車で通る道は、二人にとってまだ馴染みがなかった。
「変な感じですね……。ただの秘書と社長。それだけだったのに」
「人生、時には思いがけないこともあるさ。それにしても、この辺りは都会って感じがまだしないね。いい意味で、ほどよい田舎だ」
「……だから、選んだのでしょう」
陽介は紗希の言葉の裏には何かありそうな、そんな気がした。
「まあね。でもオフィスまでそこそこ距離があるんだよね。それだけはいただけないかなー」
「ご自分で選んだのですから、ご自分でどうにかなさってください」
「それは大丈夫。僕が一度でも遅刻したことあった?」
「ございませんね」
「そうでしょ」
ふと、紗希は気になっていたことを聞くことにした。
「陽介様、何故私を選ばれたんですか? 陽介様なら、引く手数多でしょう。こんな平凡でそこら辺にいる秘書なんかより、相応しい方はいらっしゃるかと思いますが……」
「んー、なんかね。そういうの、疲れちゃった。あとは、君なら面白そうだったし、手っ取り早そうだった。話に理解してくれる人物が身近にいるなら、そっちを選ぶでしょ」
「そんな理由で選ばれたんですか」
「うん。そうだよ」
「……今からでもやめさせてもらいます」
「出来ないの、知ってて言ってるでしょ? ちゃんと、契約期間満了まで付き合ってもらうからね」
この男は、こういうところがあるから苦手だと紗希は思った。
逃げ場をなくすことを得意とする。それも遊びで。
そして自分の手の内は明かさない。実に厄介な男なのだ。
だから、他に理由があったとしてもこの男は語らない。
(入る会社、間違えたかな……。まあ、報酬とかに惹かれて夫婦になると決めたのは私の方だし、文句ばかり言ってられないか……)
実際のところ、その生活がかなり裕福なものになることは確定していたし、食い扶持に困ることは生涯に渡ってほとんどなくなったと言ってもいい。
これで文句を言っていたら、さすがに罰を受けそうだ。
……それから、しばらくしてオフィスに着くと、二人はいつものように社長室に向かっていく。
廊下で会う人々が、皆、社長である陽介に立ち止まって挨拶をした。
「おはようございます。社長」
そんな声に、陽介も明るく「おはよう」と返す。
嫌味も何もない、真っ直ぐな人だとわかるその声に、社員達はいつも元気をもらっていると紗希は社内アンケートで見たことがあった。
それを見た陽介が「人として当たり前のことなのにねー」と、それこそ当たり前のように言っていたのも聞いていたのだった。
笑顔をよく見せて、周りも笑顔になるような、そんな太陽のような人。
……まあ、裏表がないだけで、割と紗希には「あの取引先はもうダメだよー。筋を通さなくなってきたから、今後は形だけの付き合いにしていきたいんだ。だから暑中見舞いとかもっと簡単にしちゃって」などと言っていた。
すっぱりと切り捨てることに何の罪悪感も抱かず、また自信家であることがよくわかる。
優しいと言われる彼だったが、実際のところは利益になるかどうかを非常にシビアに見る人というのが紗希の評価なのだった。
だから、自分がそんな人と夫婦になって、これからどうなるのだろうという不安も少なからずある。
形だけの夫婦だから、余計に契約期間の途中で切り捨てられないかという不安もあったし、無事契約満了となった後に、その生活に慣れすぎてしまって他の人とうまく付き合うことが出来なくなってしまうんじゃないかなど……。
「……」
「紗希、どうかした?」
「いえ、今後に、少し不安が」
「僕でよければ聞くよ。……無理にとは言わないけど。でも、僕達形だけでも、夫婦なんだからさ」
形式的なものかもしれない。そんな気持ちが強かった。
「……陽介様、夫婦とは、何をするものなんでしょうね」
「さあ。それはこれから探っていけばいいじゃん。誰だって最初から夫婦だったわけじゃないし、夫婦の数だけ夫婦の形があるんだからさ。……っと、もう始業時間だ。今日も頼むよ」
「はい。かしこまりました。社長」
「……相変わらず、切り替えが早い。だから、信頼できるよ。君のこと。本当に、頼りにしてるんだからね。紗希」
にこっと陽介は笑った。
「ええ、私は秘書ですから。さて、本日のスケジュールですが……先ほどの緊急のスケジュールを考えて少々変更させていただきたいところがございます」
「いいよ。聞こう」
ああ、気が休まらない。
仕事モードに入った彼は、どこまでも貪欲で、蛇のようで、会社のためなら何だってする。
そんな人なのだから。