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第28話

 シェルターの外観は今も誤った情報が絶えない。建設から数年経つのに、未だ村との連携はなかった。まるで見放したようだった。

 村の子供たちは「ミサイルの隠し場所」と指を差すようになった。事実、山の中の軍事施設と信じ込む者が増えていた。K地区に近寄るな。いつか教師が言った忠告が身に染みたのだ。

 スキー遠足の開催すら、村の住人は話そうとしなかった。宿の女性スタッフが引率しても、当日については硬く口を閉ざした。子供たちがいる場所。そう信じている者は少なかった。

 夜間でも屋根の白さは異様である。辺り一帯を占める山から鮮明に浮き出ていた。今宵も梟が鳴く。


「李子ちゃん。辰さんに迷惑かけな。あんたの親父さんだって、この人を散々困らせたんだから」

 ある日、李子はバーにいた。

 マスターの言葉に笑った。同じバンドにいた、とだけは幼少の頃から知っていた。

 もっともクラリネットは吹けない。いつもSPレコードを手に取っては棚に戻す背中を見ている。写真の中で若いカップルが微笑んでいる。人通りの少ない村の通りで、〈ふらんそわ〉の文字は明るかった。

 童謡の歌詞の通りなら、困るのは子供の方だった。音の出ないクラリネット。李子は確かに一度だけ口を付けたことがあった。勝手に、興味本位で触れたのだ。

 目の前で煙を吹かす男がいる。

 楽器を決して教えなかった父親と同じ背だった。

「あなたが、辰さん」

 カウンターの男は振り向いた。少しだけ笑った。隆五も微笑んでいる。李子は急にお腹が減った。  

豹の声が飛んだ。

「今日は結成祝いだ。みんな好き勝手やってくれ」

 李子の目の前に一匹のデブ猫が過ぎた。どこからかやってきて、カウンターを我が物顔で歩いていった。

 バンド結成話を聞いているのか、よく見ると薄目を開けている。 太い腕を何とか畳み、「俺がバーの主だ」とばかり椅子に着いた。

 李子が手を伸ばすと、猫は逃げるように椅子から降りた。

 バーから嘲笑が飛んだ。

「悪いね。俺たち猫に好かれてんの」

 豹が言った。

 隆五の顔に見たことない笑みがある。

「君が歌い手になるまで、寄り付こうとしないだろうね」 

 李子はバーを出た。

 広場までの通りを一人歩いた。夜空を仰いで、暗闇に目を見開いて歩き続けた。

 森の中でまた梟が鳴いた。地上を歩く猫の耳が立った。



「ブルックス」

 李子は黒猫の腕をつかんだ。大きな瞳に、自分の顔が映っている。

「ねえ、森に連れてってくれる? 辰さんの知らない道からね」

 李子は猫を下ろした。にらめっこで時間を潰すわけにいかない。猫は着いて来いとばかり歩き始めた。変わらず道が続いている。覚えている限りここは大人の姿がない。近所で遊ぶ友達、学校で出会った友達、そして妹の麟以外を見たことがなかった。

 やがて芝生の公園が目に入った。入口の看板には〈ボールで遊んでいけません。めいわくです。やめましょう〉と、町内会の殴り書きがある。

 霧が降りて遊具が見えなかった。李子は周囲を見渡した。黒い尻尾が公園のどこかに消えている。


「李子」

 知らない女性の声だった。李子は無人のブランコを見た。滑り台にも人影はない。

「私はカナの飼い猫だ。名前はブルックスで間違いないよ。ルイーズとの違いは声だ。姉の私はあまり鳴かない」

 ヒトと変わらない声だった。

 一匹の黒猫がゆっくり歩いてくる。 

「ここで私は目を開けた。段ボールの中でね。今日みたいな霧が包んで、誰もいなかった。もちろん、私のママもだ。小さな箱の片隅で、ルイーズが鳴いていた。寒くて、寒くて、めいっぱい鳴いた朝だった」

 李子は目を丸くした。ついさっき目の前を歩いた黒猫が口を動かし、声を出している。

「待って。あなたほんとにブルックスなの?」

「猫が知らない道などないんだよ。信じてくれ」

「麟が無事か、それだけ知りたいの。あの子、解散が決まってから一度も見てないのよ」

「知らないと言ったら? それとも、鬼に聞けと言えばいいかな」

「猫が知らない道はないって言ったよね」

「李子、その前に」

 ブルックスは李子の肩に飛び乗った。

「泥の池がある。ずっと奥に」

「……森に」

「そうだ。今から行くぞ。私の言う通り歩けばいい」

「もう跡形もないかもよ」

「私たちにとっては生きた鏡なんだ。今でもそうだ。それを確かめに行くぞ」

「待ってよ。森に入ってどうなるかわかってる? 私、ヒトなのよ」

「だから何だ。さあ、歩け。必ず私が案内する」

 李子は足元の枯葉を踏み続けた。森までの道が続いている。乾いた音が飛んだ。

「よく聞くんだ。ヒトも、獣も、同じ音が鳴るだろう? 池までの聖域に、この枯葉の音は必要なんだ。戦車が通ってもこうは鳴らない。もちろん、車もだ」

 李子は肩越しからの声を聞いた。ゴロゴロと喉が鳴っている。猫にしか鳴らない音だった。

「あなたたちって、どうしてそんな音出せるの? お腹減ってるわけじゃないよね」

 ブルックスはあくびをした。

「普通、ご飯を食べた後に鳴らすのよ」

「あいにくだな。私は森へ向かう度に鳴る。なぜかはわからない。ヒトで言う好奇心がそうさせるのかもね。それにこの時間は猫にとって最適だ。昼は暑すぎる」

「夜も好きでしょ? よく鳴いてるもの」

「もちろんだ。ヒトほど朝の区別がないのかもしれない」

「まっすぐでいいのね。池、がっかりさせないよね」

「私が見た頃には枯れていたんだよ。お役所が池の管理を放り投げたのさ。雨はそんな堕落を逃さなかった。おかげで私たちの喉が潤った。森のあちこちに水たまりができたからね」

 李子は足を止めた。

 白い女神像が二体、裸のままそびえ立っている。腕の下には暗闇が果てしなく続いていた。

「いつからあるか知ってる?」

「そういうことは月に聞けばいい」

「ブルックス」

「何だ。引き返すなんて選択は許さないぞ。お前も、私も森を潜る覚悟があるなら」

「辰さんのこと。いつもここで待機してる」

「リズム隊の男か。何度か見かけたぞ」

「……待ってるだけなんてできない。だから出かけたの」

「甘えだ。いつも自分には仲間がいると思ってるだろ。人間らしいな」

「獣だってそうでしょ? 違うの? 歌い手が黙ってるなんて苦痛でしかないのよ」

「お前の本音が聞けて満足だ。さあ、行くぞ」

 李子は女神像の下を潜った。

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