二人が結婚したことが職場に広まる。——瞬く間に。
驚愕するものがほとんどで、特に女性からの好奇の視線が強かった。男性はというと、ひそかに紗希のことを狙っていた者もいたが、あの社長が相手では自分は敵わないと撃沈する者しかいなかった。
もちろん、中にはそれでも好きですと思い続けることを決める者もいたが、そんな者に限ってあまり自信がないのだった。
そしてあの人がとひそひそ囁かれるような会社ではないのだが、それでも視線が痛いと感じる紗希は、いつもよりも陽介の近くに行くことで視線から逃れる。
なんとなく、大きな背中の陽介の後ろに隠れれば、それだけ視線から隠れることが出来ると思えたからだった。
それに、最近陽介と一緒にいると胸がどこかぽかぽかとするような気がする。
だから、自然と距離も縮まる。
二人は手を繋げるくらい近くにいて、その距離の近さが、結婚の発表がより現実味を帯びるのだった。
陽介は周りの目に気づき、笑顔で紗希の手をぎゅっと握りしめる。
「な、何ですか。社長。ここは、社内ですよ」
「えー、なんで? 可愛いのに」
「仕事とプライベートは分けてください。迷惑です」
「本当に?」
どこか寂しそうなその声に、紗希は陽介を見上げた。
しかしそこには寂しそうな表情をさせる陽介の姿などなく、悪戯に成功したような少年の顔をした陽介がいるだけだった。
ああ、やられた。なんとなく、負けたような気がした紗希。陽介はそんな紗希の手を握ったまま、社長室に向かう。
「視線が、みんなの視線があるので、やめていただけるとありがたいのですが」
「えー、みんな気にしてないって。大体、そんなんじゃ奥さんとしてこれからやってくのが大変になるよー」
社長室の扉が閉まると、陽介はようやく紗希の手を解放する。
「もう。いい加減にして」
紗希のちょっと怒ったような口ぶりに、陽介は頭に疑問符を浮かべる。
「陽介は、知らないかもしれないけれど……脚の長さ……」
紗希はそう言うと、陽介は自身の脚と紗希の脚を見比べた。
「ああ、そういうことね。ごめんね。気づかなくて。歩調が合ってなかったから、大変だったでしょ……。これは、僕のミスだね。ごめん」
「別に……そんなに謝ってもらわなくても、いい……けど」
「けど、どうしたの?」
「もう少し、夫婦らしくしないと、よくないんじゃないの?」
紗希の心配は、自分のためのものではない。
陽介の身を案じてのことだった。
もし、お金で契約してもらって結婚してもらったなどという噂が立ったら、藤堂グループ全体の問題になってしまう。
それこそあの会長が飛び出してきて、陽介を鍛え直すなどと言ってどこかへ連れ去ってしまうかもしれない。
でも、そうなったら一番非難を受けるのは陽介ではなく紗希なのだが……。
「そうはならないよ。ありがとう。心配してくれて。でも、もしそうなっても、紗希のことは僕が全力で守るから、安心して……」
「……」
「紗希は僕に言われた通りにしただけだって、そう言えば、全て終わるんだよ。だから、もしもそうなったら、そう言えばいい。もちろん! そうならないように、僕だって気をつける。だから、紗希は普段通りにしていてよ。美味しい朝ごはん作ってもらって、僕のくだらない話に付き合って……って、夫婦じゃなくなったら、それもなくなっちゃうか」
当たり前だよねと笑う陽介に、紗希は何も言えなかった。
ただ、陽介の何を考えているのかわからない笑い声だけが部屋の中に響いていた。
やがて、日が暮れて、二人は帰り支度をする。
帰り際、会う人全員にお礼を言われ、紗希はこんなにも堂々と嘘をつくことになるとはと思い、陽介はにこにことした笑顔を浮かべて「ありがとう!」とお礼を言って回って帰るのだった。
車に乗ると、陽介は両手を合わせて先に頭をぺこりと下げる。
「ほんっとにごめんね! もっとゆっくり歩くようにするから!」
「……私の方こそ、動揺してしまったから。いつもなら、同じ速さになるようにしているのに」
「……?」
「気づいてなかったの? 私、いつも歩く速さ、合わせてるんだけれど」
「……そっか。そうだった!」
陽介はどこか嬉しそうにそう言うと、車のエンジンをかけて静かに発進させる。
「紗希は、気遣いの出来るいいお嫁さんだね」
「ま、まだ結婚は……!」
「もうしてる、でしょ?」
「……そう、だけど。いえ、ううん。……そうだね」
夕焼けを見ながら、紗希はため息をついた。
そんな紗希の耳にあるピアスの星と月がきらりと光り、暗くなっていく中、二人を乗せた車は走っていく。
(なんか、こんな感じでいいのかしら……。簡単で、すぐに手に入ってしまう、幸せを模した生活……)
どこか、空虚な気持ちを胸に、紗希は窓越しに空を見上げた。
先ほどよりも、濁った暗い色の空が紗希を見ている。
月明りは、薄っすらとあるだけで……。