シェルターの外観は今も誤った情報が絶えない。建設から数年経つのに、未だ村との連携はなかった。まるで見放したようだった。
村の子供たちは「ミサイルの隠し場所」と指を差すようになった。事実、山の中の軍事施設と信じ込む者が増えていた。K地区に近寄るな。いつか教師が言った忠告が身に染みたのだ。
スキー遠足の開催すら、村の住人は話そうとしなかった。宿の女性スタッフが引率しても、当日については硬く口を閉ざした。子供たちがいる場所。そう信じている者は少なかった。
夜間でも屋根の白さは異様である。辺り一帯を占める山から鮮明に浮き出ていた。今宵も梟が鳴く。
「李子ちゃん。辰さんに迷惑かけな。あんたの親父さんだって、この人を散々困らせたんだから」
ある日、李子はバーにいた。
マスターの言葉に笑った。同じバンドにいた、とだけは幼少の頃から知っていた。
もっともクラリネットは吹けない。いつもSPレコードを手に取っては棚に戻す背中を見ている。写真の中で若いカップルが微笑んでいる。人通りの少ない村の通りで、〈ふらんそわ〉の文字は明るかった。
童謡の歌詞の通りなら、困るのは子供の方だった。音の出ないクラリネット。李子は確かに一度だけ口を付けたことがあった。勝手に、興味本位で触れたのだ。
目の前で煙を吹かす男がいる。
楽器を決して教えなかった父親と同じ背だった。
「あなたが、辰さん」
カウンターの男は振り向いた。少しだけ笑った。隆五も微笑んでいる。李子は急にお腹が減った。
豹の声が飛んだ。
「今日は結成祝いだ。みんな好き勝手やってくれ」
李子の目の前に一匹のデブ猫が過ぎた。どこからかやってきて、カウンターを我が物顔で歩いていった。
バンド結成話を聞いているのか、よく見ると薄目を開けている。 太い腕を何とか畳み、「俺がバーの主だ」とばかり椅子に着いた。
李子が手を伸ばすと、猫は逃げるように椅子から降りた。
バーから嘲笑が飛んだ。
「悪いね。俺たち猫に好かれてんの」
豹が言った。
隆五の顔に見たことない笑みがある。
「君が歌い手になるまで、寄り付こうとしないだろうね」
李子はバーを出た。
広場までの通りを一人歩いた。夜空を仰いで、暗闇に目を見開いて歩き続けた。
森の中でまた梟が鳴いた。地上を歩く猫の耳が立った。
「ブルックス」
李子は黒猫の腕をつかんだ。大きな瞳に、自分の顔が映っている。
「ねえ、森に連れてってくれる? 辰さんの知らない道からね」
李子は猫を下ろした。にらめっこで時間を潰すわけにいかない。猫は着いて来いとばかり歩き始めた。変わらず道が続いている。覚えている限りここは大人の姿がない。近所で遊ぶ友達、学校で出会った友達、そして妹の麟以外を見たことがなかった。
やがて芝生の公園が目に入った。入口の看板には〈ボールで遊んでいけません。めいわくです。やめましょう〉と、町内会の殴り書きがある。
霧が降りて遊具が見えなかった。李子は周囲を見渡した。黒い尻尾が公園のどこかに消えている。
「李子」
知らない女性の声だった。李子は無人のブランコを見た。滑り台にも人影はない。
「私はカナの飼い猫だ。名前はブルックスで間違いないよ。ルイーズとの違いは声だ。姉の私はあまり鳴かない」
ヒトと変わらない声だった。
一匹の黒猫がゆっくり歩いてくる。
「ここで私は目を開けた。段ボールの中でね。今日みたいな霧が包んで、誰もいなかった。もちろん、私のママもだ。小さな箱の片隅で、ルイーズが鳴いていた。寒くて、寒くて、めいっぱい鳴いた朝だった」
李子は目を丸くした。ついさっき目の前を歩いた黒猫が口を動かし、声を出している。
「待って。あなたほんとにブルックスなの?」
「猫が知らない道などないんだよ。信じてくれ」
「麟が無事か、それだけ知りたいの。あの子、解散が決まってから一度も見てないのよ」
「知らないと言ったら? それとも、鬼に聞けと言えばいいかな」
「猫が知らない道はないって言ったよね」
「李子、その前に」
ブルックスは李子の肩に飛び乗った。
「泥の池がある。ずっと奥に」
「……森に」
「そうだ。今から行くぞ。私の言う通り歩けばいい」
「もう跡形もないかもよ」
「私たちにとっては生きた鏡なんだ。今でもそうだ。それを確かめに行くぞ」
「待ってよ。森に入ってどうなるかわかってる? 私、ヒトなのよ」
「だから何だ。さあ、歩け。必ず私が案内する」
李子は足元の枯葉を踏み続けた。森までの道が続いている。乾いた音が飛んだ。
「よく聞くんだ。ヒトも、獣も、同じ音が鳴るだろう? 池までの聖域に、この枯葉の音は必要なんだ。戦車が通ってもこうは鳴らない。もちろん、車もだ」
李子は肩越しからの声を聞いた。ゴロゴロと喉が鳴っている。猫にしか鳴らない音だった。
「あなたたちって、どうしてそんな音出せるの? お腹減ってるわけじゃないよね」
ブルックスはあくびをした。
「普通、ご飯を食べた後に鳴らすのよ」
「あいにくだな。私は森へ向かう度に鳴る。なぜかはわからない。ヒトで言う好奇心がそうさせるのかもね。それにこの時間は猫にとって最適だ。昼は暑すぎる」
「夜も好きでしょ? よく鳴いてるもの」
「もちろんだ。ヒトほど朝の区別がないのかもしれない」
「まっすぐでいいのね。池、がっかりさせないよね」
「私が見た頃には枯れていたんだよ。お役所が池の管理を放り投げたのさ。雨はそんな堕落を逃さなかった。おかげで私たちの喉が潤った。森のあちこちに水たまりができたからね」
李子は足を止めた。
白い女神像が二体、裸のままそびえ立っている。腕の下には暗闇が果てしなく続いていた。
「いつからあるか知ってる?」
「そういうことは月に聞けばいい」
「ブルックス」
「何だ。引き返すなんて選択は許さないぞ。お前も、私も森を潜る覚悟があるなら」
「辰さんのこと。いつもここで待機してる」
「リズム隊の男か。何度か見かけたぞ」
「……待ってるだけなんてできない。だから出かけたの」
「甘えだ。いつも自分には仲間がいると思ってるだろ。人間らしいな」
「獣だってそうでしょ? 違うの? 歌い手が黙ってるなんて苦痛でしかないのよ」
「お前の本音が聞けて満足だ。さあ、行くぞ」
李子は女神像の下を潜った。