「池の水が飲めないのは、お前たちヒトも同じだ。この泥色のジュースを避けるなら、出口まで生き抜く他ないんだ」
ブルックスは池の上を歩いた。肉球が泥にめり込んでいく。黒い尻尾を器用に上げ、泥から離していた。
「李子」
振り返ってブルックスは言った。
「ここは昔、太陽を映していた。私の親も、兄弟も、この水を飲んで生きた。透明で、目が眩むほどの水だった」
尻尾は弧を描いて綺麗に閉じた。
「恋人たちの道しるべだったんだよ。日記に黒猫を見た、と書き記す者もいたはずだ」
「でもどうして知ってたの? 逃げ出す方はルイーズだって、カナから聞いたことあるけどさ」
「私たちはどこに、どの道があるか日頃から探してる。ルイーズが聞かせてくれたのさ。森の奥、朽ちた池のことをね」
李子は靴下を脱いだ。
「待って。私も行く」
「君は重過ぎる。沼に沈むぞ」
池は李子の足を呑み込んでいった。音もなく足首を掴んで、離れる気配がない。
「条件だ」
ブルックスは李子に飛び掛かった。
「ちょっと」
黒猫を振り解こうと李子は足を抜いた。
その瞬間、真っ白な頬が土色に変わった。髪にも付着している。李子は泥に倒れた。
「私と同じ目の高さになってもらう。そのまま話を聞いてほしい」
「いいわ。早く言いなさいよ」
「ここで待つように聞いているんだ」
李子は体を起こした。
「私たちは様々な人間から情報を得ている。麟も例外ではない」
「会ってるのね」
「そうだ。この森で私に聞かせたんだよ。死の池で待てと。ヒトのなかには、獣と通じ合える者がいるんだ。麟がその一人だった。本当だ」
「質問。猫は赤鬼を恐れているんじゃないの?」
「誤解だ。赤鬼が狙うのはヒトだけなんだ。私たちとは友人なんだよ。君は信じないとは思うが」
「嘘。そんな鬼、いるわけないじゃない。あなたたちとも友人だなんて」
「じゃれ合うことはよくある」
「……あなたって男の子みたいね」
「私は雌だよ。黒い毛を誇りにしている。あの朝、カナが段ボールを見つけなければ死んでいた。ヒトを憎まなくなったんだ。今度は私が、せめて森まで引き入れようと思ったのさ。ヒトが迷う顔など見たくないからね」
李子は体中の泥を拭った。シャツにも、ジーンズにも付いていた。
その時、ざらついた舌の感触が手首に走った。李子は思わず声を上げた。
ブルックスが赤い舌を引っ込めている。
「よく聞け。あれが塔からのお告げだ」
ブルックスは言った。
幾千もの樹が奥まで続いている。枝は大きく曲がり、陽の光を通していた。車が来る。確実に迫って来ている。朝日を裂いて、タイヤの音がすぐそこまで迫ってきた。
李子は目を凝らした。小さな化け物が窓を両手で覆っている。トラックは蛇行している。
「見ろ。鬼だ」
銃声が鳴った。フロントガラスが粉々になった。
赤い鬼は地面に倒れた。トラックは音を立てて脇道に急停止した。
李子は固唾を呑んだ。
「……K地区から?」
「そうだ。ここで待機してろ。やはり女一人では危険だ」
「待ってよ。あなたも女でしょ」
「私はヒトじゃない。この森とも相性がいい」
「あっそ。猫が好きなギャングだといいわね。追い払われちゃ嫌でしょ」
「心外だね。鬼の様子を見るだけだよ」
ブルックスは尻尾を立ててトラックに向かった。
割れた窓から男の顔が見える。李子は構わず死体を見た。角らしきものが確認できた。弾の威力で原型すら残っていない。煙が微かに立ち上っている。
男はトラックから降りた。
「村の住民じゃねえな。どこからきた?」
「……この子の意思から」
ブルックスは肉片の臭いを嗅いでいる。
「黒猫の?」
「そう。女神像から来たの。ずっと向こうの入り口から」
地面の鬼が動いた。腕らしき肉が李子の足をつかんだ。
李子は手刀を打ち込んだ。肉は木っ端微塵になって服を汚した。泥だらけのジーンズに、黒い血が飛んだ。
「ナイス手刀」
李子は右手を見つめた。泥と黒い血で汚れている。
「これ、鬼なの」
「ああ。俺は何度も見てるが」
「意外にもろいのね。私でも粉々になってる」
「そいつは過小評価だ。あんたの力が強いんだよ。いくら鬼でもこんなに粉砕しない」
ブルックスは急に黙り込んでいる。まるで二人の会話を聞くように。
「この子ったら、さっきまでよく喋ってたのに」
「猫は人が増えるとそうなるんだ。それだけ警戒心が強い」
「でも鬼とは友人だって聞いたよ。私がぶち殺したけど」
「俺の銃弾だけじゃ通用しなかったわけだ」
荷台から、一人の若者が顔を出した。
李子を見て目を丸くしている。
「あなたは」
青年は李子の顔を覗き込んだ。男も同じ視線を注いでいる。
「あんたチカチーロのボーカルじゃねえか。俺としたことが気付かなかった」
「妹を探してるの。この森にいるはず」
「麟か」
「そうよ」
「姉ちゃんが何してるんだ? 女一人入るなって聞いてるだろ」
「ギャングの土地だってことくらい知ってるわよ」
「待った。いい加減、俺たちについて話した方がいいかな」
男は鬼の肉片を手に取った。
「鬼殺しのボーカルなんて初めて見たぜ。この猫ちゃんも驚いてるだろ」
「名前知ってる? ルイーズじゃないわよ」
「当たり前だ。誰だと思ってんだ」
ミノルは黒猫を抱き、顎を撫でた。
「俺もルイーズとよく間違える。この子は姉の方かな」
黒猫は気持ちよさそうに目を閉じている。
「六月のフェス、俺たちが取り仕切ってたんだよ。でも村の人口じゃ、まだ利益は見込めなかった。それに解散までゴタゴタしてたからな」
「……私たちについても」
「知ってたよ。足場の手配もある。こんな山奥まで来る若者は少なくてよ。人手にはほんと困ってんだ。森と猫ちゃんの間で愚痴るなって話だけど」
「……成功したって、言えるかしら。私たち、あんな騒動起こしたのに」
「その意思を確かめに来たんだろ。黒猫の案内を借りて」
ミノルは黒猫を地面に降ろした。尻尾が立った。
「俺たちも出口を探してる。トラックのことはいい。俺もこの森を知りたいんだ」
「李子さん」
青年が言った。
「一緒に向かいませんか。まだ遠くにあるので」
「ブルックス、お願い」
李子は言った。
「道、案内してくれる? 女神の像までね」