街は少しずつ、春の色を見せ始めた。
それは桜などももちろんそうだが、人々は一気に薄着へと切り替え、春めいた服を着るようになったのだ。
髪の色も、女性はピンク色を取り入れたりと、どこか楽しそうだった。
一方で、紗希は髪色を変えることなく、浮ついたイメージなどはなかった。
しかしながら、不安に思うことはある。
こんな春の陽気に変わっていくというタイミングで、陽介が「もういいよね? そろそろ社内で結婚します……というか、しましたって発表しちゃうから」と言うのだった。
結婚式は、仕事が忙しかったから挙げないという、財閥としては絶対にあり得ないことをやってのけようとしたのだから、紗希は驚きを隠せない。
しかしながら、行動力のある陽介は早かった。
あの手この手と、気づけば社内から社外まで、結婚したことが広まっていったのである。
それはもちろん、陽介の親にも届いていた。
父親である龍之介はあきれ果てて言葉が出ないと秘書に「あのバカにではなくお嬢さんに何か結婚祝いを」と手配をしたのだが、さすがの秘書もそれでは……となんとか説得し、陽介にも結婚祝いを贈ることとなった。
そして、さすがに家同士の繋がりも出来るのだからと会長は忙しい時間を縫って電話を一本掛けた。
その電話先は、紗希の実家である。
もちろん、すぐにああ、そうですかと信じられるわけもなく……。すぐにかけ直すのでと紗希に電話をするのだった。
紗希のスマホが鳴ると、紗希は仕事から手を止めて、陽介に「実家から」と言うとすぐに事情を察してか、「出てあげて」と言われて電話に出た。
「あ、お母さん……。……そうだよ。本当に、結婚したの。うん。……騙されてないって。そんな人じゃないもの。お父さんに聞いてみてよ、いろんな業界に顔出してる財閥の御曹司だから、もしかしたらお父さんなら知ってるかも。陽介さんのこと。……え? あ、ああ。ごめんね。挨拶が出来なかったのは……」
いつまでも終わる気配のない電話に、陽介が紗希のスマホを取って「僕に任せて」と笑顔を見せる。
「初めまして。藤堂陽介です。いつも紗希さんには大変お世話になってます。この度、僕達結婚をいたしましたので、事後報告という形ですが、また後程ごあいさつにお伺いします。日程はいつがよろしいですか? ……ええ、ええ。お怒りはごもっともかと」
陽介はやっちゃったなーという悪戯に失敗したような顔をしながら話を続けていた。
電話から聞こえてくる声は、時間が経つにつれて冷静になってきたのか、小さくなっていく。そして、陽介が笑顔で話していると、その内スマホからも楽しそうな声が聞こえてきて、紗希は陽介の人を笑顔にしてしまう魅力に恐ろしさを感じつつ、オッケー? と指で輪っかを作って首を傾げて声に出さず、口の形だけを変えて聞いた。
すると、陽介は同じように指で輪っかを作って頷く。
「本当に、ご挨拶が出来なくてすみませんでした。……ええ、そちらの日時にお伺いしますので。紗希さんと一緒に」
「!?」
まさか、自分抜きで日時を決められてしまったのかと紗希は驚いた。
そして、そのまさかは当たりだった。
通話を切って陽介はスマホを紗希に返すと「三月にご挨拶に行くことになったから」とさらっと言う。
「ちょ、ちょっと待って! そんなことしたら、まだ婚姻届け出してないのがバレて……大変なことに……」
「今から出せばいいじゃない?」
「えっ、で、でも日取りというものが」
「今日は大安吉日。何か悪い要素でも?」
「……ない、けど」
「けど、どうしたの? 紗希らしくもない」
「……そういうのって、もっと大事に決めていくものだと思っていたから。仕方ないけれど」
紗希には紗希の思い描く、結婚への理想というものがあった。
今回の契約結婚のお陰で、それが叶わなくなるということを、ようやく今、思い知ったのだった。
「……ごめんね」
「いい。陽介は、悪くはない……。多分、ね」
紗希は窓の外を眺める。
外の色は、曇り空で少しばかり薄暗いようにも感じられたが、あたたかな陽気が確かに近づいてきているのを感じた。
もう、冬も終わりということだろう。
先日の出社前に散歩した公園で、もう一度散歩でもしてみようかと紗希は思った。
陽介を誘って公園を回れば、きっと楽しい、何かを見つけられるかもしれないと何故か思えたから。
複雑な思いが交差する中、二人は、お互いに歩み寄ろうと自然と努力し、やがてそれは努力をしなくても、足並みは揃っていくようになるのだった。
だが、それでも足並みが揃わないのは、契約結婚だから、だろうか。
期限付きの結婚だからだろうか。
自分達でもわからない、そんな気持ちの悪さが、まだ心にある。
そして慣れている陽介と違って、紗希は騙しているとそう感じ、周りへの罪悪感を抱えるのだった。
新しい季節の香りがする中、紗希は空を見上げるようにして陽介を見る。
陽介は、そこにいる紗希を確かに見ていた。
それが、二人の今出来る最大限の意志の訴え方なのだった。
目の色は、まだ互いにはわからないが……。