ブルックスが俺たちの前を歩いて、旅の終わりを告げた。一度も振り返ることなく、ただまっすぐに。
猫の抜け道がわかった気がした。ヒトと同じ道を通っているのに、迷うそぶりは全くない。どんなに小さな道も見逃さない決意。尻尾が何よりの証拠だった。
目の前にチカチーロのボーカルが歩いているなんて誰が信じる? 親は森に入るなと言っていたし、もちろん爺さんも本音は同じ。その昔、裸のお姉ちゃんを見た孫の俺に、きっと合格でもくれる。
久しぶりに見る女神像のアーチ。光で、真っ白だった。
李子さんとミノルが足を止めた。
「俺はここでいい。元気でな」
「……村には」
「今はいい。魚籠兄いの好きな森で、蜘蛛でも待ってみる」
「……俺、蜘蛛についてなら知ってる。一度、見たことあるんだ。ほんとだよ」
ミノルは笑った。
「堅気のお前さんたちの方が詳しいかもな。俺たち、森の中じゃ素人なんだよ。やっぱりな」
そうだ。魚籠の背中。あれは池を見ているに違いなかった。ミノルは知らない。俺と、ジローが見た光景だ。
「うんと昔、この森は蜘蛛が守っていた。狼と共に、村全体を守っていたんだ。うちの親分も、随分気を遣ってきたはずだが……配慮が足りなかったみてえだな。ちと荒っぽい手を使いすぎたのさ。村のフェスも含めてな」
「待って。〈ジューン・フライド〉は一度きりなの? 教えて」
「そいつはわからない。親が決める」
「私、チカチーロの歌い手でいたい。あなたたちのサポートも必要なの。だってドラムは……辰さんしかありえないから」
「わかっている。俺も、あの村が大好きだ」
「ミノル」
俺は言った。
「どうして、俺たちと出口に? 聞かせてくれ」
「……魚籠兄いのためだ。これ以上は言わない」
ミノルは去った。背中のまま右手を挙げて、森に消えた。
女神の腕の下を潜ると、思わず目が眩んだ。
門の前には辰さんだけがいた。
李子さんは微笑んでいる。辰さん、ほっとしてる。ファンの俺は、一体何を伝えればよかったのだろう。それがわかっていれば、沈黙を誰かに破ってもらうこともなかった。
遠くから声が届いて、目を向けた。美沙さんだ。
「みんな食われました。食われて、死にました。ほんとです」
辰さんも背中で静かに聞いていた。残ったのは俺と、ミノルの二人だけ。もしジローが自ら降りなければ、鬼たちはもっと車にしがみついたはず。同じ塔で働いたみんなが、確かに、あの薄暗い荷台で盾になってくれた。
人ってあんなにも早く肉になる。鬼をなめていたのは事実だ。
「マルクは村人の話を聞くために帰ってくるの。旅を終えて帰郷するのよ。あなたのような塔からの使者も、迎えてくれるんじゃないかしら」
「鬼なんて信じるでしょうか」
「生き延びた君を無駄にはしないさ。少なくとも、ここに置いたままにはしない。森の証明を彼が求めているならね」
旅人は言う。
「見て」
美沙さんは地図を開いた。
なるほど。宝島の在りかみたいだった。
「宿の地下は書庫なの。向井がかなり処分したけど」
「でもどうしてこれだけが? 拾ってくださいって言ってるみたいです」
「僕も詳しくは聞いていない。どうやら広場に埋めることが目的みたい。真夜中に出会った人たち、決して話さなかったけど。団長のことも含めて」
「外からでも就任できるのよ。それを面白くないと思う大人もいるけど」
「いや、あなた僕を穴に落とした張本人です。リーダーの資格、十分じゃないですか。ラジオ探しに、旅人を使うなんて素晴らしい経験でした」
広場の穴はラジオ探しのため、らしい。
大人が夜な夜な出かけて掘った跡だ。バーではみんな知ってるはず。でも森の話を聞いている間、豹は一言も口にしなかった。
「しびれを切らしてこの門に向かったんだ。手紙が正しければ、土の中にあるはずなんだけど。調査団の皆さんも、こんなにかかるなんて思っていなかったんじゃないかな。ラジオが見つからず、なんてこの人が団長である限り言えないよ」
「俺は塔にいました。仕事でした」
「〈グールド〉からは確認できなかったのよ。天まで伸びてるだけで。あそこが役所になってるなんて、私も知らなかったの。例の遠足に参加するまでね」
「書類、ひたすら棚に入れました。美沙さんの名も」
「……私も」
「はい。十二人の誰かが」
「塔は村を見ている証拠ね」
「幹部らしき人とも話したんです。すべては、この地域への還元だと」
辰さんは目を閉じていた。
塔の内部。もちろん、誰の情報を処理したかなんて覚えていない。ただ監視の指示に従って、書類の山を崩しただけだった。同じ足音が続くだけの時間。馬鹿みたいに。
ギャングに逆らう気はなかった。村に帰る掟を作った人たちだから。その掟を破れば、どうなるかくらいわかっていた。
ミノルは、女神像の手前で道を引き返した。その理由を知っている。
「地図、見せてもらっていいですか」
俺は言った。
美沙さんの手から地図を見る。でかい島と、小さな島。そこにロブスターの腕が伸びている。自慢のハサミで大陸をちょん切ったようだ。
誰が見ても幻であるとわかった。塔の向こうにあるのか、世界の果てに位置しているのか、判別はつかない。
「マルクを信じてたの」
小さな機械を埋めた現場を見ていない。辰さんも。広場に集う村人たちも。
「たくさんの人、借りたのよ。今更なかったなんて言える?」
「僕たちに探せと。地図はそう言ってるんじゃないですか。少なくとも塔にはありませんでした」
「マルクを信じよう」
辰さんが言った。
「伝言じゃよ。あの一家なら、昔からそうだ。悩める門には、悩むだけの時間が必要なんだ。ここは人を結ぶ点なんだよ」
李子さん、ドラムスと随分離れた位置にいるけど。豹だってメンバー間の感情は知ってるはず。なぜボーカルが黙り込んでいるかも知ってると思う。
森の中でそっと教えてくれたんだ。あの薄汚れた池を見たこと。朝、黒猫と一緒に、池の水に触れたこと。それを村の大人に話しても無駄という諦めも。
俺だって、同じ光景を見ている。初めて女神様の下を潜ったあの日に。
ジローと、魚籠がいた小さな池だ。
「辰さんの言う通り、俺たちへの伝言だと思います。このままじゃいけない。そう訴えているんじゃないですか」
「君の選択を聞こう」
旅人は言った。
「このまま僕たちと夕闇を迎えるか。照れ屋のマルクはまだ来ないけど」
「戻ります」
誰もが口を閉ざした。門番の辰さんも、呆れたような目だった。
ジローがいる。鬼と一緒に消えた仲間が。
でも友達のため、なんて口が裂けても言えなかった。
「K地区に行った日は覚えてるかね。十二人と聞いたが」
「はい。夜明け前、荷台に乗って、この森を」
「……女神の腋を」
「気付くと倉庫が見えました。荷台の中でのことは覚えていません。うるさかった以外、ほとんど何も」
「ジロー君は、まだいるのね。あの地域にさ」
美沙さんが名前を出して、改めて旅人の問いに答えた。俺ができること、すべてだ。
「あいつが、忠の元にいるかはわかりません。でも鬼に食われたなんて信じません。ただ車を降りただけです」
K地区は危険だ。学校からもそう感じた。
「一度塔に入った人間は、とにかく作業を終えて帰らなければいけないんです」
「忠君を刺激するのもまずいよね。いくらギャングを盾にしてもさ」
「ええ。シェルターについては、俺もよく聞いていないんです。俺たちは忠の義父をぶち殺すのが目的でした」
そうだ。信じればいい。辰さんの言ったことが事実であるなら。門が人を結ぶ、とは決して嘘じゃない。二人の女神様がそう仕組んだはず。
例えば、一人の少女を迎えることも。
「もなこちゃん……?」
旅人の声に、その女の子は頷いた。アイドルグループについては知ってる。小さな村から、初めてデビューした三人のこと。
そのうちの一人に違いなかった。鞄を持ってぽつんといる。まさかの登場だった。
「皆さん、ここで何してるんですか」
大人五人は口を閉ざしている。率直な問い。門で何をしている?
辰さんは苦笑い。美沙さんはイラついてる。李子さんと旅人の男性は、なぜか微笑んでいた。
もなこちゃんは視線を変えない。学校から抜け出してきたのか、制服のままだった。
そうだ。十代にとっては平日の朝に過ぎない。
「ラジオ」
もなこちゃんは鞄から機械を出した。
誰もが目を疑った。女の子の手に一台のトランジスタラジオがある。
「あの、これ電源入っているんですけど……何かヒント、飛び込んで来ないかなって」
辰さんは言った。
「おじさんたちね、そろそろリクエスト送ろうと思ってたの。チカチーロってバンドの曲なんだけど」
「広場で見つけたんです。ほんとです」
今度は誰もが耳を疑った。
美沙さん、怖い顔してる。
「あなた、いつ拾ったの? うち十八歳未満、雇ってないのよ」
「パパからです。美沙団長、はじめまして!」
あっけにとられた美沙さんを見て思う。辰さんの言った通りだ。門は人を結ぶ。悩める大人のために、裸の女神がいる。