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Ⅶ 赦しの森

第19話

〈K地区〉は村の中学で一度は耳にする。霧深い北の方角にそびえる塔の周囲十五キロ圏内を指すらしい。

 村から塔までの面積をアルファベットで均等に分けた結果、Kと呼ぶようになった。D辺りまでは徒歩圏内である。

 教師が「指差してはいけない」と口にする度、生徒たちはあくびをした。休み時間になると、指と指の間に収める子もいた。ちょうど人差し指と親指の間、ミニチュアキットのように捉え、片目を瞑り、しばらく離そうとしなかった。

 窓に霜が張り付くと、いよいよ見えなくなった。雪が舞い降り、塔の姿形を完全に閉ざしていた。

 大昔に建てた物とは知らず、スキー客は大地を滑降していた。活気に満ちた季節の訪れだった。やがて雪を拭い、元の色に戻った。教室で、廊下で、遥か遠くのK地区を見つめた子供たちは村を去った。春の訪れだった。そびえる塔に誰もいない。その周りにさえ誰もいないだろう。合言葉のように、村の大人たちは口を揃えるようになった。

 塔は変わらず雲を突き刺すように伸びている。

 ミノルは塔近くの倉庫に着いてすぐに監視を呼びつけた。


「兄貴が死んだ」

 監視は帽子を脱ぎ、目を閉じた。

「生きてたんだよ、蜘蛛のクソ女が」

「ここには見かけませんが」

「油断はするな。あいつらはヒトなら何でも食うんだよ」

「我々も迂闊には動けません。恐ろしいとは聞いているので」

「村から十二人来る。そのうち二人は冤罪だ。どうやら、魚籠兄いと一度会っている」

「……森で」

「そうだ。ずっと昔にな」

「ですが、彼らは何をしたというのでしょう」

「下着は俺が用意したんだよ。とりあえず。赤の方が目立つってもんだ」

「……都から」

「ああ。うちの名前出せば、パンツくらい寄こす。都らしいだろ。まだまだ山の中も捨てたもんじゃねえよな」

 ミノルは倉庫を後にした。一匹の燕が頭の上を通り過ぎた。巣は天井の隅に出来ていた。ヒナが口を大きく開けている。たった今、巣に帰った親鳥が羽を動かし、ミミズを与えていた。

 鉛色の床に人影が伸びた。

「彼らも必死ですね」

「すぐに巣立つと思うぜ。意志があればの話だが」

「……十二人」

「そうだ。頼んだぞ」



「お前の家、あそこなのか」

 この日、ミノルは村からの連絡を受け、急いで駆け付けた。

 家の前に少年が立っていた。

「今から乗り込んでやるから」

「……違うんです。助けとか、そういうことじゃないんです」

「何言ってんだ。びびって家から出たんじゃねえのかよ」

「僕は塔を眺めたいだけです。ほんとです」

「あそこはうちが管理してんだ。何十年もほったらかしだったけどな」

「……お兄さんたちが」

「ああ。旅人があの塔の明かりを元に北を目指すんだ。まさかバカでかいタコ部屋だなんて誰も思わないわけだ。山を越えなきゃ、遠くの島も見えねえわけだよ。なあ、坊主。俺の言ってること、わかるかな」

「……地図」

「そうだよな。どこかに行くなら、地図は必要だ」

「僕、聞いたことあるんだ」

 少年は地図について話した。

 顔面が凹んだ自分の母親の口から、初めて聞いた。キッチンから夕食の匂いがしたその日、海について語ったという。山の遥か向こう、白い鳥が羽ばたく場所があると。

「あんなに幸せそうなママ見ても、何も思わなかったんだ。またあいつに殴られるってわかってたから」

「お前、なぜ鉄パイプ使わなかったんだ? ボコボコにすりゃよかったのに」

「違うんです。僕は殴りたいわけじゃなくて」

「その意思すらも否定されたわけだろ」

「……泣いたことはありません。本当です。ママを殴る奴の前で泣きたくなかったから」

「男は俺が連れてく。夜が終わってからだ。この時間は住民を起こすことになる」

 ミノルは白い屋根を指差した。

「見えるか」

「……はい」 

「俺の名前、出せばいい。そのあとはお前次第だ」

「……連絡は」

「今から俺が頼んでやるさ。家の前で待てばいい。トラックが来る」

 ミノルは少年の元を去った。

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