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第30話

 東の空が明るみ始めている。男の手は休むことなく動いた。

 鉄のバケツはもういつから使っているのか知らない。モップを挿し込む度、そろそろ取り替えるべきだと思う。腕には青々と血管が浮き出ていた。親しい者は「辰さん」と変わらず呼んでいた。かつてドラムを叩いたあの男だと、村のほとんどの大人は知っていた。その朝も辰はロッカーを開けた。やかましい扉の音を聞いて、一日が始まる。この村に流れ着いた頃には、すでに錆びていたのだ。 

 ビール瓶が客席から飛んできても、歌い手の背を見てきた。隆五の背を見てきた。チカチーロはもっと劣悪な会場で演奏したこともあった。

 何がパンクだ、この野郎。

 客席は村人たちの血走った目で埋まっていた。瓶の破片が飛んでも、演奏は休むことなく続いた。李子はマイクを放さず客席を見たままだ。雨靴を履いた子供たちが泥まみれで走り回っている。村一番のロックフェス〈ジューン・フライド〉が幕を開けた。水たまりが至る所に広がっていた。大きな足、小さな足が泥の中に刻んでいる。肩車でステージを眺める親子、若者たち、そして村の老人たちが押し寄せていた。

 罵声が飛んだ。観客席から一人の女の子が上がり込んできたせいだ。

 少女はマイクを奪った。


「ファンの皆様。突然、ごめんさない。私の名は麟です。皆さん、少しだけ私の声を聞いてください」

 少女はマイクの前から離れる気配がなかった。ついさっき歌ったアイドルグループの一員だった。十五歳、とだけ辰は聞いている。村の中学校からデビューしたばかりだった。

 会場は波を打ったように静まった。誰一人、声を出していない。李子は唖然としていた。誰かが投げた瓶の破片がステージに転がっていた。

 少女の声が響いた。 

「私はこの村で生まれました。放課後に、友達とよく練習しました。夕陽が沈むまで、ひたすら踊り続けたんです。誰に言われたわけじゃありません。ただ夢中でした」

 うるせえ。

 帰れ。

 ばーか。

 クソ女。

 お前のライブじゃねえんだよ。死ね!

 帰れ、帰れ、帰れ。

 帰れ、帰れ、帰れ。

 罵声が続いた。少女は前を向いている。

「カナに、お礼を言いたかったです。もなこにも、お礼を言いたかったです……チカチーロのライブ、私たちも好きです。そして姉の歌声も、大好きです」

 麟と名乗った少女は舞台袖に消えた。

 誰かが手を叩いた。別の誰かが、より大きな音で拍手を始めた。手拍子に変わり、広場を包み込んだ。大地が割れるようだった。歓声が沸いた。聞いたことがない大きな歓声だった。李子、李子、李子と声が飛ぶ。

 辰は腕を止めなかった。汗が乱れ飛び、スティックの先で破裂した。

 会場は唸りを上げている。

「辰! やめるな!」

 その時、前席から男の声が飛んだ。



 辰は目を覚ました。

 仕事帰りにライブ会場の夢を見るのは何度目だろう。幸い、部屋の中には泥だらけの足跡はない。汗を拭ってみる。皺だらけの腕が嫌でも目に入った。

 水を一杯飲み、ポストに入っていた封筒を開けた。一枚の便箋が入っていた。

〈ぼくはこの手紙をシェルターから書いています。先生の許可をとって、窓のむこう、僕の家族がいる村を見てペンをとりました〉

 手紙はドラムスティックの下に敷いた。送り主は〈忠〉と書いてある。

〈広場でのライブ、最高でした。李子さん、たぶん怒っていたと思います。だって、途中でマイク奪うなんてありえませんから〉

 もちろん少年の名に見覚えはなかった。フェス会場の広場から、確かに白い屋根を見たことはある。手紙を持って辰は家を出た。星の瞬きが消えている。歩く影が枯葉の上を過ぎた。森まで、わずかの距離だった。女神像の前で一匹の黒猫が駆け寄ってきた。飼い主と見間違っているのか、何かを訴えていそうな顔だった。雄か、雌かの判別はつかない。

 辰は猫を撫でて森の奥を見つめた。



「まだ先ね」

 李子は猫の尻尾を追った。背中には男二人が歩いている。この先に、双子の女神像が建っているはず。小さな村からはいつの時代も入口だった。学校帰りに見上げたことはあった。小鳥が羽を休めたり、また飛び去っていく光景を何度も目にしている。ある日の放課後は烏が女神の肩に止まっていた。思わず足を止めた。鋭く、大きな嘴が自分を捕らえた気がしたからだ。森には行かない、と決めた日だった。

「おばあちゃんとの約束、守れなかったみたい。罰が当たったのね、きっと。獣に出会ってもおかしくない」

「狼なら死んだよ。みんな村人に食われた。ここに残ってるのは、親を殺された子の狼だけだ」

「……子供」

「そうだ。さっき鬼が襲ったわけがわかっただろ。あいつら、狼がいなくなってから活発に動き始めたんだ。赤鬼はゲストを駆除しようとする。それが森に生まれた掟さ」

「麟は無事じゃないのね」

「誰かが無事かどうか、あいにく俺たちの辞書にはない。シノギってのは、善を見捨てることなのさ」

「でも私は妹を探しに来たのよ。ここをよく知ってるのはあなたたちでしょ? 狼の性格についても」

「狼は俺たちを警戒している。ヒトの気配に息を潜めるしかないんだ。野生のまま処分されるよりはいい」

「……麟は生きてる」

「あんたの妹については知らない。だが狼にも意思がある。きっと十代のガキなら、心を許すこともあり得るんじゃねえのか。俺たちの知らないところでな」

「知らないところ? まるで私には見つからない言い方ね」

「ここも故郷の一部だろ。早くに都会へ出たのは誰だ」

「そうよ。夢のため」

「さっきも言ったけど、あのフェスはうちも噛んでた。チカチーロはいいバンドだったな」

「あなたたちって、村のことならなんでもするのね。私、怖いお兄さんのことなんて聞かされてなかったから」

「あんたの爺さん、婆さん世代にとっちゃ、俺たちは使い走りなんだよ。あそこの村人みんなそうだ。強欲であることを認めてる。伊達に獣、食ってないな」

「食べたなんて信じない。私、地元民だけど狼なんて食べたことないよ」

「鳴き声も知らないのか?」

「うん。聞いたことない」

「広場ではまるで豚みたいに聞こえる。ほんとだよ」

「質問」

「なんだ」

「それ、誰にも聞こえるの?」

「風は気まぐれだ。梟の声も、狼の叫びも運ぶ。それが穴の底で反射して、おかしな音に変わるんだよ。耳に貝殻当てると波っぽくなるだろ。あれと似てるんじゃねえのか」

「そんな現象あるの? この地域だけじゃないの?」

「地域だからあるんだよ。昔から人が住むとおかしなことばかり起こる。かつて飛行機が消えたりする海もあったんだ。今じゃ科学が追い付いて、何もかも説明できるけどな」

 李子は若者を見た。ミノルと並んで歩いている。 

「塔から来たって言ったよね? 何人いたの? 教えて」

「……ジローとは別れました。俺の親友です」

「プラス十一人いた。こいつは模範囚だった。あの塔で一番の働き者だったんだ」

「俺、そんな自覚ないけど……ただ作業に必死で」 

「みんな罪を犯した連中だ。俺たちは村の相談料から収益を得ている。何かあれば必ず連絡は来る」

「待って。他のみんなは置いてきたの? K地区って大変な所でしょ」

「生きてりゃ同じトラックに乗ってるさ。みんな死んだよ」

「……食われたんです。ほんとです」

 李子は言葉を呑んだ。

 前を歩くブルックスは変わらず耳を立てている。

「もうすぐだ。辰ジイの野郎、俺たちを呑気な顔で待ち構えてるさ」 

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