「出口へ急ぎなさい。ここは私に」
それが賢者の顔なんて誰が信じる? ふざけた海賊放送を流した男だなんて、誰が信じる?
「マルクさん。あなた村へ帰るって言いましたよ」
信じられないくらい、彼に変化はなかった。
下で子供たちが泣き叫んでいるのに、もうすぐ炎が、煙が、襲い掛かってくるというのに。
右手のベレッタは稲光している。銃なんて、一体どこに隠してたんだ。九ミリの他、三種類もの弾が装備できる、と話した。村で持っていたら即逮捕だ。
銃身は黒く、美しかった。
「あなたは勇者だ。美沙たちと共に帰りなさい」
銃声が窓を破った。
粉々になって死体のそばに振りそそいだ。
「この男は精神科医ではありません。子供たちを買ってるだけです。さあ、早く。勇者に火だるまは似合いませんよ」
「……なぜ子供を?」
「火を前にして、ここではお答えできません。一つ、言えることは」
シェルターが炎に包まれて、俺も、旅人も、美沙さんも、そこにいた誰もが振り返ることをやめた。
名前も知らない子供たちの、その小さな体を包む真っ赤な炎を、この目に入れたくなかったから。
たくさんの子供を救えたはずだ。荷台に乗せて、村へ、暖炉のある宿へ連れて行くこともできたはずだ。
「この子たちに罪はありません。さよなら、美沙によろしく」
トラックが止まる。旅人が忠を連れて待機している。
ミノルが駆けつけた時には、もう屋根が崩壊していた。赤い炎が空高く上がって、悲鳴すらも消していた。
美沙さんは忠のそばに座った。忠は言葉を押し殺していた。涙すらも、どこかへ押し殺したようだった。
森の中が猛烈な速さで走り去っていく。たくさんの木が過去になった。
途中で、すれ違った少女が一人。
荷台から身を乗り出して、俺は言った。
「麟!」
その時、少女は確かに微笑んだ。トラックは麟を置いて出口へ急いでいた。女神像まで間もなく到着する。
宿に着いてすぐに忠をベッドに寝かせた。
ずっと小さな頃に見た顔と似ていた。
「兄ちゃんが燃やしたんだ。子供たちが死んだけど、僕は助かった」
なぜ話すことを選んだのか、なぜ俺たち大人に伝えたのか、しっかり考えた。K地区が隔離している理由。それを忠の顔を見て知った気がする。誰もがいい子に育つ場所だった。忠も、その一人に過ぎないはず。
ミノルが俺の肩に手を当てる。ライオンみたいに太い腕だ。その瞬間、こらえきれず泣いてしまった。
ドアノックに振り返ると、辰さんがいた。ベッドに寄った。そしてドラムスティックを忠の枕元へ置いた。
眠っている。涙をこぼして、眠っていた。
「バイクの音、君も聞こえたよね?」
旅人が言った。
机のあった部屋、窓の向こうから聞いた郵便屋さんの音。
「実は郵便屋が鬼だってこと、僕も知ってたんだ。ジロー君が火を点けたのが本当なら、あのバイクが関係してないわけがない。いつか夜道で話したけど、鬼にも決意があるんだよ」
「その通りだ」
ミノルが言った。
でもどうして、俺に伝えてくれなかったんだ。それがわからない。
「鬼との約束、お前にバラすとどうなる? 鬼たちはそんな人間、見捨てると思うぜ。あいつらにもルールがある。俺たちと一緒だ」
「わかるんだよ。俺だけ、知らなかったことが納得いかないんだよ。鬼なんて、いないと思ってたからさ……友達に言えないことなんて、ないと思ってたんだよ」
そうだ。初めて女神像を見上げた時代も。
旅人は部屋を出た。バタンと、随分大きな扉の音がした。
こんなに長い季節は春だけだ、きっと。
「兄貴と会ったことあるんだな」
ミノルは言った。
「ちょいと昔、二人のガキと出会ったって聞いてる。お前と、ジローのことだろ? だから放っておくわけにいかなかったのさ……同じ親持つ兄弟ってのは、いつだって助け合うもんさ」
魚籠は十歳の俺、ジローと森を歩いた。遠い昔に。
「森の中でのこと、一度も聞かせてくれなかったんだ。きっと俺が、ひよっこだからだろう。子供がいた。それだけさ」
「……湖があるって、物心付いた頃から聞いてたよ。でも、あれは湖だったのかわからないんだ。もちろん、魚籠の行方についても」
「幹部はお前たちに目を付けたわけじゃない。しばらく塔も大人しいと思うぜ」
塔に向かったことが信じられなかった。この宿に戻ったことも。
「世話になったよ、ありがとう」
「お前」
ミノルはまっすぐ俺を見た。
「いつか、俺たちと野球やらないか? 外野が足りねえんだ。場所なら任せてくれ」
俺たちは握手した。グローブに左手を通すまで、まだ時間は必要だ。
ジローの行方は知らない。
たぶん、麟と同じ夜を過ごしている。小さな狼の群れのなかで、月明かりの真下、塔を眺めて生きている。
忠は眠ったままだ。ポストカードの返事は、もう少し先になる。
旅人の男性、もう少しだけ滞在するみたい。
美沙さんは宿にいる。
辰さんは変わらず森の入り口にいる。李子さんと、蕎麦屋に行く日もあるようだ。
もなこちゃん、カナちゃんにも時々会う。また同じステージで歌いたいと聞いた。
俺は今、カウンターで水を飲んだばかり。
「昔、死んだ爺さんが言っていました。あの森を抜けると湖があるって。それが泥だらけの小さな池だなんて、今も信じてません」
豹は頷いている。ここへ来る度に昔話をする。爺さんは俺の背が伸びる少し前、村の住人として、決して入るなと伝えた。その忠告を破った俺は、同じ席で、同じ水を飲んでいる。いつか爺墓の前でこっぴどく叱ってもらおうと思う。いつも煙を吹かす顔が好きだった。一体、何本吸ってたのか知らないけど。皺だらけで、かっこよかったことを覚えている。
でも地図については、一言も聞いたことがない。
ガキの俺には、早かったのかも。
「地図、返ってきました」
俺はカウンターで地図を広げた。
名もなき旅人が落としたらしい紙。豹は目を丸くしている。
「魚がいる……か。なるほど」
よく見ると碇のマークがある。船が泊まることを指している。
町の名については、イルカの群れと、ロブスターの大きな腕に聞く以外ない。
「うちの死んだ爺さんも言ってたよ。森を抜けると湖があるってな。うんと昔にね」
豹は微笑んでいる。ふと背中を見た。バナナシェイク売りのおじさんも、笑顔だ。
「魚籠とは付き合いでさ。森の中で元気でいるといいけどな」
あのバナナシェイク、飲みたくなった。
俺も随分会っていない。一緒に泥の池を見たあと、別れたきり。蜘蛛に喰われたなんて決めつけだ。赤鬼に負けることも、森の中で息絶えることも決めつけだ。背中が焼き付いている。彼は仲間を殺されて、あの森に足を延ばした。
一歩動くと池に落ちる。だから、ジローの肩に手を掛けた。
これが湖かと思うと、何も言えなかった。濁って底まで見えない。周囲に雑草が今にも覆いつくそうと伸びていた。不思議と臭いはしなかった。底が見えない小さな池に、魚なんていなかった。まだ鉛筆を片手に閉じ込めた時代、神々が住む森の向こうで、一番の友達と見た泥の池。夢を見ていた、なんて口が裂けても言いたくない。
それに地図は薄汚れたまま手元にある。
偶然見つけた張本人も、美人の調査団団長も、皺くちゃ目尻のドラマーも、この地図を見ている。ある晴れた波止場の地図を見ている。船乗りたちが揃う、遠い波止場を見ている。
だから、忠の言葉を信じる他なかった。
「遠くに海があるんだ。僕は見たことないけど」
中学の休み時間を覚えている。
森について話すと、「本当に化けたの?」と必ず返ってくる。ショートカットのその子とはそれきり。俺の知らない街で、今頃は生物学でも専攻しているかもしれない。
十歳だったなんて信じない。信じてもらえないままだろう。森の果ての出来事、すべて。自分より何倍もの大きさの蜘蛛を信じる者はいないはず。
だってあれはこの目で見たことだから。蜘蛛を追って何になる? 大人になった俺を裸で迎えるとは思えない。きっと鬼と同じように警戒する。あの森について、誰かに話すことは永久にないかもしれない。ジローとの記憶を閉じ込める。それが俺の気持ち。たとえ馬鹿にされても揺らぎはしないはず。
豹がバーの外まで迎えてくれた。例のデブ猫が追った。きっと俺の話、夢の中で聞いていたに違いない。
店の前で、豹と抱き合った。酒臭かった。ジローによろしく、とだけ伝えて、豹は店に戻った。チカチーロ再結成まで、あとどれくらいの朝が必要なのだろう。李子さん、辰さんと話した夜が嘘みたいだった。
ふと空を見上げた。星の明かりがそろそろ消える。村の向こうでサイレンの音を聞いた。そのせいか梟の鳴き声が途切れている。足元の猫を見た。大きな体で、大きなあくびをしている。全身を覆うキジトラの毛並みが微妙に揺れている。風の仕業だ。生暖かく、両手でつかめそうなほどの温度。何年も、何年も、ジローが隣にいた 当時から全く変わっていない、とても柔らかで、強い風だ。
猫は俺のそばを離れ、村の通り、まだ暗い住宅街に消えてしまった。
自慢の耳を、夜明けの空に向けて。
(了)