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第31話



 ブルックスが俺たちの前を歩いて、旅の終わりを告げた。一度も振り返ることなく、ただまっすぐに。

 猫の抜け道がわかった気がした。ヒトと同じ道を通っているのに、迷うそぶりは全くない。どんなに小さな道も見逃さない決意。尻尾が何よりの証拠だった。

 目の前にチカチーロのボーカルが歩いているなんて誰が信じる? 親は森に入るなと言っていたし、もちろん爺さんも本音は同じ。その昔、裸のお姉ちゃんを見た孫の俺に、きっと合格でもくれる。

 久しぶりに見る女神像のアーチ。光で、真っ白だった。

 李子さんとミノルが足を止めた。

「俺はここでいい。元気でな」

「……村には」

「今はいい。魚籠兄いの好きな森で、蜘蛛でも待ってみる」

「……俺、蜘蛛についてなら知ってる。一度、見たことあるんだ。ほんとだよ」

 ミノルは笑った。

「堅気のお前さんたちの方が詳しいかもな。俺たち、森の中じゃ素人なんだよ。やっぱりな」

 そうだ。魚籠の背中。あれは池を見ているに違いなかった。ミノルは知らない。俺と、ジローが見た光景だ。

「うんと昔、この森は蜘蛛が守っていた。狼と共に、村全体を守っていたんだ。うちの親分も、随分気を遣ってきたはずだが……配慮が足りなかったみてえだな。ちと荒っぽい手を使いすぎたのさ。村のフェスも含めてな」

「待って。〈ジューン・フライド〉は一度きりなの? 教えて」

「そいつはわからない。親が決める」

「私、チカチーロの歌い手でいたい。あなたたちのサポートも必要なの。だってドラムは……辰さんしかありえないから」

「わかっている。俺も、あの村が大好きだ」

「ミノル」

 俺は言った。

「どうして、俺たちと出口に? 聞かせてくれ」

「……魚籠兄いのためだ。これ以上は言わない」

 ミノルは去った。背中のまま右手を挙げて、森に消えた。

 女神の腕の下を潜ると、思わず目が眩んだ。

 門の前には辰さんだけがいた。

 李子さんは微笑んでいる。辰さん、ほっとしてる。ファンの俺は、一体何を伝えればよかったのだろう。それがわかっていれば、沈黙を誰かに破ってもらうこともなかった。

 遠くから声が届いて、目を向けた。美沙さんだ。



「みんな食われました。食われて、死にました。ほんとです」

 辰さんも背中で静かに聞いていた。残ったのは俺と、ミノルの二人だけ。もしジローが自ら降りなければ、鬼たちはもっと車にしがみついたはず。同じ塔で働いたみんなが、確かに、あの薄暗い荷台で盾になってくれた。

 人ってあんなにも早く肉になる。鬼をなめていたのは事実だ。

「マルクは村人の話を聞くために帰ってくるの。旅を終えて帰郷するのよ。あなたのような塔からの使者も、迎えてくれるんじゃないかしら」

「鬼なんて信じるでしょうか」

「生き延びた君を無駄にはしないさ。少なくとも、ここに置いたままにはしない。森の証明を彼が求めているならね」

 旅人は言う。

「見て」

 美沙さんは地図を開いた。

 なるほど。宝島の在りかみたいだった。

「宿の地下は書庫なの。向井がかなり処分したけど」

「でもどうしてこれだけが? 拾ってくださいって言ってるみたいです」

「僕も詳しくは聞いていない。どうやら広場に埋めることが目的みたい。真夜中に出会った人たち、決して話さなかったけど。団長のことも含めて」

「外からでも就任できるのよ。それを面白くないと思う大人もいるけど」

「いや、あなた僕を穴に落とした張本人です。リーダーの資格、十分じゃないですか。ラジオ探しに、旅人を使うなんて素晴らしい経験でした」

 広場の穴はラジオ探しのため、らしい。

 大人が夜な夜な出かけて掘った跡だ。バーではみんな知ってるはず。でも森の話を聞いている間、豹は一言も口にしなかった。

「しびれを切らしてこの門に向かったんだ。手紙が正しければ、土の中にあるはずなんだけど。調査団の皆さんも、こんなにかかるなんて思っていなかったんじゃないかな。ラジオが見つからず、なんてこの人が団長である限り言えないよ」

「俺は塔にいました。仕事でした」

「〈グールド〉からは確認できなかったのよ。天まで伸びてるだけで。あそこが役所になってるなんて、私も知らなかったの。例の遠足に参加するまでね」

「書類、ひたすら棚に入れました。美沙さんの名も」

「……私も」

「はい。十二人の誰かが」

「塔は村を見ている証拠ね」

「幹部らしき人とも話したんです。すべては、この地域への還元だと」

 辰さんは目を閉じていた。

 塔の内部。もちろん、誰の情報を処理したかなんて覚えていない。ただ監視の指示に従って、書類の山を崩しただけだった。同じ足音が続くだけの時間。馬鹿みたいに。

 ギャングに逆らう気はなかった。村に帰る掟を作った人たちだから。その掟を破れば、どうなるかくらいわかっていた。

 ミノルは、女神像の手前で道を引き返した。その理由を知っている。

「地図、見せてもらっていいですか」

 俺は言った。

 美沙さんの手から地図を見る。でかい島と、小さな島。そこにロブスターの腕が伸びている。自慢のハサミで大陸をちょん切ったようだ。

 誰が見ても幻であるとわかった。塔の向こうにあるのか、世界の果てに位置しているのか、判別はつかない。

「マルクを信じてたの」

 小さな機械を埋めた現場を見ていない。辰さんも。広場に集う村人たちも。

「たくさんの人、借りたのよ。今更なかったなんて言える?」

「僕たちに探せと。地図はそう言ってるんじゃないですか。少なくとも塔にはありませんでした」

「マルクを信じよう」

 辰さんが言った。

「伝言じゃよ。あの一家なら、昔からそうだ。悩める門には、悩むだけの時間が必要なんだ。ここは人を結ぶ点なんだよ」

 李子さん、ドラムスと随分離れた位置にいるけど。豹だってメンバー間の感情は知ってるはず。なぜボーカルが黙り込んでいるかも知ってると思う。

 森の中でそっと教えてくれたんだ。あの薄汚れた池を見たこと。朝、黒猫と一緒に、池の水に触れたこと。それを村の大人に話しても無駄という諦めも。

 俺だって、同じ光景を見ている。初めて女神様の下を潜ったあの日に。

ジローと、魚籠がいた小さな池だ。

「辰さんの言う通り、俺たちへの伝言だと思います。このままじゃいけない。そう訴えているんじゃないですか」

「君の選択を聞こう」

 旅人は言った。

「このまま僕たちと夕闇を迎えるか。照れ屋のマルクはまだ来ないけど」

「戻ります」

 誰もが口を閉ざした。門番の辰さんも、呆れたような目だった。

 ジローがいる。鬼と一緒に消えた仲間が。

 でも友達のため、なんて口が裂けても言えなかった。

「K地区に行った日は覚えてるかね。十二人と聞いたが」

「はい。夜明け前、荷台に乗って、この森を」

「……女神の腋を」

「気付くと倉庫が見えました。荷台の中でのことは覚えていません。うるさかった以外、ほとんど何も」

「ジロー君は、まだいるのね。あの地域にさ」

 美沙さんが名前を出して、改めて旅人の問いに答えた。俺ができること、すべてだ。

「あいつが、忠の元にいるかはわかりません。でも鬼に食われたなんて信じません。ただ車を降りただけです」

 K地区は危険だ。学校からもそう感じた。

「一度塔に入った人間は、とにかく作業を終えて帰らなければいけないんです」

「忠君を刺激するのもまずいよね。いくらギャングを盾にしてもさ」

「ええ。シェルターについては、俺もよく聞いていないんです。俺たちは忠の義父をぶち殺すのが目的でした」

 そうだ。信じればいい。辰さんの言ったことが事実であるなら。門が人を結ぶ、とは決して嘘じゃない。二人の女神様がそう仕組んだはず。

 例えば、一人の少女を迎えることも。

「もなこちゃん……?」

 旅人の声に、その女の子は頷いた。アイドルグループについては知ってる。小さな村から、初めてデビューした三人のこと。

 そのうちの一人に違いなかった。鞄を持ってぽつんといる。まさかの登場だった。

「皆さん、ここで何してるんですか」

 大人五人は口を閉ざしている。率直な問い。門で何をしている?

 辰さんは苦笑い。美沙さんはイラついてる。李子さんと旅人の男性は、なぜか微笑んでいた。

 もなこちゃんは視線を変えない。学校から抜け出してきたのか、制服のままだった。

 そうだ。十代にとっては平日の朝に過ぎない。

「ラジオ」

 もなこちゃんは鞄から機械を出した。

 誰もが目を疑った。女の子の手に一台のトランジスタラジオがある。

「あの、これ電源入っているんですけど……何かヒント、飛び込んで来ないかなって」

 辰さんは言った。

「おじさんたちね、そろそろリクエスト送ろうと思ってたの。チカチーロってバンドの曲なんだけど」

「広場で見つけたんです。ほんとです」

 今度は誰もが耳を疑った。

 美沙さん、怖い顔してる。

「あなた、いつ拾ったの? うち十八歳未満、雇ってないのよ」

「パパからです。美沙団長、はじめまして!」

 あっけにとられた美沙さんを見て思う。辰さんの言った通りだ。門は人を結ぶ。悩める大人のために、裸の女神がいる。



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