「ぴゃあああっ!?ティーファ!何してるんスかぁ!?」
「そっちこそ何やってんのよ、見え見えなのよ。逃げる気満々な位置取り」
「ち、違うんス!これはその……小便が!トイレに行きたくて!」
ブランブランと宙づりにされたユミルは、必死に言い訳を並べ立てる。
だが彼女の尾びれは、明らかに「逃走準備完了」のサインを出していた。
「うおおおっ!」
「とりあえず、あの吊るされてる魚をぶっ殺せ!その後ゼノンさんのところに持ってくんだ!」
そんなやり取りをしている内に戦闘が始まったようだ。
不良達の怒号と共に、無数の魔導弾が宙吊りのユミルへと放たれる。
金属の筒が空気を切り裂く音を聞いた瞬間、人魚の顔から血の気が引く。
「ぴゃあああああっ!!誰か助けてぇぇぇ!!」
ユミルは尾びれをバタバタと震わせながら、女子とは思えぬ無様な悲鳴を上げる。
だがその瞬間──。
シュルシュルシュル……。
無数の蜘蛛の糸が空間を這い、芸術を紡ぐかのように網目を作り上げていく。
放たれた魔導弾は次々と糸に絡め取られ、まるでモビールのように宙に浮かんだまま固定された。
「……は?」
不良達の口から、間の抜けた声が漏れる。
ティーファは、ゆっくりと指を上げ……そして、糸を操るように、ふわりと手首を返した。
「うぎゃあああっ!?」
不良達の悲鳴が響く。
彼らが放った魔導弾が、180度向きを変え、今度は放った本人達へと飛んでいった。
「くそっ!避けろぉ!」
だが、その声が空しく響いた瞬間。
ティーファの放った蜘蛛の糸が、不良達の足首を巧みに絡め取る。
人形使いのように、彼らの動きを完全に封じ込めたのだ。
「がはっ!?」
自分達が放った魔導弾の衝撃波を、至近距離で喰らう不良達。
彼らは目を白黒させながら、次々と気絶していった。
「はぁ……」
ティーファは八本の脚でため息をつくように床を掻く。
「アラクネ相手に飛び道具なんて使うなんて……アンタら、本気でバカなの?」
ユミルは宙吊りになったまま、ポカンと口を開ける。
先ほどまでの強気な態度も、人魚の尊大さも、どこかへ吹き飛んでしまっていた。
(マジ?この蜘蛛、こんな強かったっス……?)
ブランブランと揺れながら、ユミルはティーファの意外な強さに驚きを隠せない。
だが、すぐに納得が訪れる。
──話に聞く、あの日の例の抗争。
支配者(という名の酔っ払い英雄)が学園を氷漬けにした時、ティーファもその場にいたらしい。
あれはゼノンとティアマトのグループの抗争だと聞く。
(ティーファって、ティアマトグループ……?)
ゼノン一派すら一目置く凶悪な武闘派組織。それが、女傑ティアマトを頂点とした勢力なのだ。
なるほど──そういうことか。
ティーファがゼノンの手下に躊躇なく戦いを挑むのも、納得の話だった。
「テメェが貴族だかなんだか知らねぇが……喋れなくなるまでボコれば告げ口も出来なくなるぜ……!」
「その魚を庇った事を公開するんだな!」
その時、ユミルの視線がルナリアへと向けられる。
エルフの青年は、10人近い不良に完全に包囲されていた。
それなのに、彼は薄く微笑んでいるだけ。その表情には、どこか余裕すら感じられる。
(ヤバいっス!ルナリアがやられちゃう!)
ユミルは青ざめた顔で彼を見つめる。
先ほどのオーガとの戦いを見ていない彼女には、ルナリアの実力が見当もつかないのだ。
ユミルの頭の中で、真の危機が走る。
ルナリアが倒されてしまえば、彼女の最強の切り札である「貴族カード」が使えなくなってしまう。
自分の身を守る最後の砦が、今まさに崩れ去ろうとしているのだ。
宙吊りにされた人魚は、自分の保身のために他人を心配するという、実に彼女らしい矛盾を体現していた。
「ご心配なく」
ルナリアは優雅に微笑みながら、不良達に向かって言った。
「子供の喧嘩程度に、貴族の権威など持ち出すつもりはありませんので」
その言葉に、不良達の表情が一変する。
オークの青筋が浮かび上がり、トロルの牙が剥き出しになる。
(やっちまったーっス!余計な事言うなよぉ!)
宙吊りのユミルは心の中で悲鳴を上げる。
せっかくの切り札が、台無しになってしまう──。
だが、その心配は次の瞬間に木っ端微塵となった。
「うおおおっ!」
不良達が一斉に殴りかかる。
その瞬間、ルナリアの姿が消える。
いや、消えたのではない。彼は地面すれすれまで身を沈め、まるで水が流れ込むように不良達の懐に潜り込んでいた。
「なっ!?」
突如として目の前に現れた金髪のエルフに、不良達は慌てて距離を取ろうとする。
しかし──もう遅かった。
ルナリアの端正な顔に、それまでの優雅な笑みは消えていた。
代わりに浮かび上がったのは、戦いへの覚悟とでも言うべき冷たい輝き。
「──はぁっ!」
舞踏のように──ルナリアの動きには無駄が一切ない。
オークの巨体が振り下ろす拳を、彼は髪一筋すら乱すことなく躱す。
その隙に、風のように相手の懐に滑り込み、一撃で意識を刈り取っていく。
「て、てめぇ……!」
ラミアの長い尾が空を切る。
だがルナリアは既にその上空へと跳躍し、蛇の尾を踏み台に更に高く舞い上がる。
「気を付けろ、こいつただものじゃ……うがっ!?」
ハーピーの群れが襲いかかるも、彼は空中で優雅に身をひねり、一人また一人と確実に叩き落としていく。
トロルの怪力すら、彼には届かない。
全ての動きを読み切ったかのように、ルナリアは相手の死角へと回り込み、首筋を的確に打ち抜いていく。
その光景は、暴力とは無縁の芸術作品のようだった。
ルナリアの金色の髪が風に靡くたび、また一人の不良が倒れていく。
「……へっ?」
「……」
宙吊りにされたユミルと、ティーファは、その圧倒的な強さに言葉を失っていた。
彼女達の目の前で、貴族の子息は無数の不良を華麗に薙ぎ倒していく。
「す、すげぇ〜……」
宙吊りになったまま、ユミルは感嘆の声を漏らす。
数十人の不良たちが、今や廊下の床に散らばっている。
一方のルナリアには、傷どころか髪の乱れすら見当たらない。
圧倒的──その言葉以外に形容のしようがない戦いだった。
ルナリアは静かに息を吐くと、優雅な足取りでユミルとティーファの元へと歩み寄る。
その仕草には、先ほどまでの冷徹な殺気は微塵も残っていない。
「大丈夫だったかい?」
金色の髪が朝日に輝き、端正な顔立ちに穏やかな微笑みが浮かぶ。
その姿に、ティーファは動きを止めた。
「あ……」
思わず見惚れてしまった自分に気付き、ティーファは慌てて首を振る。
ブンブンと、蜘蛛の巣から水滴を振り落とすように激しく。
「べ、別に!見てただけだし!」
彼女は照れ隠しに頬を掻きながら、目を逸らすのだった。
一方、ユミルは──。
(なんなのよこの完璧王子様はぁぁぁ!!)
彼女の心の中で悲鳴が響く。
今まで見てきた連中とは、まるで別格の爽やかさと強さ。そして何より、その端正な顔立ち。
思わず嫉妬してしまうほどの、完璧すぎる存在感だった。
一方、ナサラオはと言えば──。
特に派手な技も使わず、ただオーガらしく力任せに戦って勝っていた。
まぁ、オーガだし当然か。よかったね、うん。
「はぁ〜、ルナリア様ぁ〜、助かったっスぅ〜」
ユミルは蜘蛛の糸から解放されると、倒れた不良達の上にドスンと着地。
その尾びれは、勝者の旗のように得意げに揺れている。
ゼノンの手下相手に完勝、しかも無傷という驚異の戦果。
それも全て、この「完璧王子様」のお陰──。
彼女はそんな事を考えながら、倒れた不良の背中を踏み台に、更に高く跳ね上がるのだった。
まるで、自分一人の力で勝ったかのように……。
「ふん!これが2-A四天王の力っス!調子に乗った雑魚共の末路って哀れっスね〜!」
ユミルは倒れた不良達の上で、可愛らしく、しかし雄々しくポーズを取る。
尾びれを得意げに振りながら、意地の悪い笑みを浮かべるユミル。
自分が戦っていないことなど、すっかり忘れてしまったかのように……。
「ぎゃはは!分かったら這いつくばって土でも舐めてろや!この虎の威を借る狐どもが!」
「げほっ……それはお前だろ……!サメの威を借る魚が……!」
その弱々しい反論に、ユミルの尾びれが閃光のように振り下ろされる。
不良は、意識を失う直前まで「この魚、マジで何もしてないのに……」という思いを抱いていたに違いない。
「やっぱ、正義って勝っちゃうんだよなぁ〜……やっぱ正義って辛いわ~」
ユミルは腰に手を当て、戦場の英雄のように高らかに宣言する。
その姿に、ルナリアは「まぁ、いいか」とでも言いたげな困った笑みを浮かべ、ティーファとナサラオは思わず溜め息をつく。
勝利の美酒に酔いしれる人魚。
だが──。
「……それで?」
ティーファの鋭い声が、その陶酔を打ち砕く。
「アンタ、一体何があったのか説明してもらおうかしら?」
その問いに、その場の空気が一変する。
そういえば──なぜこんな戦いになったのだろう?
確か全ては、ユミルが大量の不良に追いかけられ、自分達に「なすりつけるように」逃げ込んできたところから始まった。
「あー……えっと……そのぉ……」
ユミルは目をキョロキョロと泳がせながら、冷や汗を垂らす。
ティーファ、ルナリア、ナサラオの三人の視線が、彼女に集中した。
ティーファの睨む視線、碧眼、そして巨体からの眼差し──その全てが「こいつが絶対悪い」という確信に満ちていた。
「ち、違うんスよ!」
追い詰められた人魚は、突如として声を張り上げる。
「この可憐な乙女ユミルちゃんがぁ、何も悪いことしてないのに、あの変態共がいきなり襲いかかってきて……!多分アタシの可愛さに我慢できなくなったんスよ!きっと!」
ユミルは必死に弁解を続ける。
しかし、その言い訳はあまりにも露骨すぎた。
「つまり……」
「完全に自業自得ってことだな!?がはは!!」
周囲の冷ややかな視線に、ユミルの尾びれは更に激しく震え始めるのだった。
(まっ、まずいっス……!このままじゃアタシが悪者にされちゃう……!)
ユミルの脳味噌が、史上最高速で回転を始める。
この窮地を脱する方法、何か良い手は──。
そして突如として、彼女の中で一つの閃きが走った。人魚の目が、不気味な輝きを放つ。
(そうか!この不良どもの息の根を止めちゃえば、もう誰も真実を喋れないっス!なんて天才的な発想なんスかぁ!)
人魚の瞳が、不気味な輝きを放つ。
死人に口なし──この完璧すぎるアイディアに、ユミルは自分の知恵の深さに戦慄すら覚える。
死人に口なし──まさに完璧な計画!
ユミルは自分の知恵の回り方に陶酔しながら、陶然とした表情を浮かべる。
(うっふっふ〜♡これで真相は闇の中っス……!)
人魚は気絶している不良達に向かって、ゆっくりと尾びれを持ち上げる。
その瞬間、彼女の目は完全に狂気に染まっていた。
そうして彼女は、まるで処刑人のように尾びれを振り上げ──。
──その時だった。
「!?」
廊下の空間が、まるでゴムを引き伸ばすように歪み始める。
上下左右の感覚が失われ、天井と床の区別さえも曖昧になっていく。
「う、うぇ〜……な、なんすか、これ!?魔法……!?」
ユミルは船酔いでもしたかのように顔を歪めた。
視界の端から白い光が染み出し、水彩画に水を垂らしたように、現実の色彩が溶けていく。
廊下の風景は徐々にその形を失い、やがて全てが乳白色の靄に包まれていった。
「これは……転移魔法!?」
「え……!?」
ルナリアの端正な顔に焦りの色が浮かび、ティーファもその言葉に驚愕の表情を浮かべた。
空間そのものが捻じれ、彼らの体が宙に浮かび上がる。
深海に沈められたような浮遊感──それは、誰もが経験したことのない異様な感覚だった。
「うわぁぁ!なんか全部真っ白になってきたっス!」
「ぐお……吐きそうだぜ……!」
悲鳴が響く中、彼らの意識は次第に白い光の中へと溶けていった──。
そして数秒後──。
白い光が徐々に薄れていき、ルナリアの碧眼が新たな風景を捉える。
黒板、整然と並んだ机と椅子、窓から差し込む陽光。
「ここは……教室?」
その言葉が、静かな空間に響く。
見慣れた風景、そしてどこか懐かしい空気。
──ここは、紛れもなく、2-Aの教室だった。