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第29話

「池の水が飲めないのは、お前たちヒトも同じだ。この泥色のジュースを避けるなら、出口まで生き抜く他ないんだ」

 ブルックスは池の上を歩いた。肉球が泥にめり込んでいく。黒い尻尾を器用に上げ、泥から離していた。

「李子」

 振り返ってブルックスは言った。

「ここは昔、太陽を映していた。私の親も、兄弟も、この水を飲んで生きた。透明で、目が眩むほどの水だった」

 尻尾は弧を描いて綺麗に閉じた。

「恋人たちの道しるべだったんだよ。日記に黒猫を見た、と書き記す者もいたはずだ」

「でもどうして知ってたの? 逃げ出す方はルイーズだって、カナから聞いたことあるけどさ」

「私たちはどこに、どの道があるか日頃から探してる。ルイーズが聞かせてくれたのさ。森の奥、朽ちた池のことをね」

李子は靴下を脱いだ。

「待って。私も行く」

「君は重過ぎる。沼に沈むぞ」

 池は李子の足を呑み込んでいった。音もなく足首を掴んで、離れる気配がない。

「条件だ」

 ブルックスは李子に飛び掛かった。

「ちょっと」

 黒猫を振り解こうと李子は足を抜いた。

 その瞬間、真っ白な頬が土色に変わった。髪にも付着している。李子は泥に倒れた。

「私と同じ目の高さになってもらう。そのまま話を聞いてほしい」

「いいわ。早く言いなさいよ」 

「ここで待つように聞いているんだ」

 李子は体を起こした。

「私たちは様々な人間から情報を得ている。麟も例外ではない」

「会ってるのね」

「そうだ。この森で私に聞かせたんだよ。死の池で待てと。ヒトのなかには、獣と通じ合える者がいるんだ。麟がその一人だった。本当だ」

「質問。猫は赤鬼を恐れているんじゃないの?」

「誤解だ。赤鬼が狙うのはヒトだけなんだ。私たちとは友人なんだよ。君は信じないとは思うが」

「嘘。そんな鬼、いるわけないじゃない。あなたたちとも友人だなんて」

「じゃれ合うことはよくある」

「……あなたって男の子みたいね」

「私は雌だよ。黒い毛を誇りにしている。あの朝、カナが段ボールを見つけなければ死んでいた。ヒトを憎まなくなったんだ。今度は私が、せめて森まで引き入れようと思ったのさ。ヒトが迷う顔など見たくないからね」

 李子は体中の泥を拭った。シャツにも、ジーンズにも付いていた。

 その時、ざらついた舌の感触が手首に走った。李子は思わず声を上げた。

 ブルックスが赤い舌を引っ込めている。



「よく聞け。あれが塔からのお告げだ」

 ブルックスは言った。

 幾千もの樹が奥まで続いている。枝は大きく曲がり、陽の光を通していた。車が来る。確実に迫って来ている。朝日を裂いて、タイヤの音がすぐそこまで迫ってきた。

 李子は目を凝らした。小さな化け物が窓を両手で覆っている。トラックは蛇行している。


「見ろ。鬼だ」

 銃声が鳴った。フロントガラスが粉々になった。

 赤い鬼は地面に倒れた。トラックは音を立てて脇道に急停止した。

 李子は固唾を呑んだ。

「……K地区から?」

「そうだ。ここで待機してろ。やはり女一人では危険だ」

「待ってよ。あなたも女でしょ」

「私はヒトじゃない。この森とも相性がいい」

「あっそ。猫が好きなギャングだといいわね。追い払われちゃ嫌でしょ」

「心外だね。鬼の様子を見るだけだよ」

 ブルックスは尻尾を立ててトラックに向かった。

 割れた窓から男の顔が見える。李子は構わず死体を見た。角らしきものが確認できた。弾の威力で原型すら残っていない。煙が微かに立ち上っている。

 男はトラックから降りた。

「村の住民じゃねえな。どこからきた?」

「……この子の意思から」

 ブルックスは肉片の臭いを嗅いでいる。

「黒猫の?」

「そう。女神像から来たの。ずっと向こうの入り口から」

 地面の鬼が動いた。腕らしき肉が李子の足をつかんだ。

 李子は手刀を打ち込んだ。肉は木っ端微塵になって服を汚した。泥だらけのジーンズに、黒い血が飛んだ。

「ナイス手刀」

 李子は右手を見つめた。泥と黒い血で汚れている。

「これ、鬼なの」

「ああ。俺は何度も見てるが」

「意外にもろいのね。私でも粉々になってる」

「そいつは過小評価だ。あんたの力が強いんだよ。いくら鬼でもこんなに粉砕しない」 

 ブルックスは急に黙り込んでいる。まるで二人の会話を聞くように。

「この子ったら、さっきまでよく喋ってたのに」

「猫は人が増えるとそうなるんだ。それだけ警戒心が強い」

「でも鬼とは友人だって聞いたよ。私がぶち殺したけど」

「俺の銃弾だけじゃ通用しなかったわけだ」  

 荷台から、一人の若者が顔を出した。

 李子を見て目を丸くしている。

「あなたは」

 青年は李子の顔を覗き込んだ。男も同じ視線を注いでいる。

「あんたチカチーロのボーカルじゃねえか。俺としたことが気付かなかった」

「妹を探してるの。この森にいるはず」

「麟か」

「そうよ」

「姉ちゃんが何してるんだ? 女一人入るなって聞いてるだろ」 

「ギャングの土地だってことくらい知ってるわよ」

「待った。いい加減、俺たちについて話した方がいいかな」

 男は鬼の肉片を手に取った。

「鬼殺しのボーカルなんて初めて見たぜ。この猫ちゃんも驚いてるだろ」

「名前知ってる? ルイーズじゃないわよ」

「当たり前だ。誰だと思ってんだ」

 ミノルは黒猫を抱き、顎を撫でた。

「俺もルイーズとよく間違える。この子は姉の方かな」

 黒猫は気持ちよさそうに目を閉じている。

「六月のフェス、俺たちが取り仕切ってたんだよ。でも村の人口じゃ、まだ利益は見込めなかった。それに解散までゴタゴタしてたからな」

「……私たちについても」

「知ってたよ。足場の手配もある。こんな山奥まで来る若者は少なくてよ。人手にはほんと困ってんだ。森と猫ちゃんの間で愚痴るなって話だけど」

「……成功したって、言えるかしら。私たち、あんな騒動起こしたのに」

「その意思を確かめに来たんだろ。黒猫の案内を借りて」

 ミノルは黒猫を地面に降ろした。尻尾が立った。

「俺たちも出口を探してる。トラックのことはいい。俺もこの森を知りたいんだ」

「李子さん」

 青年が言った。

「一緒に向かいませんか。まだ遠くにあるので」

「ブルックス、お願い」

 李子は言った。

「道、案内してくれる? 女神の像までね」

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