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   第十七話 無意識の偏見

 家に帰ってから、二人は食事をして、それぞれの部屋で思い思いに過ごしていた。陽介は横になって雑誌をぱらぱらと捲り、時計をちらりと見て時間を気にしながら過ごし……。紗希は明日のスケジュールを見ながら、どう動くかをイメージしながら眠りに就こうとしていた。

 しかし、紗希は少しばかり思うことがある。

 結婚したことで何か関係が変わってしまうのではないか……と。そこには不安と、期待の両面があった。

 良くも悪くも、この結婚がなければ、紗希にとって陽介は近づきがたい存在であり、秘書をしているからとどこまで話したり心に踏み入ったりしていいものかと悩んでしまうものだった。だから、今回のことがあって、よかったと思う反面、関係が変わることで悪い方向に何かが変わっていくのではないか……と思ってしまうのだ。

 それに、結婚して初めての夜が、こんなに寂しいものだとは思わなかった。

 あまりにも、いつも通り過ぎて。

 その思いは、紗希だけではなく陽介も持っていたのだが、お互いにそれを出すことは、当分先のことだった。

 そして次の日の朝、二人はいつも通りに出社する。

 すると真っ先に紗希が気づくことがあった。周りからの紗希への目が、明らかに違っていたのだ。

 特に、女性からの……。

 どうやって取ったのだろう。こんな、日本を動かしかねない人を。そんな風に思われているのだろうと思うと、紗希はまるですぐ横が崖の道を歩いているような気分になった。

「ちょっとちょっと。みんな、目が怖いよ。ほら、スマイル! 僕のオフィスでみんなそんな怖い顔しないでよ。美人さん、美形さんが台無しだよー!」

 陽介がそう言うと、その場の雰囲気は一気に和らぐ。

 どこかギスギスしていた雰囲気も、ギラギラした目つきも、柔らかくなっていつもと全く同じにはならないものの、大分柔らかくなったのだった。

 紗希は正直に助かったと心の中で思う。

 こんなにも、自分が羨望の眼差しに晒されることになるとは……と、紗希は恐ろしく思った。中にはその感覚が病みつきになる人もいるかもしれないが、紗希はそんなことは一ミリも思うことが出来ず、むしろそう思える人間がいるなら、代わってほしいとさえ思うくらいの気持ちだ。

 でも、みんなこうなら……友達はどうなるのだろう。友達も、先輩も、後輩も。

 みんな、紗希を避けるのだろうか。それとも興味津々でいろいろと聞いてくるのだろうか。どちらにせよ、紗希はあまりそれらを歓迎できそうにはなかった。

「今にね、慣れるよ」

 陽介は二人きりになると紗希にそう伝えた。

「慣れるって……、こんなの、慣れるわけが……。あなたみたいに、生まれついてのものじゃないし」

 紗希がそう零すと、陽介は寂しそうに笑う。

「僕も昔はそう思ってた。でも、ダメだよ。慣れてしまうから」

 紗希にそう言ったのは、陽介が既にそういった道を歩いてきたからだろう。

 そして、これからそういう道を行くんだと、道案内をするように教えたかったのだ。

 これからの困難も、一緒に行くから。案内をするからと。

 紗希はそんな陽介と一緒に歩いていかなければならない。いばらの道とわかっていながら、歩くことを決めたのだから。

 そして、もう歩き始めてしまった。

 その足を、止めることはもうできないだろう。

「もし、私がこんな生活嫌だと言い始めたら?」

「それは、困るよ。契約と違うじゃないかって、そう言うしかないね。悪いけれど、中身を確認しておきながらそういうことをしてくるのはいくら何でも、ね……。まあ、紗希はそういう風に確認取って来るけど、絶対にしない子だって、わかってるから」

 陽介のその言葉は、優しい棘のある言葉だった。

 まるで、もう逃げられないんだよと言いながら、真綿で首を絞めるかのような、そんな雰囲気のある言葉だった。

「……わかってるわ。そのくらい」

「紗希、その内さ、花見にでも行こうか。二人きりで。そうして、この世界へのあれやこれやと話して、楽しもうよ」

「……そんな暗いの、嫌。どうせなら、本当に楽しいことの方がいい」

 紗希のその言葉に、陽介は優しく微笑んで頷いた。

「それもそうだね。じゃあ、本当に楽しいことをしよう。庭にさ、桜が植わってるから、その下で何か敷き物をして……、三色団子でも食べる? 紗希の好きなお茶を煎れて……」

「……いいかもしれない。でも、私達、本当の夫婦じゃないじゃない。それなのに、いいの? 本当の奥さんになる人のために初めてのお花見、取っておかなくて」

「え? ……なんで初めての花見って」

「やっぱり」

 紗希はくすりと笑った。

 ああ、この人とならきっと楽しいだろう。

 ……本当の、この人の大切な人であるならば。

 自分には、その資格など、ありはしないけれど。

 でも、そんな自分が、この人からそんな幸せを奪うのは、なんだかもったいなくて、気がかりで……。

 そう思う紗希は、その日、仕事が手につかなかった。

 休憩時間も、同僚達にどう接したらいいのかわからなくなってしまったと言わんばかりに遠巻きに見られ、急にひとりになってしまったから、少しだけ、紗希は寂しかった。

 そんな紗希に、陽介は何かできないかと考える。

 そして、あることを思いついたのだった。


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