、ミミズを与えていた。
鉛色の床に人影が伸びた。
「彼らも必死ですね」
「すぐに巣立つと思うぜ。意志があればの話だが」
「……十二人」
「そうだ。頼んだぞ」
「お前の家、あそこなのか」
この日、ミノルは村からの連絡を受け、急いで駆け付けた。
家の前に少年が立っていた。
「今から乗り込んでやるから」
「……違うんです。助けとか、そういうことじゃないんです」
「何言ってんだ。びびって家から出たんじゃねえのかよ」
「僕は塔を眺めたいだけです。ほんとです」
「あそこはうちが管理してんだ。何十年もほったらかしだったけどな」
「……お兄さんたちが」
「ああ。旅人があの塔の明かりを元に北を目指すんだ。まさかバカでかいタコ部屋だなんて誰も思わないわけだ。山を越えなきゃ、遠くの島も見えねえわけだよ。なあ、坊主。俺の言ってること、わかるかな」
「……地図」
「そうだよな。どこかに行くなら、地図は必要だ」
「僕、聞いたことあるんだ」
少年は地図について話した。
顔面が凹んだ自分の母親の口から、初めて聞いた。キッチンから夕食の匂いがしたその日、海について語ったという。山の遥か向こう、白い鳥が羽ばたく場所があると。
「あんなに幸せそうなママ見ても、何も思わなかったんだ。またあいつに殴られるってわかってたから」
「お前、なぜ鉄パイプ使わなかったんだ? ボコボコにすりゃよかったのに」
「違うんです。僕は殴りたいわけじゃなくて」
「その意思すらも否定されたわけだろ」
「……泣いたことはありません。本当です。ママを殴る奴の前で泣きたくなかったから」
「男は俺が連れてく。夜が終わってからだ。この時間は住民を起こすことになる」
ミノルは白い屋根を指差した。
「見えるか」
「……はい」
「俺の名前、出せばいい。そのあとはお前次第だ」
「……連絡は」
「今から俺が頼んでやるさ。家の前で待てばいい。トラックが来る」
ミノルは少年の元を去った。